Reflection Journal 2019年11月7日 昼
ふと、リフレクション・ジャーナルに過去くことないなと思いながら、潜伏キリシタンのことを書こうと思いました。
1.潜伏キリシタンと隠れキリシタンの違い
1549年 フランシスコ・サビエルが鹿児島に上陸して、日本にキリスト教を伝える。
1614年 江戸幕府が全国にキリスト教禁教令を配布する
この間政府のキリスト教弾圧が続く
1873年 キリスト教禁教令が撤廃される
以後、カトリックに復帰した各地の集落に協会ができる
キリスト教が、弾圧されていた1614年~1873年の間は「潜伏キリシタン」
1873年以降も、潜伏状態を維持したのが「隠れキリシタン」
という分け方をしている。
2.牢屋の窄(さこ)事件
歴史的には、「五島崩れ」と呼ばれる残酷な事件である。
詳しくは、WEBで検索してみてください。
【長崎新聞の記事です】
1865年3月、長崎・大浦天主堂で、外国人宣教師と長崎・浦上村の潜伏キリシタンが出会った「信徒発見」が起きたのをきっかけに、久賀島のキリシタンも宣教師の指導下に入った。彼らは神道や仏教をやめてキリスト教だけを信仰すると庄屋に申し出た。1868年11月、五島藩は久賀島のキリシタンを捕らえ、「五島崩れ」と呼ばれる迫害が始まった。
久賀島の弾圧は苛烈を極めた。キリシタンを極寒の海に漬けたり、炭火を手のひらに置いたりして拷問した。それでも信仰を捨てないので、わずか12畳の小屋を板で二間に仕切って牢屋(ろうや)とし、男女に分け、幼児や老人を含む約200人を閉じ込めた。
入牢者はすし詰めの中で横になることもできず、その場で排せつした。食事は朝夕にサツマイモを一切れずつ。厳しい拷問も加えられ、衰弱した子どもを中心に次々に死んでいった。8カ月後、ようやく大多数の人が解放されたが、計42人が命を落とした。これを「牢屋の窄(さこ)事件」と呼ぶ。
しかし、実際に教会に赴いてみると、そこは清楚な空気が流れ、本当に静かな空間だった。怨念や憎しみみたいなものはなく、平和そのものの空間だった。推測ではあるが、残酷な死を迎えた人、その家族も含めて、自分たちなりに昇華して成仏したのだと思う。キリスト教的に表現するとパライソ(天国)に行かれたのだろう。
理解を深めるために、1つの情報を提供すると、ここはアウシュビッツの牢獄とは全く異なっていることだ。棄教すれば、その場で開放されることだ。牢屋の窄の説明にはどこにも出てこないが、棄教した人もいるそうだ。
子どもが死のうが、キリスト教を守ることを選択して、そして死んでいったということだ。個人的には、しっかり棄教した人もいたことを明記すべきだと思う。その方が、殉教した人たちの心に迫ることができると感じる。
3.隠れキリシタンの選択
1873年 キリスト教禁教令が撤廃されたときに、3つの選択があったそうだ。
①キリスト教に復帰する
②仏教・神道に転宗する
③禁教期の信仰を継続する(隠れキリシタン)
②③を選択した方々の気持ちの推察も難しいが、信仰してきたものとキリスト教が違うものと認識、文化として捨てたくなかった、周囲との関係から隠れた状態を維持した など理由があるそうだ。
周囲との関係については、久賀島では、
①先住民(仏教・神道を信仰)
②移住民(潜伏してキリスト教を信仰)
①の先住民は、②の移住民の信仰をそれとなく黙認しており、表立って表現しなければ、相互関係を継続するという立場をとったそうである。①と②の関係を継続するために、隠れキリシタンという選択をした集落もあるようだ。
しかし、現在は少子化高齢化によって、集落が維持できなくなり、隠れキリシタンの方もほぼいらっしゃなくなったようだ。