「好き」を考える
元旦が終わり、2日になった真夜中(明け方か)。。いつも聴いている音声配信者さんのライブ配信を聴いていたら、「世の中には色んな人がいて、一般人の配信者さんをストーカーする人もいるんだよ」という話題(あやふやだけど、そんな感じだったと思う)から、ふと「好き」という感情について考えてみた。
つい先日、本当か嘘かはわからないけれど、自分の推しである3人組アーティストの1人に、資産家夫殺人の容疑者だった女性がストーカーをしていたらしいという話をネット情報で知った。
アーティストの住むマンションを突き止めて、同じマンションに引っ越し、アーティストのバイクの駐車場の隣りを借り、そのためにバイクの免許を取ってバイクを買った…という話だったと思う。
その話を見て、ゾッとしたのだけれど、それ以上にバイタリティーすげえな!と思った。
その推しアーティストを、私は10年近く応援していて、途中でグループの形態は変わったけれど今もずっと箱推しで、心から応援していて、、
もし、この容疑者だった人のように、アーティストの住む家がどこかわかったとしても、果たして私は同じマンションに住みたいと思うか?と考えると、答えはNOだ。
なんならめちゃくちゃ近所だったとしても、そのマンション付近は近づきたくない。
迷惑ファンだと思われたくないし、自分をアーティストの視野に入れたいとは思わない。
第一、そんな行動力も体力もない。自由な時間もない。なにせほんの短時間でも外出したら疲労困憊で使いものにならなくなるくらいの体調とメンタルなのである。去年、全国ツアーで地元にやって来るとわかったけど、絶対にぶっ倒れる自信しかなくてライブ参戦を端から諦めてチケットの購入すらしなかったくらいだ。(ああ、書いていて嫌になるくらいひ弱だなぁ。。)
彼らのことは本当に大好きで、大ファンで、今で言う「最推し」だけれど、それは恋愛感情ではない。いや、厳密に言うとドキドキさせてくれる瞬間はあるにはあるのだけれど…なんと表現すればよいのだろう?1番近いのは「親心」かもしれない。(息子たちと同年代だし)
息子たちに願うように、いつも幸せで健康でいてほしい。人生を楽しんでほしい。その姿を見せてほしい。そして彼らは自分たちのアイデアを創り出すアーティストだから、「醒めない夢のように、いつまでも色んな景色を見せてほしい」と思う。
そんな感じの「好き」の気持ちだ。
そして、最初に書いた音声配信者さんのファンでもある。「ファン」と言うのも何だか言葉の表現的に違う気がするのだが的確な言葉が浮かばない。。
私がその音声配信アプリを使い始めたのは、もう6年ほど前だろうか。
最初は聞き専だったのが、◯月◯日〜◯日まで配信するとアマギフをプレゼントしますよというイベントをやっていて、アマギフ欲しさに配信する側に立ったこともあった。
色んな人の配信を聴いて、コメントで会話をして…
リアルですべての友達を切った私にとって、ちょうどよい距離感が保てる音声配信は本当に楽しい場所だった。だけど、3年ほど前に実家同居になって、1人の時間が持てなくなったことで配信も聴けなくなって、いつしかアプリを消した。
同居の母との距離感がようやくつかめてきて、1人の時間が少しずつ持てるようになった一昨年、再び配信を聞くようになった。
数年前に聴いていた人たちはいなくなっていたり、なんだか雰囲気が変わっていたり。
そんな中で前出の配信者さんは、数年前と変わらない雰囲気の配信を続けておられた。ホッとしたし、変わらず楽しかった。いい感じにゆるくて飾らないトーク、自分と似てるなぁと感じるところや年齢が近いことも肩の力が抜けるポイントだ。
配信の中でコメントを拾ってくれて、文字で会話をしてると、実際に友達だったら楽しいだろうなという想像をしたことはあるが、想像の中での私は女性ではなく男性なのだ。
私は女に生まれてきたけれど、いつも自分の性別に違和感があった。子どもの頃から男の子と遊びたかったのに、いつも入れてもらえなかった。
