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「生産的であること」の範囲を広げて、捉え直す プラユキさん、坂口恭平さん、山崎ナオコーラさんの言葉が教えてくれたこと
昨日、タイのお寺の日本人僧侶、プラユキ・ナラテボーさんのSkype個人面談を受けた。
プラユキさんは、日本の大学で哲学を学ばれ、NGOでアジアの農村支援の活動に関わる中、タイで開発僧に出会い、自らも出家された方。これまでも、著書を出版された際の出版イベントでお話を伺ったり、個人面談を受けたこともあった。
先日、生産的であることにとらわれている自分にもやもやしていたところ、プラユキさんがSkype個人面談をされると知り、さっそく申し込んだ。
(「わたしの課題 生産性とか無為とか」)
ひさしぶりにお顔を拝見したプラユキさん、にこにこと穏やかに頬まれていて、一目見ただけで気持ちがほぐれた。スクリーン越しに、やわらかく、朗らかな空気が流れてくるようだった。佇まいだけでひとの心を和らげるって、すごいことだと思う。
家族と一緒に健やかな毎日を送れるだけで充分なはずなのに、「生産的」なことをしないまま1日が終わると「無為に過ごした」というような焦燥感に駆られることがある。生産性という概念に反発しながらも、とらわれてしまっている、というようなことをプラユキさんにお話した。
(正確にいうと、当てはめるべきではないところにまで、「生産性」という概念を持ちこんでしまっている)
プラユキさんは、次のように答えてくれた。
生産するのであれば、本当に価値のあるものを、ひとの役に立てるようなものを、つくらないといけませんよね。そういうものをつくるのは簡単なことではないし、じっくり取り組む必要がある。そのための、時間だと思うのはどうでしょうか。
そのほかにもいろいろなお話をさせてもらって、Skype個人面談を終えた。その直後に目に入ってきたのが、坂口恭平さんの以下のつぶやき。
僕は奇跡の生産野郎で生産のことしか考えてないけど、フーは一切生産しようとしない、静かだなあと思ってちらっと覗くとただ止まってたりする。そのたびに僕は自分が生産に取り憑かれてるやつなんだなぁと思う。フーはブラジル奥地のナンビクワラ族みたいに何にもしなくても幸せそうだ。よく熟睡してる
— 坂口恭平 (@zhtsss) June 14, 2020
フーはTwitterもしないし本も読まないし、展覧会観に行ったりもしない。ジュエリー作るの天才なのにほとんど作らない。歌うのも天才なのに歌はつくらないライブもしない。おれの生きがいをほとんとしないのだけど、とても幸せそうで、そして20年付き合っているが寝れないという言葉を聞いたことがない
— 坂口恭平 (@zhtsss) June 14, 2020
フーの幸福論についてインタビューする価値があると思っているが、ここでまた僕は生産について考えている。なんにもしないで幸せな人ってどういう精神してるんだろうか気になる。我が家はこのバランスで成り立っているんだろう。
— 坂口恭平 (@zhtsss) June 14, 2020
わたしは、(坂口さんの奥様の)フーさんのようなひとに憧れている。生産性だとか、無為だとか、口にするどころか、ちっとも考えていなさそうなひとに。保坂和志さんの『この人の閾』の真紀さんのような。
でも、これまでずっとそう願ってきたのにいまだになれていないということは、この先もなれない可能性がきわめて高い。だから、憧れは保ちながらも、生産性のとらえかたを変えるほうがよさそう。
坂口さんのツイートにメンションしてたこの方のつぶやきにも、すごくしっくりきた。
気になります。坂口さんが"生産"を何だと定義しているかによって、"なんにもしない" の正体も立ち現れるのかと思います。すべての主体は、実は存在しといるだけで相互に作用している、なんて言葉もありますよね😊
— Reika Nishi (@renish67) June 15, 2020
"生産"を何ととらえるか。どの時間スケールで切り取るか。
そういえば、親しいひとにも似たような言葉をもらったことがあって、そのときもはっとなり、すごく嬉しくなったのを思い出した。
(そのときも何も生み出せていない、というようなことでくるしくなってしまっていたので)
と、ここでもうひとつ、坂口さんのこのツイートも発見。
新作『自分の薬をつくる』より。編集部から公開していいですーって言われたので、ちょこちょこ出していきまーす。これは、みんなインプットは適当に雑食的にやるのに、なんでアウトプットはそうしないんかって話。 pic.twitter.com/m1H00ACefD
— 坂口恭平 (@zhtsss) June 15, 2020
適当なアウトプット!たしかに。。。アウトプットとなると急にあらためるって、わたしもまさにそのタイプ。すぐに学校に通ったり先生に習おうとしてしまう。。
こうやって書いているうちに、「生産的」という概念そのものを、わたしはものすご〜く限定的な範囲で受けとめてしまっていたんだなあ、ということがどんどんわかってきた。もっともっと広くて、豊かで、深い世界だったのに、わたしにみえていないだけだったのかも。とらえかたを「変える」というよりは、「広げる」というか。
これって、山崎ナオコーラさんが『リボンの男』などの作品で扱っていることとも、重なってくるように思う。有償の仕事に過大な意味づけをすることからの解放とか、働いてない女性が「社会から取り残されているように感じる」ということへの疑問の投げかけとか(社会は有償の仕事をするひとたちだけの場なのか?子育てだって社会じゃないのか?)。
なんだか、言葉の意味を勝手に狭めてひとりよがりな解釈をした挙句、そのことによって随分長くとらわれて、勝手にくるしんでいたような。。ちょっとぽかんとしてしまうくらい。でも歳を重ねていくって、勝手にとらわれていたものから、ひとつずつ自分を解放していく営みでもあるなあ、とも思う。