美しい道具としての革靴の在り方
14年前にリリースしたザンパノというブーツ。
それは、多くの人の足元を彩る存在となり、ブランドの顔として今もあり続けている。
履き口の踵に向かう曲線や、つま先の丸みを帯びたウイングチップ。
緩やかで美しいラインに相反するように施した、ダブルソールの堅牢なボトム。
そんなアンビバレンスを表現したくて、線と構造で対比を表現したブーツのローカット・モデルを、14年の時を経てリリースすることとなったのだが。
いやはや14年の歳月は、さすがに遠かった。
創作時、しばしば走らせた線が止まる、止まる。
これでもかと言わんばかりに。
アンクル丈のブーツをローカットにするって、丈の高さを変えるだけでしょうと、大体の人は思っている。
きっと。
だけど。
実はそれら両者は全くの別物で、丈の高さを変えればバランスは崩れ、それを小手先で修正すれば「生きていない」靴になってしまう。
だから、今回のミッションは、ザンパノというイメージを損なうことなく、いかにそれらしく見える新作を作るかなのだが、ぼくの中であまりにも大きくなってしまったザンパノというブーツの存在は、その行為を拒むかのようにペンを曖昧に踊らせた。
断片的、点在したおぼろげな「あの時」の創作の記憶を手繰り寄せてはみるものの、なかなか繋がらないもどかしさが工房中の空気を埋める。
何回も、何日も、変わらず机上に現われる線は、古ぼけた道路に浮かぶ真夜中のセンターラインのように曖昧で的確さを欠いていた。
明らかに。
ぼくは二の足を踏み続けていた。
ザンパノが多くの人に愛される理由や、長くブランドの顔としてある理由。
それらを踏まえ、本作ではどのような物語を靴に落とし込むか、とか…。
もう考えすぎて前に進まない。
要は、右脳が煙を吐いたのだ。
兎に角だ。
右脳が思考を止めるなら、左脳にそれを委ねるしかない。
と、創作のプロセスを発想転換し、ようやく事が前に進み出した。
まずはブーツの中に潜むザンパノらしさを抽出した。
丸い線のウイング、そこから羽根までの距離、踵のプルタブの幅など。
それらを木型の半型(木型の反面をテープで型取り、紙に移し替えたもの)に描き、次にまだ描かれていない線で結ぶ。
必要なすべての線を描き終わると、ケント紙の上には横向きの靴の絵が完成した。
それは。
14年の歳月が、ぐっと近づいたような。
懐かしい線だった。
洗練されすぎず、少し野暮ったさを残した、でも決して甘くない。
道具として気遣いせず使える、日常を穏やかに包み込んでくれそうな線。
そう、これだよ。
美しい道具として、履く人とともに育ってくれる靴。
ぼくはこれを創りたかったんだ。
時を同じくして新しい革にも出会うことができた。
古くからある製法で作られたそのイタリア製の革は、まるで14年前の「あの」革にそっくりだった。
芯の詰まり方や表皮の表情、オイルの入り方、さらに色味や艶など。
それはまるで今回の創作のために用意されたのではないかと思うくらいで、運命のようなものを感じずにはいられなかったし、この革に出会ったおかげで、出来上がったばかりの型紙が立体になった姿を、より明確に想像することができた。
革を裁断し、ミシンをかけ、それを木型に沿わせ、釘と専用の工具で仮止めをする。
次に中底とウェルトを手作業で縫う。
そうしているうちに、あの時創った記憶が戻ってくる。
手が覚えている。
靴底を貼り合わせ、それを外注先に縫いに出すための段になって、はたと思いつく。
そうだ、山林さん。
出し縫いを山林さんにお願いしよう。
当時、靴底を縫う作業をお願いしていたのは、大阪西成区の山林さんという職人さんだった。
山林さんはこの道60年、戦後の高度経済成長期には1日何百もの靴底を縫ってこられた大ベテランである。
その山林さんが使っているのが麻糸で、今外注にだしている方のはナイロン糸。
ナイロンの糸の方が強度はあるようだけど、なんだか今回はどうしても山林さんの縫う麻糸を施したかった。
本当に細かいところなのだけれど、麻糸の方が温かみがあり、素朴で、今回の作品をそっと引き立ててくれている。
(山林商店さん、久々にお会いできて嬉しかったです、ありがとうございました!)
こうしてようやく。
1足の靴が完成した。
ザンパノのブーツが生まれてから14年が経って、ようやくローカットができた。
その間ぼくは、様々な知識と技術を得たし、それを靴で表現してきたつもりだ。
だからこそ。
今回、強く感じることがある。
それは。
なんだか1周回って戻ってきたような。
ぼくの「作る」のルーツに帰ってきたような、そんな感じ。
本作において、履くことに必要ではない装飾はできるだけ廃した。
例えばアッパーの切り口は色を入れていないし、ウェルトの装飾も最小限に抑えた。
ソールの底面だって、ほとんど装飾はない。
化粧をしていない自分を見せるようで、いささか恥ずかしかったけれど、それらは履くために必要ではないと思ったから、施していない。
道具としてあって。
かっこ良くって。
リペアをしながら何十年も履ける靴であって欲しい。
履きこむたびに表情が、まるで自分を映す鏡のように育つ靴。
美しい道具として、当たり前のように足元にある。
14年前、ぼくは。
そんな靴を創りたかったんだ。
長いあいだ待っていてくださった皆さん。
遅くなってごめんなさい。
なんだか、なかなか。
重い腰が上がらなかった。
ようやく、できました。
2024年12月吉日
靴作家・森田圭一
工房12月展にてリリース
オンラインストアにて先行受注