思春期になると、ダチ(関西弁で言うところの「ツレ」)や仲間になりたくてつるんでいた男友達は、気がつくと私の胸や尻や脚ばかりを見ていて、真の友達になれたのはただ1人だけだった。
性別に違和感はあっても、好きになるのは男だったし、結婚して出産もした。体が本来持つホルモンには逆らえなかったのだ。
おばさんになった今でも、いや、人目を気にしなくていい引きこもりであり、恋愛ごとに振り回されることもなくなった今だからこそ余計に自分は「おばさん」というより「オッサン」という感覚の方がぴったり来るのだ。
こんな書き方をすると、ボーイッシュな女性を想像されるかもしれない。でも私はとても女性的な女性に見られる。髪はだいたいいつもロングだし、スカートは履かないが女性用の服を着る。大人になってからは他人からはだいたい「おしとやか」とか「おとなしい」とか言われがち。男っぽくしたくても似合わないし、変だと思われるし、男性からは仲間と認めてもらえないから、いつの間にか他人には普通の女性に見えるように振る舞うことが当たり前だし、心の中にいる「男の自分」をおくびにも出さない癖がついた。
性別を気にせずに接することができるのは息子たちと犬猫だけだ。実母にもオッサンみたいな態度は取れない。
余談だけど、私が1番好きな映画「STAND BY ME」は、初めて見た中1の頃から35年の時を経た今も尚、私には手に入れられない少年たちの男同士の友情が、眩しくて羨ましくて仕方ない憧れなのだ。
(先日見た「帰れない山」も同じくだ)
うまく言えないけれど、そんな風に、子どもの頃から同性としての男友達が欲しかった。性別に振り回されることなく、バカ話ができて、ふざけ合って、時には真剣な話ができる、私にとっては同性の男友達。封じ込めた心の中の男の自分が純粋に「ツレになったらおもろいやろな」と思う、それが前出の音声配信者さんなんだな、と。
…と、ここまでつらつらとけっこうヘビーなことを書いてきたんですけれどもね。。
私、いつも聴いている音声配信者さんのただの「ファン」なんですよ。なんて言いましょうか…「ヘビー級のファン」ではなくて、配信者とリスナーという立ち位置でのふんわりとした「ファン」「好き」。
ただ、その配信者さんは私の空想の中の理想の友達を映し出してくれてるかのように感じられる「好き」も含まれてるのかもなぁというのが、自分の感情を見つめてみてわかったことだ。(あくまでも空想上のこと)
他にもTikTokとかYouTubeとか、好きな配信者さんはたくさんいるけど、高頻度で「ライブ配信やってるから行こう!」ってほどでもないんだよな。
「好き」って、色んな形があって、それを表現するのって本当に難しいものなんだなと感じる。
誰かに伝えるのも、誰かから伝えられるのも、変な誤解を生む可能性を孕んでいて、なぜか警戒心を抱いてしまうから、素敵な言葉のはずなのに安易に使えないもんなんだな、と。私の考えすぎなのだろうか。。
いやでも好きだからって言って、たとえそれが純粋な気持ちであっても、好きな人を脅かすようなストーカーはダメ!絶対!!なのだけどね。
考えすぎて、頭が痛くなって、気がついたらもう8時だったよ(驚愕)
「配信者がストーカーされることがある」という話から「どれくらい好きになったらそこまでの行動力が出せるのだろう」「そもそもどんな感じの “好き” なのだろうか」「自分の “好き” とどう違うんだろう」「自分の “好き” って何?」などとあれこれ頭ん中をぐるんぐるん考えてしまって…ちょっとお酒入ってたのも良くなかったのかも。
人間って、私ってめんどくさい生き物だなぁと思いながら、犬猫たちに「大好きやで。おやすみ」と声をかけて布団に入った。
やっぱり犬猫たちが1番気取らずに構えずに何も考えずにストレートに私の素のまんまで接することができる存在だな。。私史上最高の「好き」は間違いなく犬猫たちへの想いだ。
さて、寝よう。
初夢は見られるのだろうかねぃ。。