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都会的スピリチュアルとマタギ的スピリチュアルの違い

今日はなんとリクエストでいただいたお題です。
同じ秋田県出身というご縁もあり、インスタでやりとりをさせていただいているレザー作家「TOMY」さんからの特別オーダー。
↓(TOMYさんのホームページ)

人間世界でのいわゆる
“スピリチュアル”と
マタギの世界、山の中で感じる
実際に感じるスピリチュアル
みたいな
違和感や通ずる部分を知りたいです。笑

Instagramのダイレクトメッセージより

(晒してすみません、きっと許容範囲のはず…)
私はマタギ文化をテーマとした宿屋をやっているので、マタギの精神世界を深く知りたいというお客様もいらっしゃいます。特に欧米豪のお客様は、神仏習合というか、マタギ独特のスピリチュアルな部分に興味津々な方が多い印象です。でも、それを「人間世界でのスピリチュアル」と「山の中でのスピリチュアル」で分けて考えたことがなかったので、これは良い機会(チャンス)をいただいたと思い、無い知恵を絞ってポトポト書いてみました。

人間世界でのスピリチュアルをここでは便宜上「都会のスピリチュアル」と定義して、山の中との違いを考えてみたいと思います。
そして、都会のスピリチュアルを、いったん人間の根源的な欲求や文明の変化・進化と絡めて捉え直してみると、そこには「自分では制御できない大いなるものを何とか自分の理解や技術の射程圏内に収めたい」という意識が感じられるのではないか、と仮説を立てました。

人間の大部分が住む都市は、多数の人口を効率よく支え、快適に暮らせるように整備されてきましたが、その過程で「人間の手で管理できる範囲」がどんどん拡大してきたとも言えます。気候をコントロールするまではいかずとも、エアコンやヒーター、上下水道、広域交通網などを駆使すれば、多くの自然脅威から逃れながら安定して暮らすことができるようになりました。そうした状況では、必然的に「コントロールできない自然」や「不可視の力」に対する恐怖は目に見えて減少するでしょう。人間にとって快適な温度・湿度が保たれることが当たり前になった時代。

私たち現代人は、都市の合理的なシステムとテクノロジーに囲まれ、無数の選択肢や情報を駆使しながら暮らしています。仕事や家事、趣味や人間関係まで、「自分の努力次第でどこまででもコントロールできる」というイメージは、多くの人にとって日常の前提のように感じられるかもしれません。そんな環境で育まれた都会型のスピリチュアルは、「日々のストレスを軽減する」「自分自身を高める」「願いを実現する」といった、人間の都合に沿ったテーマを扱うことが多いと言えるのではないでしょうか。引き寄せの法則やパワーストーンなど、理論やメソッドを駆使して目に見える効果を追求しやすいからこそ、現代社会では受け入れられてきた側面があると思います。

しかし、自然にはそもそも「人間の都合などお構いなしに振る舞う力」が備わっています。天候の急変や地形の過酷さ、動物の予測不可能な動きなど、そこでは「どれだけ準備していても想定外のことが起こる」というのが当たり前。マタギの世界観は、まさにその“自然の絶対性”を前にしたときに培われてきました。驚くべきは、彼らはそうした自然に「抗う」のではなく、むしろ「山の神様に命を預けて歩く」という言葉で表現されるように、自分の存在ごと預けてしまうという姿勢をとることです。

この「命を預ける」という感覚は、単なる受け身の諦観ではありません。マタギは長年培われた狩猟の技術や知恵を最大限に研ぎ澄ましながらも、「最後の最後は、人間の力ではどうにもならない瞬間がある」という大前提を決して忘れないのだと教わりました。例えば、突然の天候悪化に見舞われれば、下山を断念し、山中で一晩過ごさなければならない時もあります。熊の痕跡を追うときも、相手の気配を繊細に感じ取らなければ、自らが命を落としかねません。それでもなお、マタギは山に入ることをやめません。なぜなら、山は同時に恵みをもたらす場所でもあり、人間の生活が深く根ざした“一体感”の中で成り立っているからです。人と自然、動物、目に見えないものたち、それらの限られた存在を超えたとき、言葉では言い表せない壮大な存在を垣間見ることがあります。

いったん単純化してみますと、都会のスピリチュアルはどこか「外側」から観ているような感覚。マタギのスピリチュアルはその「内側」に自らを放り込んで洗濯されるような感覚、とも言えそうです。

ここにあるのは、自然の圧倒的な力に対する畏怖と共感、そして“分からないまま”共に生きる覚悟です。山には、動物や植物、目に見えない微生物や精霊までが入り混じり、私たちの想像を超えた営みを繰り広げています。マタギはそれを「すべて理解し、制御する」などとは考えず、一歩一歩の足取りの中に命を込め、必要最低限の備えをして山を歩く。そして最後には、「山の神様が良しとすれば獲物を授かる」「山の神様がNOとすれば、命からがら下山することになる」という、不確定性を丸ごと受け止めていることに気が付きました。

