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日本縦走――39歳、徒歩で日本縦断登山旅

はじめに

「今日はどこまで行けるか……」
「テントを張れる場所は……」
「次はどっちへ行こうか……」
「出会いに感謝!」

 徒歩で日本縦断と聞いて、そのような冒険をイメージされた方には、この本はおそらく期待外れだと思います。
 あらかじめ細かくスケジュールを立て、キャンプ場やテント場、旅館に行儀良く泊まり、あまり人に頼らず、なるべく静かに歩いてきました。
 さらに断っておくと、完全な徒歩ではありません。4月スタートで9月ゴール。北海道で本格的に雪が降り始める前に終わらせるため、自分が1日に歩ける距離や登りたい山を吟味して、途中何度か電車やバスでスキップしました。もちろん海はフェリーで渡ります。
 人様に見せる「企画」としては、野宿をしたり、人に助けられたり、完全な徒歩での踏破にこだわったほうがきっと面白いのでしょう。しかし、これは自分が全国の山を楽しむための旅です。
 根性より快適さ。冒険より勝率。傍目には地味かもしれませんが、自分自身はとてもワクワクできる旅でした。

 第1章は着想と計画、第2章は各種の思い出深いエピソード、第3章は全体の感想や今後の計画などをお話しします。
 ここまで敬体(です・ます調)で書いてきましたが、思考のニュアンスをできるだけクリアに伝えたいので、本文では常体(だ・である調)を用います。ご了承ください。



第1章 着想と計画

1.旅立ちの日の回想「典型的な陰の者」

 2023年4月3日朝7時、大型ザックを担いで、片倉駅から横浜線に乗る。
 発車ベルのメロディーが懐かしい。高校時代は菊名で東横線に乗り換えて、学芸大学前から学芸大附属高校に通っていた。

八王子の隣駅

 名門に通う落ちこぼれだったと思う。3年のクラス演劇で脚本を書かせてもらった時だけ一瞬楽しかったが、それ以外はろくなことがなかった。身だしなみにも気をつかえない、典型的な陰の者であった。
 つまずいたのはたぶん中学の時だ。小学校までは、家であまり勉強しなくても100点が取れる子供だった。そういう子が英語の壁にブチ当たるのはよくある話で、苦手なら勉強すればいいのに、当時は苦手だからとゲームばかりやっていた。語学への苦手意識は大学まで続き、中国語の単位をどうやって取ったのかまったく覚えていない。
 高校3年のクラス演劇が大盛り上がりした余波で、大学に入ってすぐ劇団を結成して、定職につかず、14年ぐらい続けた。結果、ズタズタになった。たまたま生還できたけれど、65%ぐらいの確率で心を壊していてもおかしくなかったと思う。それは自分の所為であることも多いし、演劇から得たものもたくさんあるけれど。
 その得たものの一つが「縁」で、ライターの仕事を紹介してもらったり、劇場のバイトに雇ってもらったりして、劇団解散後も定職には就かず、ライター業と簡単なバイトの掛け持ちをずっと続けていた。
 脚本はもうヤメだ。小説で人生逆転しよう――などと強く思っていたわけではないが、やっていたことを客観的に要約するとそうなる。冷静に考えれば諦めるべきだ。演劇人として成功して小説も出した話は聞くが(本谷有希子さんとか)、転身して上手く行った例は聞いたことがない。
 ともあれ、小説を書いていた。ある時、極地探検の話を書くことにした。しかし、思い出されるのはRPGのことばかりで、自分自身に野外の経験がほとんどなかった。何を思ったか、テントを背負って川沿いや離島など「平地」を歩く旅は20代の頃に何度かやっていたけれど、その環境は野外より町に近い。
 そこで、都心からアクセスが良く、登山初心者向けとされる丹沢の大山(1252m)とやらに行ってみることにした。

