小説『僕』(読了目安時間約6分)

 授業中の教室の窓は開け放たれていて、濃い夏の風が入って来る。時折いたずらのように強く吹いて、カーテンを弄んだ。窓際の生徒はカーテンをまとめた。カーテンがはためかなくなって、僕は残念に思った。
 耳に、教壇に立つ先生の声が遠く聞こえる。僕は早く授業が終わって欲しい、と思っていた。別に授業がつまらない訳じゃない。ただ今の僕には、もっと大切なことがあって、それが窓際に見えているからである。
 いつか友達が面白半分で僕に訊いて来た。
「お前、ドッペルゲンガーって知ってる?」
 その友達が言うには、自分と瓜二つの人間が現れて、それを見ると死んでしまう、というものであった。
 僕は笑って、
「そんなことある訳ないだろ」
 と言った。
 突然強い風が吹き入って来た。カーテン留めがはずれて、またカーテンがはためいた。カーテンは表になり、裏になる。教室は明るくなり、暗くなる。表と裏、陰と日向、その境目に、僕は見つけた。窓際に立つもう一人の「僕」を。
 窓際に立つ僕も、学ランを着ていて、ただ外を眺めている。
 僕は不思議と怖い、とか、気味が悪い、とかは思わなかった。もう一人の僕の眉は静かで、瞳はどこか寂しそうだった。でも、きっともう一人の僕は、誰かに話しかけられたいのだと思った。そうでなかったら、わざわざ僕がいる教室にいたりしない。
 周りを見渡しても、誰ももう一人の僕に気づいていなかった。先生も、友達も、各々が、各々に一所懸命だった。

 チャイムが鳴って、今日の授業が終わった。もう一人の僕は、窓の外を見続けている。話しかけるなら、誰もいなくなってからがいい。
 僕は部活動をしていなかったから、自分の席で誰もがいなくなるのを待つことを不審がられなかった。皆部活に、家に、教室を出て行ったのだけれども、女子二人組だけが、まだ帰らない。そのうちの一人に、僕の目は吸い寄せられた。それは優奈という女子で、肩までの髪に、はっきりとした目が印象的だった。
 僕は今まで、優奈に話しかけようと、何度も思いながらも果たせないでいた。優奈は明るくて、クラスの中心にいるような女の子で、僕みたいな、地味で、暗くて、クラスの冴えないグループに属しているような人間が、話しかけてはいけない人のような気がしていた。
 しばらくして、優奈たちも、教室から出て行った。笑い声が遠ざかった。僕は席から立ち上がって、教室のドアを閉めた。
 今、僕は、もう一人の僕と二人きりになった。
 僕は窓際の僕に近づいた。もう一人の僕は、僕が近づいても、遠くを見つめたままだった。
 校庭にいる野球部や、陸上部の生徒たちの声が聞こえる。風はない。
 僕は話しかけた。
「キミは僕だよね」
 もう一人の僕は、僕を見ずに答えた。
「そうだよ」
「何故外を見ているの?」
「戻りたいから」
「戻りたい? どこへ?」
「この校庭のずっと向こうまで続く空の下にあるだろう海に」
 空は、雲一つなかった。僕はきっとこの青と、海の青は似ているだろう、と思った。
 幼少の頃、よく海のなかに沈んで行く空想をした。周りは暗くて何もないのだけれど、僕は満たされた気持でいた。でもある時気づいたのだ。こうしているのは僕一人だけなのではないか、と。海のなかには何もいなかった。魚も海藻も他の人たちも。皆は海ではなく、陸(おか)の上にいたのである。
 僕はまた尋ねた。
「海に帰りたいの?」
「ううん。帰りたくても、もう帰れないんだ」
「何故?」
「海はね、優しいし、あたたかくて、誰も僕を傷つけたりしないんだ」
「なら帰ったらいいじゃない」
「うん。だけどね、一人なんだ。海のなかには誰もいない。誰も僕が、あたたかい、とか、優しい、とか、孤独だ、とか、思っても、一人なんだ」
「一人じゃ駄目なの?」
「うん。僕はね、一人でいることに飽きたんだ。一人でいることが寂しいんだ。一人じゃね、そんなことを、聞いてくれる人もいないんだ」
 僕は、このもう一人の僕の気持がよくわかった。
「だからキミはここにいるんだね」
「うん」
「誰かに声をかけられるのを待ってるんだ」
「うん」
「そうなんだ」
 もう一人の僕は、沈黙してから、今までより少し強い口調で言った。
「だけどね、もうそれじゃあ駄目だと思っているんだ」
「うん」
「自分から話しかけないとね」
「うん」
「でも、その勇気が、僕にあるかわからないんだ」
 僕はこのもう一人の僕が、何だか愛おしく思えた。彼の為に、何か勇気になるようなことを言ってあげたかった。僕は少し笑ってこう言った。
「そうかな?」
「どういうこと?」
 もう一人の僕は窓の外を見たままだ。
「だってさ、僕はキミに話しかけたよ」
 もう一人の僕は驚いて僕に振り返った。
 僕は笑顔で言った。
「僕はキミだよ」
 こんなふうに僕は笑えるんだ、と思った。もう一人の僕も少し躊躇ってから、恥ずかしそうに笑った。
「そうだね。キミは僕だ」
「なら、きっと大丈夫」
「だといいけど」
 僕たちは笑った。
 放課後の教室には、黒板と、机と、椅子と、カーテンと、笑い合う僕たちがいた。
 次の瞬間、突風が吹いた。カーテンがめちゃくちゃに暴れた。カーテンは表になり、裏になる。窓からは、暮れかけの空に夕日が隠れたり、現れたりする。僕は目を瞑って、懸命にカーテンを押さえた。手探りでカーテンを掴んで、突風に耐えた。
 しばらくして風がおさまり、目を開けた。もう一人の僕はいなかった。
 あるのは、黒板と、机と、椅子と、カーテンと、僕と。
 窓の外から、野球部や陸上部の生徒たちの声が聞こえる。風は穏やかにカーテンを揺らしている。
 教室の外から女の子たちの笑い声が聞こえて来た。それは優奈の声に違いなかった。柔らかい声だった。それと共に、足音が近づいて来た。
 僕はもう一人の僕が言った言葉を、小さく繰り返した。
『キミは僕だ』
 胸が高鳴った。背中に汗が滲んだ。喉が渇いた。声がドアの前まで来た。
 僕はもう一度窓際を見た。もう一人の僕がいた場所から、夕日がいっそう燃えて見えた。

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