価値観を押し付けられるとき、そっと両手で押し返しますので
一本、また一本。バンタは釘を飲み込んだ。
観衆からは悲鳴とともに、バンタの行為を蔑むような唸り声が聞こえた。
(腹が軋んだ音が聞こえるべ)
一本、また一本。バンタはするする釘を喉奥へと突っ込んでいく。
パンッと音がして、バンタは床に倒れこんだ。
袖からシルクハットを被ったスーツの男が現れて、
「さてさて皆様、世にも奇妙な釘飲み男をご覧いただきました。
続きましては、耳から様々な生き物を出す男でございます」
バンタが目を覚ますと、脳内で蛇がネズミを食べようとしていた。
「おい、バンタ。メイクは済んだ。さっさと舞台に戻れ」
「で、でもボス。おら、もう動けねぇよ・・・胃がさっき破裂しちまーー」
「構うもんか。後で取り換えられるだろ。さっさと行け。お客が待ってる」
バンタはボスに蹴飛ばされて舞台に飛び出した。耳からネズミが逃げ出し、後を追うように蛇が飛び出した。
場内は歓声と悲鳴で満たされた。バンタには何も聞こえなかったが、恐怖に慄く子供の顔を見たとき、バンタのハートの隅っこが確かな温度を持った。
それで、バンタのハートはすっかり燃えてしまったのだった。
※本記事は、下記の記事に違和感を抱いたので書かれたものです。
オシツケガマシー
刺身にはイチゴジャムをつけて食べるという人に出会うと、ほとんどの人は嫌悪感を抱く。刺身には醤油だという揺るぎない観念がある。刺身にイチゴジャムを付けて食べている姿を想像するだけで気持ちが落ち着かなくなり、それを異常だと判定する。しまいには『刺身にイチゴジャムを付けて食べるのは何かしらの病気である』と決めつけて、偏食だの発達障害だのと言葉を当てはめて、心をいったん落ち着けるのである。
どこで刺身には醤油がベストだという揺るぎない観念が形成されたのかは分からないが、世の中にはこのように『〇〇には■■だ』というような考えを持った人が多く存在する。そのような考えは人を不快にさせることもあるから気を付けなければならない。
私は人から『〇〇には■■だ』という考えを押し付けられることに嫌悪感を抱く。『刺身には醤油だ』と言われると、塩でもソースでも良いだろうと思う。なぜなら、美味しいの基準は人それぞれだからだ。事実、日本人ではない人で、刺身や寿司にハチミツや砂糖をかけて食べる人もいる。それを美味しいと感じるのであれば、他人がとやかく言うことはない。単に「私は醤油が刺身には合うと思う」程度のことで良いのだ。
もちろん、栄養バランスであるとか体に悪いとかいう意見はあるだろう。だが、美味しく食べたいという人の欲求にまで口を出す必要はないと思う。店側が「これが美味しい食べ方です」と主張するならば別だが、刺身を切ってもいない人間が、刺身にイチゴジャムを付けて食べる人間を見て「ありえない。信じられない。醤油だろ」と言うのは、間違っているように思うのである。
モット・オシツケガマシー
前述したオシツケガマシーは初期段階であるが、進化するとさらに分かりづらいモット・オシツケガマシーになる。
例えば、自分が若い頃に味わった最高の体験をした場所に年を取った後で、子供にも同じように味わわせたいと連れ出す気持ち。
自分が体験した最高の気持ちを子供も同じように感じるだろうという期待は過信である。それは両親の押し付けがましい気持ちに他ならない。
人によっては、『子供のためを考えている思いやりのある人』という評価になるかもしれないが、それは考えが足りないと言わざるを得ない。
例えば20代の頃に味わった最高の体験を、50代になった時に子供に味わわせようとする行為は、30年という時の変化を考慮していない。さらに言えば、天気が悪かったとか、建物がリニューアルされていたとか、店主が亡くなったとかいうことが起こるのである。そのような時の変化に対する検討不足のまま、子供にそれを体験させようとする行為は押し付けがましいと言えるだろう。
子供の方は気を遣う。自分のためを思って行動してくれたのだから、期待外れになって悲しませてしまうのは申し訳ない。せめて何か、良いところが無いかと行動するだろう。しかし、果たしてそれで良いのだろうか。押し付けがましさによって、自らの行動を狭められていることに気づかないのだろうか。
