ぼくのなつやすみ ~酒と女で忘れよう~①
ある女性が頭から離れないので、酒と女で忘れようと思った。
本を読んでも映画を観ても、誰かと話しているときさえも、思考すべてがその女性に紐付けられたように、金髪の青年とすれ違ったとか、Tシャツに汗が染みているとか、そんな日常の一瞬からも彼女の顔が、名前が、言葉が、途絶えることなく想起され、僕は平衡を失っていた。
ろくに恋をしてこなかった僕の経験則は、この乱高下を不快なものと位置付けた。
人のことを想って、目の前のことが手に付かない。
僕ひとり生きるべき日々が、たった一人の他人に支配されている。
これは不本意だ。
しかしその女性を想い続けているのは紛れもなく僕自身であって、本当のところ彼女は僕を支配しようとはしていない。
どころかメッセージの返信が数日空くなんていつもの事、長ければ数週間も待ったこともあった。
要するに、笑っちゃうほど脈のない片思いは、自縄自縛に他ならない。
ここ最近の不安定も、一過性の体調不良に決まっている。
だからワクチンを打つ、弱毒を吞んで猛毒を制す。
すなわち酒と、手頃な女で忘れようという魂胆だ。
そうして盆休み、半年振りの里帰り。
荒くれの街、北九州市の外れ、場末の飲み屋での3日間のお話です。
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8月11日(木)
夕方に実家に帰り着き、久々の家族との食事を終え、22時に一人で飲みに出た。
どうやら僕は繁華街が肌に合わない。
だから今度の帰郷では、実家の最寄りの駅前の、寂れた飲み屋通りを掘り下げることにした。
地元とはいえ18で出て8年、飲み屋の情報はほとんどない。
手始めにショットバーを探して、町の事情を聞いてみよう。
多くない飲み屋のほとんどは昔ながらの居酒屋かスナックで、バーは目に付かない。
しばらく歩いて見つけた「Bar Shinee」はスナックにしか見えないが、看板にはバーと銘打っている。
Bar Shinee
毒々しく紫がかったピンクのドアを開けると、スナック調の店内に、すでに出来上がった中年の男性客が二人。
マスターは若い頃のハイヒールモモコに似た、四十代くらいの女性。
ハイボールを頼むと、柿ピーがどっさり出てきた。
「初めてよね?若いお客さん全然来んもん!いっぱい飲みね!名前は?モリヤマ?ならモリちゃんやな!」
僕は飲み屋で名乗るのが好きではないが、陽気なママは有無を言わせない。
ママは男性客と僕の前を忙しく行ったり来たりしながら、現れる度に新しいつまみを持ってくる。
もう入らない、と言ってもひと皿ふた皿出してくる実家感――
話だけ聞いて1杯で出るつもりが、そうもいきそうにない。
しまいには、ママが漬けたという大粒の梅干しまで出してきた。
はちみつ梅のような薄い色を侮って、一口に放ると信じがたい酸っぱさだった。
顔をしかめる僕をママはけらけらと笑う。
「酸っぱかろ!これがお酒に合うっちゃ!」。
そうしてこの店がまだオープンして間もないこと、スナックの居抜きを借りたこと、ママがまだ30代であることなどを聞いていると店のドアが開いた。
小柄な女性客が一人。
「ユリちゃん!こっち座り!26歳っちよ!」
ママに言われるがまま僕の隣に座ったユリさんはママの幼馴染だと言う。
しかし年齢の割には若く見えた。
色白で、茶色がかった髪をまとめている。
僕に話し相手がついたのでママは先客につきっきりになった。
元気なママとは対照的に、控えめに見えたユリさんは意外とよく喋った。
17で産んだ、僕とそう遠くない歳の子供がいる。
たまたまその子供が僕の母校の後輩にあたるというので、最近の母校のことや、逆に僕達がいたときのこと、話は飛んで恋愛の話や夫との事情まで、気付けば長く話し込んでいた。
その合間合間にママが現れては、
「全然飲みよらんやないね!もっと飲みっちゃ!これはお代いらんけん!」と、オリジナルのカクテルを二人分出した。
僕は美味しいと言ったがユリさんは薄いと言う。
どうやら同じカクテルなのに味が違うらしい。
ママは僕を潰そうとしてるんだろうか?
興奮してきたぞ。
まとめていた長い髪をユリさんは下ろし、すっかり僕に向けて組んだ脚が扇情する。
午前1時を回る頃。
先客が帰り、手が空いたママが僕達の前に来た。
「モリちゃん、LINE教えてちゃ!」とママに連絡先を求められ、断る謂われもないので素直にスマホを差し出すと、ユリさんはなぜか不機嫌そうだ。
ユリさんが尋ねる。
「今夜はまだ飲むと?」
「はい、もう1軒くらい開拓しようかと。良いお店知ってます?」
「この時間やし、閉めとうかもしれんけど・・・。案内しちゃるよ。ママ、お会計」と、ユリさんが席を立つ。
これは、いけるかもしれない・・・?
僕が飲んだ酒はほとんどママのサービスだったらしい。
恐縮するほど安い飲み代を受け取って、「また年末ね!連絡するんよ!」とママは僕とユリさんを送り出した。
次の店への道すがら、
「ママ、ばり距離近かろ?気分悪かったらごめんね」とユリさんが謝る。
とんでもない、楽しかったです。
いいお店ですね、と社交辞令を返す。
本当のところ僕が楽しんでいたのはユリさんだったけど。
Bar Mine
店の前に着いて、案内だけのはずのユリさんが言う。
「もうちょっとだけ付き合おうかな」。
よーーーーっっしゃ。
この店でキめよう。
細くきつい階段を上がりドアベルを鳴らすと、ユリさんの馴染みだという若い店員が出迎えた。
「Bar Shinee」とは対極の、インスタ映えする小洒落た店だ。
一見さんはお断りだというが店内は混んでいて、ど真ん中のテーブル席しか空いてないと。
僕が口を開く前にユリさんが、「ならママも呼んで3人で飲もっか!」と言い出した。
「いや、ママは良いでしょ」。
とは言えず数分後、店を閉めたママも合流してテーブルへ。
座るなり、自分の店と同じテンションで喋り倒すママ。
相槌を打ちつつ横目に見たユリさんの顔が曇っている。なんで呼んだんだろう。
ただならぬ気配をあえて無視してか、話し続けるママをついにユリさんが制した。
「あんた、いい加減にしっちゃ!私ら世代はそれでいいけど、若い子はそんな距離近い接客は嫌がる子もおるっちゃけん!すぐLINE聞くの辞めりって前にも言ったやろ!?」
「そんなん言ったって、それが私のスタイルやもん!」
「あんたのスタイルならそれで良いけど、やったら私はもう手伝わんけんね!いきなり知らんお客さんの横に座らされて、私はホステスやないっちゃけん!」
あれ、喧嘩が始まってしまった。
あー、ママが僕にLINEを聞いたとき、ユリさんが不機嫌になったのはそういう事か。
痛い勘違いしたーー。
この状況からエロくするスキルないな-ーー。
ところで人が北九州弁で怒るシーンって久し振りに見たなーー。
やっぱり北九州弁はかわいいなーーー。
「まあまあ」と間に立つのが僕の精一杯で、なんとか二人の溜飲が下がった頃、たった1杯でお開きになったのが午前2時。
3人それぞれ帰路に着き、その後の話もなく、僕も大人しく歩いて帰った。
これが帰省1日目、1回目のおあずけ。
明日こそ、明日こそだ。