このような態度は、都会のスピリチュアルが前提としている「自らの意志と行動で理想を実現する」という発想とは対照的かもしれません。何かは、何かの因果によって起きている。前世の行いだったり、背後霊のおかげだったり。しかし、どれもこれも人間人間。人間賛歌の物語にすぎません。だからこそマタギの霊性には、都市生活者が忘れかけている「人間を超えた大きな循環の前で、自分の小ささを知る」感覚が凝縮されています。都会的なスピリチュアルが私たちを助け、心の支えとなってくれるのは事実です。忙しなく変化する社会の中で、自己肯定感や癒やしを得る方法を多くの人が必要としているからこそ、理論やメソッドを使って“わかりやすく効果を出す”都会型スピリチュアルは、大きな意味を持っています。オーラの泉のように、背後にあるもの、前世からつながっているもの等、ある種の講義は必要な人の心を助けてくれるものであることは疑いようがありません。

しかし、そのいずれも人間中心の枠組みを出ることは稀です。自分の願いや思いの強さを重視するあまり、私たちは「分からないことだらけ」という前提を見落としがちになってはいないでしょうか。自然とは、本質的に「人間が全容を把握することができない」対象であり、死や生態系の不可解さ、動物や植物それぞれの“意志”といった、つかみどころのない要素に満ちています。マタギは、これらを“どうにかして制御する”というアプローチではなく、“命を預ける”という形で受け入れています。いわば、自分自身をいったん解きほぐして、山や動植物の営みに溶け込みながら歩く(祈る)のです。

たとえば、熊に遭遇したときの緊張感は想像を絶するでしょう。けれども、マタギにとって熊は、ただの「怖い存在」でもなければ「資源」でもありません。そこには「命を共にする存在」という、ある種の相互関係が見て取れます。マタギのおじいちゃんたちはよく言います。「この地域は熊のおかげで生き延びることができた場所なのだ」と。熊を獲物として仕留めれば、その肉や皮をいただき生活に役立てると同時に、熊の命を奪う責任を背負うことにもなります。熊が人間の意図など気にせず、ある瞬間には人間を脅かす存在になることも含めて、マタギは「熊という生き物そのもの」を敬うのです。これは、動物がどのような思いで生きているかを想像し、森や山の循環の中で果たす役割を直感的に理解しているからこそ成り立つ関係と言えるのではないでしょうか。

私自身が体験した出来事として、初めて熊を撃たせてもらったときの熊の姿が忘れられません。こちらに向かって来ていたものの、私がまさに銃を撃とうとしたそのとき、ヒラリと体を返して後頭部を見せてきたのです。そのとき私は瞬間的に熊が「もう命はくれてやる」「ここを外さないで撃て」と言っているような気がしたのです。その熊に対する感謝の念は、時間が経つごとに消えるどころか増していくばかりです。

こうした山での出来事を通じて、マタギは常に「自分は何者なのか」「自然の中でどう生きるか」を問い続けます。答えが出るわけではありませんが、「分からないことだらけだからこそ山に学ぶ」という意識は一貫しています。この“学び”の深さは、都会のスピリチュアルが提供する「メソッドを実践すれば手に入る安定」とは異質のものであり、むしろ「不安定さに身を置くこと」を通じてしか得られない“根源的な安心感”とも言えるでしょう。

もしあなたが、都会の理論的なスピリチュアルや快適な文明生活にある種の物足りなさを感じているなら、マタギと一緒に山を歩くという体験は、まったく新しい視野を開くかもしれません。

急峻な崖から吹き抜ける風、木々の枝の狭間を駆け抜ける動物の足音、いきなり訪れる静寂…。いずれも、人間にはコントロールし得ない瞬間の連続です。それらを「分からないまま」全身で感じているうちに、「どうやったら上手く切り抜けられるか」ではなく、「いま自分はここで生きている」という厳粛な自覚が芽生えてくるかもしれません。そこでは、あなたも山と、あるいは山に息づく生き物たちと、一体になっている感覚に包まれるでしょう。

言葉では言い表しにくいマタギ的なスピリチュアル。自然崇拝の一種で、山を神聖な場所として捉え、自然との調和を大切にする考えが根底にあります、それは生命力に満ちた山を神聖な場として捉えて、山と共に生きることが使命だと信じる心から滲み出てくる気持ちなのかもしれません。

結局のところ、都会型スピリチュアルは現代人の心に寄り添う大切な存在です。一方、マタギの世界観は、その対極に位置しながら、私たちが失いつつある「分からないものを分からないまま受け入れる」という心の隙間を示してくれます。

山を歩くとき、「山の神様に命を預ける」というのは、一種のリスクテイクではあるものの、その先には人間をはるかに超える大いなる循環が広がっています。山での一瞬一瞬を生き抜く体験が、実は私たちの思考や感情をひっくり返し、新しい一歩を踏み出す力をくれているのかもしれません。

ぜひ、TOMYさんにも一緒に山を歩いてみてほしい。そうすることで大都会の“人間中心の世界”についても、以前より豊かな視点で見つめ直すことができちゃったりするのでは。なんて思ったり思わなかったり。

今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。いつもより緊張して書きました。

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織山英行@マタギの足跡を辿る命の山旅
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