 気付いたら、毎週末、山に通っていた。

 小説関連のイベントで知り合って、電子書籍の表紙をデザインしてくれていた杉浦さんが、たまたま筋金入りの山ヤで、初期は同行してくれた。彼が「教えたがり」でなかったことはすごく大きい。自分で計画して自力で知見を積んでいくのが楽しかった。

地図読みを覚えたら世界が広がった

 近郊の山はさんざん歩き回って、八ヶ岳や北アルプス、青森にも遠征に行き、もっとあちこち、日本中の山に行ってみたくなった。けれども、いちいちアプローチして帰ってくるのではお金も時間もかかり過ぎる。「じゃあ帰らなければいいのでは?」と考え、日本縦断の構想が始まったのである。

 電車は7時55分に東神奈川の駅に到着。このあと僕は京急線に乗り換えて羽田空港に向かうのだけれど、この章では「事前に何を考え、どんな準備をしたのか」をお話ししていきたい。もうしばらく回想が続く。


2.舞台と登山「どちらも金がかかるなら」

 約400万円。2021年秋時点での僕の貯金である。それが、11月末の演劇公演で一気に300万円を下回った。

 このド赤字の原因は、複合的であって一言では言えないけれど、やはりコロナの影響は大きかった。当時はまだ稽古場でも通し稽古以外マスクをしていて、どこそこの劇団が公演中止に追い込まれたという話を頻繁に耳にするような状況。うちは運良く無事上演できたが、シンプルにお客さんが入らなかった。
 お世話になっていた劇場さんは「ほとんどの利用団体がガラガラ」と言っていた。舞台監督さんは「今はもう小劇場の仕事がほとんど無くて、2.5次元ばかり」と言っていた。古き良き小劇場は死に体であった。
 僕が思うに、コロナを恐れてお客さんが来なかったのではない。エンタメの形が変容した。
 小劇場は商業の大規模な興行と異なり、「掘り出し物を見つけるピンキリのサラダボウル」・「成長していくさまを応援して楽しむコンテンツ」である。YouTuber・VTuberは完全にそれ。小劇場のチケットやチェキが本人にいくら届くのか定かでないのに対し、スパチャは――少なくとも見た目上は――Googleの手数料が引かれた上で――本人に直接投げられる。
 閑話休題。とにかくこのド赤字は、「舞台も登山も金がかかるなら両方は無理だ」「山にかけよう」と僕に決断させるには充分であった。日本縦走を決意するのはその年明けである。

 出発まで1年3ヶ月。
 早めに決めたことで、その年に行くべき山も自然と決まってきた。来年通るところは今年行かなくてもいいのである。
 具体的には、九州・四国・近畿と東北の日本海寄りは来年行ける。今年のうちに行っておくべきなのは、アルプスと八ヶ岳、赤城山、箱根……と、都心から比較的アクセスしやすいエリアに絞られた。
 絞られた、と言ってもまだかなり広い。それに、行きたい山があと2つあった。
 一つは、新潟と群馬の境に位置し、利根川の水源を有する大水上山(1834m)。20代の頃、河口の犬吠埼から利根川沿いに湯檜曽駅まで、2週間かけて歩いたことがあった。当時は「登山」には手を出していなかったため、道路を歩いて行ける湯檜曽が限界だったが、今ならその続きがやれる。

利根川の最初の一滴が溶け落ちる雪渓

 もう一つは、青森の白神岳(1232m)である。正確には、白神岳に登って、十二湖の一つ「青池」に下りる、ということをやってみたかった。青池は中学か高校の頃に車内広告で見て、いつか行ってみたいと憧れていた。日本縦走で青森は日本海側でなく八甲田山を通る。

