AIが進化した先の「それはそれ」の世界
フォローしているnoterさんがチャットGPTの話をしていたので、自分もAIについて書いてみたい。ただあくまでここで語るのは、絵や小説などの芸術に関することであり、損得の世界の話は、頭の良い方たちにお任せしたい。
思うに、今AIに関する世間の関心事は三つに分類されるように思う。
一つ目はAIが製作した作品が評価された場合、それは誰の手柄になるのか。
二つ目はAIによって絵や漫画や小説などの作り手の仕事が奪われてしまうのではないか、ということ。
三つ目はAIが芸術の領域に侵攻することで、人間の存在価値を否定されるのではないか、ということである。
今回はこれらについて考えてみたい。
まず一つ目の手柄の話だが、AIはもちろん人類が作ったのだから、AIが進化し成果を出すのは人類の価値である。また現状、AIに何か制作するように人間が命令し、AIが出したものを人間が評価しているのだから、結局それは人間が上手くAIという道具を扱っている、ということにしかならない。もしAIが作成した絵や小説の評価を、AIの手柄にしたい場合、AIが勝手に絵や小説を作成し、AI自身が独自にそれらを評価し、これこそが良い作品だ、と言い始め、それを人間も評価するようにならない限り、AIの手柄とは言えないと思われる。また、AIが作ったもので、金儲けをする人間が出て来た場合、果たしてそれは許されるのか、という類いの話は、前述したように他の人に任せたい。そのような話はいつの時代も出て来るのだから。また小説の賞に原稿用紙ではなくデータで投稿できるようになって来ているから、ワープロ・ソフトに、人間がちゃんと書いたことを証明するような機能が将来付くようになるかもしれない。
次に二つ目のAIによって仕事がなくなるのでは、という話は、そうなるだろう、と思う。あるいはAIを上手く使って創作が出来る人が重宝されるようになるかもしれない。冷たい話かもしれないが、そういうことは別に今に始まった訳ではない。
昔日本には飛脚という手紙などを輸送する職業があった。彼らは馬を使ったり、駆け足で荷物を運んだが、明治以降の郵便制度の確立により衰退した。体力自慢や走り自慢たちの仕事は、新しいテクノロジーである、自転車やバイクや自動車によって、駆逐されてしまった。
技術革新により人の仕事がなくなることは今までも起こって来たことである。
さて今回の眼目である三つ目、人間の存在価値が否定されるのか、ということであるが、結論を先に言えば、そうはならない、と私は考える。
これについて、日本人に馴染みが深い将棋を例に出してみたい。
チェスの世界では、一九九七年に世界チャンピオンがコンピューターに敗れているが、約十年前、将棋の世界ではまだコンピューター・ソフトがプロ棋士を負かすとはまだ信じられていない雰囲気があった。とはいえそれはソフト側が進化し、プロが負け始めたことを、ファンたちに受け入れる準備ができていなかったということだったかもしれない。ソフトにプロ棋士が負けるたびに、ファンたちは嘆き、人間はコンピューターに支配されるんだ、といったことを言う人たちもいた。結局二〇一七年に名人がソフトに敗れたことにより、将棋でもコンピューターのほうが上であることを認めざるを得なくなった。
そしてその後どうなったかというと、人間はソフトを使い将棋の手を研究し、人との対局に生かすようになった。また、人が良い手を指すことに対して、「ソフトのようだ」という台詞が褒め言葉になった。人間よりもコンピューターのほうが上であることは当たり前になったのである。
さて、人はコンピューターに負けたことにより、人が将棋を指すことを否定されたのであろうか。否、それからも人は将棋を指しつづけている。コンピューターに勝てないからといって、彼らが行うことの価値が下がったということもない。つまり、将棋に於いて、コンピューターのほうが人よりも強くなったことは、「それはそれ」ということになったのである。
前述の飛脚の話も、確かに飛脚という仕事はなくなったが、人が走るという行為まで否定されることにはならなかった。日本の陸上競技者数は四〇万人以上、ジョギングやランニングまで含めると一〇〇〇万人はいるそうである。今でも人は自分の脚でどこまで速くなれるか一生懸命に競い合っているのである。
おそらくはAIによってなくなるであろう画家や小説家などの仕事もあるだろうが、それも「それはそれ」となるのではないだろうか。損得の世界、お金を稼ぐ仕事はなくなるだろう。しかし本当に絵を極めようとする者、小説を極めようとする者はいなくならないだろう。もしかしたら、「AIみたいな絵が描ける人」「AIみたいに面白い小説が書ける人」などという言葉が褒め言葉になるかもしれないが、おそらく人が絵や小説を作るという行為の価値が否定されることにはならないと思われる。
ただ、確かにこれから起こることは、まだ人類が経験していないことである。
人は、純粋な肉体的能力や頭脳の処理能力の領域に関しては、機械やコンピューターにその座を明け渡した。それでも、人の感じる能力、感性の部分は大事に守って来たのである。AIの進化はそこに侵攻されることを意味しているし、だからこそ人はAIを脅威に思っているのである。もしこれからAIが、絵や小説で賞を獲ったりすることが当たり前になれば、人とAIを比べる、なんてことはしなくなる。将棋の例の時のように、それは人間と競い合っている段階だから起こること、なのである。
たしかに職業が奪われることは不安であるし、死活問題であろうが、私にはその問題を解決する策を思いつかないから、他の人たちに頼みたい。
それでも、芸術を極めようとする人たちは、AIが芸術作品を作ることが当たり前になる、「それはそれ」となった世界で、AIにはない、この一回性の肉体から生まれる結晶としての芸術を、存分に研鑽して行けばいいと思う。そこに余計な他意はいらないはずである。その点では安心していいと、私は言いたい。