余命1年と思って生きる
去年、ほぼ日手帳(HON)を買ってから、1ヶ月カレンダーのところ、週の初めに「52/52」から「0/52」までをカウントダウンで書き込んでいる。
ちなみに今週は「25/52」である。
これは1年を52週として、自分の誕生日から次の誕生日までの1年間を【余命のこり1年】として生きてみようという試みである。
当初は40歳になったときに、あと2000週間しかない(寿命が80年だと多めに見積もって)と思って始めたものの、2000週では実感がもの足りず、52週でがんばることにした。
私は秋田県北秋田市の森吉山麓で、多種多様な生き物の息吹を感じながら日々暮らしている。
ここには、日本独特の狩猟採集文化であるマタギの文化がしっかりと根付いている。
山と人がひとつの命を分かち合うように、祈りとともに自然の恵みを「預かる」――そんな姿を、子どもの頃から肌で感じてきた。
今、もし余命が1年だと宣告されたなら、そしてその1年を52週という数字でカウントダウンするのだとしたら、わたしはいったい何を見つめ、どこへ向かうだろう。
実際、わたしは毎週欠かさず、カレンダーに印をつけている。最初は「あと52週」「あと51週」という具合で、まるで冗談のように思えた。
しかし、週を追うごとに“生き残り時間”が減り続けると、心のどこかにいつも緊迫した小さな声が響く。
「あと30週しかない」という文字にペン先が触れたとき、わたしは文字どおり手が震えた。突然、新しい物を買う気が失せてしまったのだ。服や道具よりも、いまこの瞬間をどう使うか――そちらばかりに目が向くようになった。
残り30週。およそ半年あまり。その時間をどう燃やすかが、わたしにとって最大の課題になった。
もう「あとでやろう」「いつか行ってみたい」などという先延ばしの言葉は、言い訳にさえ聞こえる。どうしてもやりたいことがあるなら、今やるしかない。
やりたい理由が思いつかないなら、思い切って手放す。
そんなふうに、自分の人生の優先順位がはっきり見えてくると、かえって驚くほど身軽になることに気づいた。
山へ入ると、残り時間への焦りはなぜか薄まっていく。
予測不能な天候や、急峻な斜面を一歩一歩登るこの行為には、ただただ「いま」を生きることしかできない厳しさがあるからだ。
過去の後悔や未来の不安に押しつぶされそうになっても、足元の土の感触と呼吸の音に意識を集中すると、わずかに心が静まっていく。
山は人間の都合を待ってはくれない。
それでも山に分け入るマタギたちは、祈りを捧げて自然と語らい、「預かった」命を大切に循環させる。きっと、その厳粛なやりとりこそが、わたしを捉えて離さないのだろう。
無情にも、「あと29週」「あと28週」と時間は進む。自分がどれだけ必死にしがみつこうと、カレンダーは止まらない。「一日一日が奇跡なんだ」と自分に言い聞かせるようになってから、何気ない風景がまるで宝物のように輝きだした。
朝、目が覚めるだけでありがたくて、窓を開ければ山の稜線に薄い朝もやがかかっている。
それだけで胸が熱くなる。コーヒーの湯気を見つめれば、「これが飲めるのもあと何日かな」などと思いながら、その香りに全神経が集中してしまう。集中というよりは、焦燥に近いのかもしれないが、少なくとも、ただ惰性で一日を流すような生き方とは決別できている。
自分を律するのは、実はそう簡単なことではない。
わたしにも、投げ出したくなる夜がある。山で遭難寸前の体験をしてから、どうしても足が竦む日だってある。
「あと○週しか生きられないなら、家に閉じこもって思いっきり泣いて過ごすのもいいじゃないか」と開き直ることもある。
けれど、その真っ暗闇な絶望の夜を越えるたび、目を覚ますとやはり山を恋しく思う。生きることは、山を愛することと同じくらい、尊いのだ。
そんなふうに悶々としながらも、わたしは瞑想や筋トレを毎日続けている。正直、終わりが見える人生だからこそ、「心と身体を律すること」に必死で意味を見出そうとするのだろう。
マタギの先人たちのように、自然と共にあることを魂の底から信じ、いつかその想いを後世へと渡したい。
山が、そして森が、わたしに寄り添いながら「まだまだ」「知った気持ちになるな」と励ましてくれている気がしてならない。
あまり新しい物を買わなくなったのは、限られた時間のなかで“本当に必要なもの”がごくわずかだと分かったからだ。
結局、それは物質ではなく、「やりたいこと」や「大切にしたい人たち」との繋がりに集約される。残りの30週を噛みしめるように生きるうち、それ以外のものは二の次に思えてきた。
わたしは自分の人生の“本質”を、わずかながらつかみかけているのかもしれない。
いつか本当に寿命が尽きるその時まで、きっと人は未完成のままだ。
だが、未完成だからこそ、いまここで少しだけ背伸びをし、変化を恐れず進むことができる。
焦りも怖れも抱えたまま、それでも足を動かし、目の前の景色に心を奪われる。
そうやって毎日を燃やすように生きれば、短い人生に深みが宿るのではないか。マタギの山で学んだ祈りと共生の精神こそ、わたしの胸を支える柱になっている。
残り時間が30週から29週、そして28週へと、音もなく減っていく。
けれど、わたしの心はむしろ明るくなっている気がする。
いつ終わるか分からないからこそ、いまを最後まで生き切る。
マタギたちの祈りに倣い、山の神と語らい、余命を数える自分をも赦す。
新しい物を買わない代わりに、1日のなかで見つける数えきれないほどの「尊い瞬間」を、かき集めるように抱きしめて進んでいくのだ。
わたしの魂は、きっとまだ燃え足りない。
燃え尽きるときが来るまで、山とともに、祈りとともに、未完成のまま、わたしは走り続ける。
ちなみに今日(2024年12月24日)は長女の14回目の誕生日。本当におめでとう。そして、ありがとう。