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2023 姫始め

京都から帰省した男は、1月1日1時に町へ出ました。
正月休みの路地裏に、看板を灯すのはただ1軒。
ドアを開けると「若い男が来た!」と迎えられたので、男は色めき立ちました。

男の容姿は、とても誉められたものではありません。
髭だって剃り忘れていました。
ただし路地裏のスナックでは、ただ若いだけで耳目を集める物珍しさがありました。
そして地元の人々にとり、珍客に歓迎を示すには、外見を持て囃すのが手っ取り早かったようです。

狭い店内の先客は、中年の男性が3人と、友人同士らしい女性の2人連れ。
男に絡んだのはその女性のうち一人です。
       
酔客達は男を歓待しました。
男がウイスキーを頼むと、横から焼酎とシャンパンが差し出され、男の前に3つのグラスが並びます。
男はこの町のこういう部分が好きでした。

デンモクが順に回ります。
男は「オリビアを聴きながら」を歌いました。
男の歌は上手くありませんが、声が優しいと評されます。
その日も例に漏れませんでした。

「優しい」
「優しい」
男が歌うと、そんな声が店内に飛び交います。
それらの声は、さも男そのものが優しいように彼女を錯覚させました。

彼女は本を読まない女でした。
男が歌う間、彼女は離れた席から「かわいい」と合いの手を入れます。
ある種の同調圧力とも取れる、小さなスナックの連帯感は、好意的な言葉の表出を彼女に強いました。
結果、語彙の少ない彼女は同じ言葉を繰り返す羽目になります。
「かわいい」「優しい」「かっこいい」。
彼女はその過程で、次第に無自覚な自己暗示を強めました。

酒が進むと、彼女は男を隣に呼び寄せました。
彼女は33歳で、小学6年生の息子がいると言います。
男は「そうは見えないですね」と言いました。

それは純粋な誉め言葉ではありませんでした。
年齢より幼く見える顔立ちについては勿論ですが、
彼女がすっぴんにサンダル履きで居る事を指した言葉でもありました。
しかし彼女は男の言葉を、肯定的な意味でのみ解釈しました。 

A=BならB=Aだと彼女は考えていました。
つまりその店に男への批判は無かったので、反対に、男の言動も彼女を拒む事は無いと考えたようです。
しかし人の関わりに定数は存在しません。
彼女はその晩、公然の事実に目を瞑りました。

2時間ほど経った頃、男はタバコに火を着けて、
「これを吸ったら帰ります」と言いました。
ラッキーストライクが燃え切るまで約4分。
突然課された制限時間は彼女を大胆にしました。
彼女は顔を寄せ、「一緒に帰ろう」と囁きました。
テーブルの下では指が絡んでいました。

ホテルに向かう道中、彼女は「生理だけど」と言いました。
男が拒む事は無いとやはり思っている彼女は、そのときも腕を絡めていました。

部屋の窓から望む海峡は未だ暗闇です。
経血の染みたシーツが、元旦を先駆けて祝う紅白幕のようだと男は思いました。
初日が出る少し前の事です。

「これきりなんでしょ」。
抱かせながら彼女は囁きました。
「何でそんな事を言うんですか」と、男は質問で返しました。
彼女は「好き」と答えました。
またしても彼女は男の言葉を都合良く解釈しました。 

男はホテルの下にタクシーを呼び、彼女を乗せて去ろうとしました。
すると彼女は「送ってよ」と男の腕を引きます。
彼女は精神的にも肉体的にも金銭的にも、その夜の元を取るため貪欲でした。
後部座席で男が肩を抱くと、彼女は「京都に付いて行きたい」と言います。
一連の流れを恋と見なさなければ、彼女は辻褄を合わせられなかったのです。

「無い物ねだりが人の本質」。
それは男が翌日行った喫茶店の店主の言葉です。
昨夜、男が旦那との関係について尋ねると、彼女の表情は曇りました。
地元を出た事が無いという彼女の暮らしの実情は、大晦日にスナックに居た事からも推し量れました。

「疲れ果てたあなた 私の幻を愛したの」
男が歌った「オリビアを聴きながら」の歌詞ですが、彼女にとって彼は、彼女が幻を投影するに丁度いいスクリーンだったようです。
なぜなら次の夜には男は京都に戻っているからです。
幻影のスイッチを切ればスクリーンは何も映さないからです。
つまり今後、男が彼女の現実に干渉する事が無いからです。

キスをして去った彼女は男を振り返りませんでした。
しばらくすると海岸の空が色付き始めたので、男もタクシーを降りて初日を拝みました。
その男も、元を取ろうと必死だったのかもしれません。
あけましておめでとうございます。

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