青池は本当に青かった

 その時、バイトのシフトは月・火・水・金としていた。始めた時点で土日は別の仕事をしていたためなのだけれど、そちらはすでに退職しており、偶然にもこのシフトは山をやる上で完璧であった。金曜に休みを取れば木・金・土・日の4連休となる。
 夏、有給を遠慮なく使って、遠征しまくった。
 シーズンを終えると、貯金は250万を切っていた。
 遠征費だけではなくて、日本縦走で使う携行性の高いパソコンなど、新しい装備を買うなどもしたのだけれど、とにかく山のために50万ぐらい使った。
 行きたい山域を絞った上でその結果である。同じ生活を続けていたら4年以内にパンクしたであろう。雪山に手を出せば2年ぐらいかもしれない。
 冬、2022年の末から2023年の3月にかけても、「雪山」ではないが、何度も泊まりがけの山に行った。日本縦走では雪解けと共に北上していくので、残雪を踏む可能性が高く、軽アイゼンの熟練度を上げておく必要があった。

霧氷を見上げながら神奈川県最高峰の蛭ヶ岳へ

 日本縦走の予算は、1日1万円×半年間で180万円と設定。
 旅を終えて手元に残るのは50万程度だろうと予想された。ライター業の案件や、なんとか収益化に漕ぎ着けていたYouTube次第ではあるが、いずれも水モノであり当てにはできない。
 家庭を持つ気がなくても、突然働けなくなった時などに備えて、最低100万円は備えておきたいと長年思っていた。いや、それは今でも思っている。


3.訓練と地図「長年の夢だったんですか?」

 訓練というものは漠然と、あるいはがむしゃらにやっても意味が薄い。
 リハーサルは完全に本番と同じ条件で行うこと。そうしないと必ず本番でボロが出る。これは演劇から学んだことの一つだった。
 日本縦走と名付けた挑戦への訓練として、2022年は「長い下界歩きを含む登山」を頻繁に行った。
 その結果、色々なことがわかった。

・下界にも相当な勾配がある。町の中心地と登山口の標高差は、すでに登山と言えるほど大きいことが珍しくない。
・Googleマップの徒歩の予測所要時間は時速4.8kmで計算されており、荷物を背負った状態ではまったく当てにならない。
・16kg以上の荷物を背負った時の僕のスピードは時速3km強となる。(本番ではすぐに順応して時速4km弱になった)
・山では有酸素運動が停止しないように立ち休みを基本としていたが、アスファルトから来る足裏のダメージは座らないと回復しない。
・トレッキングポールは、山では1本、下界では2本が使いやすい。(本番では腰を怪我した後、山でも2本使うようになった)
・下界において、トレッキングポール使用時と不使用時では微妙に足の使い方が異なる。たまに使わずに歩くと膝周りが凝らずに済む。
・トイレには行ける時に行っておくべき。
・スーパーやコンビニは、無いところには徹頭徹尾無い。事前確認必須。
・地方には「車両専用ではないが歩行者の存在は実質無視されている道路」がしばしばある。ドライバーから視認されやすいコース取りや、走行音から大型車を察知しての回避など、車に轢かれる確率を下げる工夫が必要。

 これらのことは、山中を歩く「縦走」を繰り返すだけではわからなかっただろう。
 さて、最も重要なデータ「一日に歩ける最長距離」は、40kmと見定めた。もちろん、重装備かつ翌日も長距離を歩く想定である。一日気合いで頑張れても翌日死んでしまうなら意味がない。
 というわけで、一日30km前後を目安に、Googleマップで鹿児島から旅の計画を組んでいった。

 山に関しては、すでに身体データは揃っていた。
 行動速度は重装備・休憩込みでコースタイム(登山地図に表示されている、休憩を含まない標準所要時間)の等倍。最長行動時間は10時間程度。
 7月以前の高所は避けて通り、9月下旬までにゴールすれば、本格的な雪山の技術は修めなくていい。崖登り・沢登りもやらない。
 ではどこの山でも登れるかというと、一つ欠けているものがある。土地勘である。
 ネットで検索すれば、「文字情報」や「概念図」でのアプローチ方法はいくらでも出てくる。が、知りたいのは「簡略化されていない地図上での町・登山口・山の位置関係と道路網」なのだ。それには定番の『山と高原地図』が一番良かった。
 行くかもしれない山域の地図を片っ端から購入。ルートを選んで、宿の目星をつけ、チェックポイントをGoogleマップでピン留めし、下界歩きと登山を繋げていく。

