セフレに情が移った話
最近、ハイボールが好きになりました。
もともと僕は、酒を割る手間も厭うものぐさ。
そんな僕が炭酸水を買うようになったのは、ある女性の家に通うようになってからです。
その女性をAとします。
僕より6歳年上、33歳のAとは、流行りのマッチングアプリで知り合いました。
初めて会った日。
夜更けまで飲んで、Aの家に泊まりました。
Aとは身体の相性がとても良かったようです。
その日から、僕は度々Aの家に通うようになりました。
家集合、家解散。
きっと1ヶ月も持たないと思っていました。
結婚と恋愛と
結婚と恋愛とセックスは、分けて考えるべきだ。
初めて会った日、僕が酔って言った言葉をAは肯定しました。
「一緒に居たい相手と、結婚するべき相手は違うしな」
それは僕の何倍も経験豊富なAが辿り着いた答えだそうです。
「それでも結婚したいと思うんですか?」
「したいな、私は」
「理解できないです」
都合のいいときに
僕は、都合の良いときだけAに会いに行きます。
引き換えに僕も、Aにとって都合の良い存在であろうとしました。
Aが好きなものに目を通し、下手ながらに料理を作って、セックスの前にマッサージをしました。
好きそうな映画を一緒に観て、一人で行きづらいお店に一緒に行きました。
Aもまた同じようにしました。
それはまごころのやりとりか、それとも独善的な自己救済の連鎖か。
確かめる事はしませんが、少なくとも僕達は笑顔でした。
アプリを辞めたのは
僕がマッチングアプリを辞めたのは、Aと会うようになったからではありません。
単に収入が下がって、それどころではなくなったからです。
Aは僕の何倍も稼いでいるにも関わらず、アプリを辞めました。
「再来週、飲み会なので来れません」
「楽しんで」
「他の男と遊ぶチャンスですよ」
「いいひん、そんなの」
観たかったもの
Aの家では、よく色々な映画やドラマを観ます。
互いのお勧めを観ては感想を語り合います。
眠くなったらベッドに移って、天井にプロジェクターで映したりもします。
いつの間にか僕は、片思いしている人と観たかったものを観尽くしていました。
美術館
あるときAに、美術館に誘われました。
数ヶ月前に買ったペアチケットの、会期の終わりが迫っているので。
僕は展示作家について調べて、20枚超のスライドを作って見せました。
Aは呆れて笑いました。
もともと誰と行くつもりだったのかは聞きませんでした。
昼食
Aとの関係が崩れ始めたのは多分、初めて僕が朝に帰らなかった日です。
冬の朝、こたつを出るのがおっくうで。
僕達は昼食を共にしてしまいました。
「他にやる事があるなら、帰るので」
「大丈夫。君の事、犬か空気やと思ってる」
僕が本当に犬ならば。
その粗雑な言葉に尻尾を振ったでしょう。
結局その日の夜も泊まって。
以来、土曜の夜から月曜の出勤前まで一緒に居るのが習慣になりました。
歯ブラシ
蓋を開けた酒瓶以外に、僕はAの部屋に物を置きません。
Aが僕以外の男を部屋に招くとき、Aとその男が気まずくならないようにです。
僕はそれを気遣いだと思っています。
一方で最近は。
僕が物を置かないのは、Aはそのうち居なくなると自分に言い聞かせるためだとも思えてきました。
こうなると気遣いなのか、自己防衛なのか分かりません。
「歯ブラシ忘れた。100均行ってきます」
「置いとけば良いのに」
「それより、靴べら置いてもいいですか?」
寝顔
突然Aが居なくなりました。
そんな夢を見て目覚めると、Aの寝顔がありました。
そのとき僕がどれだけ安心したか、Aには伝えませんでした。
当然、安心している自分にどれだけ驚いたかも。
何の偶然か、翌週にAが真逆の夢を見たそうです。
「良かった、居た」
そう言ってAは僕の胸に顔を埋めました。
僕は言い掛けた言葉を飲み込んでセックスをしました。
ハイボール
Aはグラスを戸棚ではなく冷凍庫にしまいます。
冷えたグラスでハイボールを飲みたいそうです。
僕も真似て、いつも飲む安いウイスキーに炭酸水を注ぎました。
小心な僕は、人と話しているとつい酒やタバコに手が伸びます。
そのくせ強い酒を好むので、よく酔いすぎます。
でも、ハイボールなら。
炭酸で薄めてさえいれば、言わなくて良い事を言わずに済む事が分かりました。
あるとき、ある女の子とバーに行きました。
Aの話をするとその子は、
「どっちかに本命が出来たらどうなるの?」と尋ねました。
「終わり」と僕は答えました。
それからホテルに誘いました。
断られて一人になりました。
店に戻ると美女がいて、明け方まで話し込みました。
気付いたら僕はカウンターに伏せて寝ていました。
名前も聞かずじまいでした。
そんな情けない夜の事をAに話そうと思いました。
いざ会うと話せませんでした。
片思いの相手に、告白して振られた事も。
ホテルまで、女性を3万歩も歩かせた事も。
人生で唯一した浮気の相手が、数年振りに尋ねてきた事も。
その他たくさんの夜を、Aには話せませんでした。
Aを前にすると、僕はいつも炭酸で口寂しさを埋めます。
それはずるさか優しさか。
いずれにしろ独善です。
大徳寺納豆のカヌレ
「良い天気やな、眠なるわ」
「僕も眠いです。今朝、してないのにね」
「何を言ってんねん」
「やっぱり帰って昼寝して、さっきのカヌレを屋上で?」
「幸せやな、それは」
「幸せですね」