AI審判について
野球では度々ストライクの判定について物議を醸すことがある。それは審判が人間故に仕方のないことではある。それが最近はAIの進歩により、ロボットに判定をしてもらおう、という動きが見える。アメリカでは既に試されていて、まだまだ問題もある、ということである。
ということは、問題がなくなったら、AIでもいい、ということなのであるが、果たしてそうだろうか、と私は思う。
私はもっと、人間がそれをする意味、を考えてみたいのである。
例えば、野球という、投手がボールを投げて、打者がバットで打ち返すスポーツは、言ってしまえば、球遊びである。特にそれが高級なことでもなければ、高貴な行いでもない。サッカーは球蹴りであるし、将棋はボード・ゲームであるし、俳優はごっこ遊びである。
私は何もこれらを貶そうという訳ではない。それらの本質を見れば、特別なことなどしていないことを確認したかったのである。
例にも出した将棋であるが、将棋の盤に升目をつけるために、研いでいない刀を使って、線を引くところを見たことがある。刀に漆を塗って、それで線を引くのである。もちろんそれにはパフォーマンス性もあるだろうが、もし機械で線を引いたら、パフォーマンスにすらならない。その刀で線を引く様子は、たくさんの人が見物していたのである。
我々は、人間がそれをする、労力をかけることに価値を感じるのである。切り絵などを思い起こしてもらえればわかるかもしれない。あれは人間がひとつひとつカッターで切り取って出来上がる様子を想像できるから、出来上がった切り絵に価値をつけたくなるのである。もしあれを機械で作ったら、その感動は半減以下になるであろう。
野球にしろサッカーにしろ将棋にしろ俳優にしろ、それは人がそのしょうもないものに人生をかけることに感動するのである。
さて、件のAI判定だが、何故そのような流れになっているのかというと、自分の贔屓のチームに不利な判定をされたから不愉快である、という人間の愚痴から来ているのである。
つまり、外で転んだ人が、俺が転んだのはこの道が悪いからもっと良い道に変えろ、と言っているようなものである。果たして、そんな人々の愚痴によって世の中のあり方、仕組が変わってもいいのだろうか。確かにその瞬間の嫌な気持はなくなるかもしれない。しかし、そんなことよりももっと大事な、人間らしさまでその愚痴によってなくされ、人々はもっと生きるのが苦しくなるかもしれないのである。