例:34kmなら歩ける

 現地での地図はGPSアプリを使うことにした。せっかく買ったし、本当は紙のほうが自力感があって好きなのだけれど、大半が初見の山なので、やはりGPSで現在地が確定する安心感はデカい。それに、10枚以上となるとさすがに嵩張る。
 下界での地図は当然Googleマップ。つまり、上でも下でもスマホを酷使することになる。
 その時持っていたスマホはだいぶ年季の入ったiPhone X。いい機会だったので、最新のiPhone14に機種変更し、古いⅩを処分せず、地図(及び暇つぶしのKindle)専用として使うことにした。契約の終わったスマホでもWi-Fiがあれば小型PCのように使えて、あらかじめ地図を落としておけばGPSアプリは圏外でも使用できる。

 機種変更の際、auショップのお姉さんに、流れで少し日本縦断の話をしたら、「長年の夢だったんですか?」と言われた。
 ごく最近の思いつきであって、長年温めていた夢ではなかったので、「ええ、まぁ……」と、変なリアクションになってしまった。夢ということにしておけば良かったと少し反省している。


4.仕事と実家「行かない理由を並べても」

 早朝のバイトとライター業の掛け持ちという生き方がとても性に合っていると思う。文章を書くのは好きだけれど、一日中座っているのはしんどい。
 ライター業は旅をしながら続けられるし、バイトは探せばいくらでもある。学歴という印籠のおかげか、面接で落ちたことがほぼない。
 というわけで、当時のバイトは辞め、豊島区の部屋を引き払い、八王子の実家に不用品を置いて旅をし、帰ってきたらしばらく実家に住んでまたバイトを探すことにした。

 ただ、その時やっていた小型スーパーは、作業内容がほどよく頭と体を使えて、すんなり有給が取れて、同僚はいい人ばかり……と、非常に環境が良く、続けたい気持ちは結構強かった。バイトは探せばいくらでもあると言っても、新しいところへ入るたびに内容ガチャ・店長ガチャ・同僚ガチャ・常連ガチャの引き直しになる。
 住んでいた部屋への未練も少しあった。池袋駅が一応徒歩圏内で、バス・トイレ別の1Kで、月6万を切る物件はおそらく希少。都心って、実は山が近い。もちろん山の麓に住めばその山にはすぐ行けるけれど、他所の山が遠くなる。都心は東京西部・神奈川・山梨・埼玉の山に日帰りで行けて、北へ遠征するなら東武鉄道が走り、西へは高速バスがたくさん走っている。それに、友達とも会いやすい。

北アルプスの玄関・上高地にも夜行バスで行ける

 もともと豊島区に住み始めたのは演劇をやるためであり、劇団解散後も細々と続けていた個人プロデュース公演から一切手を引いてしまうことは、もう潮時だと感じていたにせよ、寂しくはあった。
 バイト・地の利・演劇。もう一つある。
 僕が曲がりなりにも女性との交際経験を持てたのは、一人暮らしだったからだと思っている。自立しているというステータスと、部屋。この二枚のカードを捨てて異性に好かれる自信はない。実家に住んだらもういよいよ女の子と付き合う機会は失われるだろう。

 それでも、行こうと決めた。行かない理由を並べても仕方がない。魂が「行け」と言っていた。

 部屋の更新に対していいタイミングであることや、一人暮らしを始めて十年あまり、そろそろ家電たちが一斉に寿命を迎えてもおかしくないことなども後押しとなった。
 実家に帰りたいのだがという話をすると、母は「いいよ」と言った。その上で日本縦断に行ってくるという話をすると、母は「あらま」的なことを言った。父は昔の僕の部屋を住みよくリフォームし、両親で精密機器の運搬や不用品の処分を引き受けてくれた。
 懐が深くてビビる。子孫を残せなくて申し訳ないが、この人たちに貰った命で、僕はこの世界を存分に楽しもうと思う。


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