このように書くと、「子供なんてのは、両親の価値観を押し付けられて当然だ」と考える人が出てくるだろう。意思決定が軟弱で、社会に出ておらず、一人で金稼ぎすらできない子供は、当然のように両親の価値観を受け入れて従うしかないのだ。それはある種の教育に他ならないのだ、と。
正しい意見であると思う。だが、子供が大人になったときに、果たしてそれを受け入れたまま生きるか、捨て去るかというところまでは干渉できないというのが私の考えである。
たとえ、両親の思い出の場所に連れられたとしても、それを同じように「良い場所だ、ここは」と必ずしも思わなくていい。「なんか両親が悲しんでいるから、なんとか良いところを見つけて喜ばせよう」という心の働きは、協調性という点では評価できるが、自分が楽しむということを忘れているように思う。両親を喜ばせることに関心を置くのではなく、その気持ちを汲んで自分がどう感じるかに重きを置いた方が良いと思う派である。
ズット・オシツケガマシー
『〇〇は■■だ』という考えを大人になっても持ち続けている人は、魅力的に映るかもしれないが、私からすれば近寄りがたいなと思ってしまう。
例えば、『刺身には醤油とワサビだ』という人がいる。こういう人はワサビが無いと、苛立ちを覚えるだろう。しかし、別にワサビが無くても刺身は食べられる。ワサビが無いことに対して怒りを感じるのは、それが刺身を味わうのに完璧な状態だと考えているからだ。苛立ちを感じないためには、ワサビが無くても良い状態を受け入れなければならない。
このように、『〇〇は■■だ』という考えは、苛立ちを生み出す原因になりうる。どこかで妥協して『〇〇は■■だ。けれども▲▲でもいいかも』みたいな状態にならないと生きづらさを感じるだろうと思う。『〇〇は■■だ』というズット・オシツケガマシーの状態を変える努力が必要である。
そっと両手で押し返す
結局、オシツケガマシーはどこにでも存在している。だから、それをそっと両手で押し返す努力が必要だ。
この記事を書くきっかけとなった記事で、著者は大好きな人と一緒に刺身を食べようとするのだが、ワサビが無いことに気づく。著者は大好きな人にワサビがないことを謝るのだが、「ワサビなんかなくても美味しい」と言われる。そして、それを著者は嘘だと思う。
そこで著者は前に大好きな人から「紅生姜くらい、好きだ」と言われたことを思い出す。どうやら『牛丼には紅生姜だ』というオシツケガマシーに直面したようである。
著者は一度も牛丼に紅生姜を付けたことがなく、大好きな人は「ワサビの無い刺身だ」と言い直す。
それで著者は納得するのだが、大好きな人は「ワサビのない刺身なんて味気ない。それくらい、大事な存在」だと言う。
そんな彼が「ワサビなんてなくても美味しい」と言うのだから、優しい気持ちに基づく嘘だ。と著者は思うわけである。
とても違和感を抱いた。
というのも、大好きな人は著者に対して「ワサビなんてなくても美味しい」と嘘をつく性格であるという点である。これは著者の思い出からすれば『大事な存在が無くても大丈夫』という意味とイコールになる。悪気が無いとはいえ、そのような嘘を付くことは不誠実ではないだろうか。
著者はこの日を記念日としているようであるが、私だったら絶対に記念日にはしない。大好きな人が取るべき行動は一つ。嘘を付かずにワサビを買いに行くことである。
本当に大事な存在(ワサビ)が無くてもいいと受け入れる状況と、どうしても大事な存在(ワサビ)が無くてはならないと行動するのとでは、どちらの方が誠実であるか、考えればわかる話である。
とはいえ、私は別にどっちでもいいと考えている。食べたいように食べればいいのであって、なんでもかんでも記念日にするな、と思う。
言ってしまえば、大好きな人にとっては著者というのはその程度の存在でしかなかったということである。あったら嬉しいが、無くてもいいのである。私の想像だが、著者と著者の大好きな人は本当の意味では仲良くはならない気がする。
オシツケガマシーと感じた価値観は、そっと押し返してしまえばいいのだ。誰がなんと言おうと、自分が良いと感じたものは自分の中で留めておいて、誰に強制することもない。刺身をイチゴジャムで食べようと、ワサビが無いまま食べようと、好きにすればいいのである。このような私の考えだって、押し返してもいいし、受け入れてもいいのである。だが、受け入れた方が楽だぜ。どうだ、オシツケガマシーだろう?