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漫画シュトヘルに私の心がふるえる理由と、私なりの愛情表現

シュトヘル、って漫画を読んだことある?

この少年はシュトヘルではなくユルールといいます


モンゴル語で悪霊って意味のこの漫画、12月からマンガワンなるアプリで読み始めて、激はまりしている。
このアプリには無料で漫画が1話読めるライフというアイテムがあって、朝9時と夜9時に4個ずつ回復する。この漫画に出会ってから、9時という時間が特別になってしまった。わたしにとって平等に価値のあった24時間は9時と21時とそれ以外になってしまった。
はじめて「死んでほしくないキャラクターが死ぬ」という体験もした。小学生のころに友達が嘆いていたその状況のやるせなさに、いまやっと共感できた!

あんまりあらすじの説明がうまくないのだけど、
ユルールという優しすぎる少年が文字のすばらしさにほれ込んで、滅びゆく国の文字を守ろうとする話。
(異論・訂正大歓迎です)

絵やストーリーや敵味方関係なく魅力あふれるキャラクターなど…素晴らしいところはたくさんあるのだけど、セリフが熱いんだよね。
ただ熱いだけでなくて、私の大切にしているものを代弁してくれる感じがある。
文字・生死を超えて繋いでいく、みたいなキーワードとか、「チ。地球の運動について」が好きな人にはぜひおすすめしたい。

愛情表現

少し話は逸れるが、フランス ル・ピュイの道での巡礼旅で出会ったデイビッドという若者の話をさせてほしい。
このデイビッド、ちょっとしたプレゼントで人を喜ばせるのが大好き。
町につけばいつの間に書いたんだというはがきを何通も友達に出す。私がデイビッドの食べていたパンの袋の絵を気に入り「食べ終わったらちょうだい」と話していたら、翌朝新品の袋をお店でもらって来てくれた。歩き旅の間、道できのこを採っては集める私に、きのこのハンディ図鑑をプレゼントしてくれたり。

デイビッドが言うには「プレゼントするのは、ぼくのLove languageなんだ」とのこと。
(この場合のLoveは友達も含む好きな人への愛情である)

それから、Love languageは、ひとによって違うねという話になった。
ある人はスキンシップや距離で親密さや愛情を表現する。
ある人は、手紙や詩を書くことで。
ある人は、モノを贈ることで。
ある人は、お金や時間をかけることで。
私のLove languageは、なんだろう?
その人について、その人の言葉やストーリー、すがたを記録することかもしれない。
(すげえオタクっぽい。そうです、オタクです。)

なので私は、好きな人や出会った人のことを写真や日記、メモに残したがる。
私の気持ちなどすぐに移っていってしまう薄情なものだから。
人の名前もすぐに忘れてしまうから。

逆に、自分のLove languageと他者のLove languageが違うとき、愛されてない、と感じたり、寂しさや怒りを覚えたりすることもある。本当は愛されているのに。その人なりの愛情表現はしているのに。

以前、彼氏と友人と川に魚を捕りに行ったあと、私はとても悲しくなったことがあった。

私は二人の写真は撮っていたけど、私の写真は誰も撮ってくれなかったのだ。
(頼めばとってくれる二人ではあった。頼まないとやってくれないことが私には悲しかった。それほどに私は重要でないのだと受けとってしまったから。)
愛をもってシャッターを切るとき、いい表情をつかまえることができる。大好きな二人を撮っているのだからそれはいい写真だった。大好きな二人が、仲良さそうに笑い合っている。いい写真。そこに私はいないけれど。彼氏彼女の関係ではあったものの、あんまりうまくいっていなかったので、その苦しさも相まって、私といるより楽しそうじゃん!と苦しかった。仲の良いはずの友達さえ、私のことを見てくれてない、記録してくれない。私だけ要らないじゃん、と感じて悲しかった。

この気持ちも悲しさもほとんど忘れていたけれど、そんな日記が出てきたのだ。でもLove languageがひとそれぞれ違う、ということが腑に落ちたいま、「私の愛情表現と友達の愛情表現がちがったんだな」と思えている。
(そして男性については別れてから、私のことを恋愛として好きではなかったことが分かった。表現以前の話。友達としての愛情表現はいっぱいあったね)

私にとっては、みつめる、記録する、気にかける、おいしいものを分かち合う(食いしん坊なのでほんとに特別なひとにだけ分けてあげるのだ!笑)、その人のことを語る、本を贈る、ハグなどでぬくもりを伝えるなどが愛情表現。

別の人の、例えば友達の愛情表現は、一緒にいる、おいしいものを分かち合う、いつでもウェルカムしてくれる、私の話をいろんなひとにする、大切な人に紹介してくれるなどだ。

ひとそれぞれ違う愛情表現を、いまはそれぞれ「その人らしくて愛おしい」と感じる。
1年半のあいだに、私もいろいろ学んだようだ。

もちろん、自分が受け取りやすい愛情表現を伝えておく、おねだりしてみるのは大切なことだ。勇気がいるけれど。そしてやはり、受け取りにくいものにも愛を見つけるのも、大切なことだ。
それが器をひろげるということかもしれない。
愛は受け取るものだが、能動的に受け取るものなのだ。自分から見つけるものなのだ。

記すこと

11月にスマホのメモアプリを消してしまった。誤って。でも自分で。
膨大な、何千文字もの、数千件もの、10年分くらいのメモ。
ゴミ箱に入れたのとは違って、復元できず。
iCloudのバックアップは5年前が最後だった。(これの起動で上書きされてとどめを刺した可能性大。)
データ復旧ソフトもFonepaw、Recuva、UltDataと試してみるも、メモのファイルは一件も見つからなかった。

忘れることはしょうもないことなんだよ、と尊敬する知人は言う。
忘れてもいいんだよ。と、頼りになる友人は言う。

自分でも日記にとんでもない時間を費やしている自分にうんざりするときもある。
やっぱり忘れたくないことはあるのだ、忘れてしまうことの中にも。

私なりに世界を愛して残そうとした営みなのだ。
出会ったひとだけじゃない、
揺らいで留まることのない気持ちや、一瞬や、できごとの。

覚えておくという私の記憶力、自分の能力を超えて、身の丈を超えて、それでも残しておきたいと思ったのが日記であり、メモだったのかもしれない。

こんなふうに自分の日記の意義を再確認したいま、何をどう残すか、改めて見直していきたいとも思った。
ユルールのいう「できごとと、心」を残したかったはずだ。
さすがに日記のほとんどが食べたものの内訳で埋まっているのは、不本意である。
食べ物を愛しているのは間違いないのだけれど。

エッセー集「世界の適切な保存」

追記:今朝読んだ新聞に、哲学者の永井玲衣さんのインタビュー記事が載っていた。新刊のエッセー集「世界の適切な保存」について彼女は次のように語る。

「人々と対話の場をつくる活動をするなかで、そこだけの世界の断片や、出会った人々の記憶のカケラがたくさんあります。それをいかに取りこぼさずに書けるか、『適切に保存』できるかという試みです」

しんぶん赤旗 2024.12.8

ねえ!ユルールがいるよ!ユルールやん!

失礼、取り乱してしまいました。戦争や暴力に対して「対話」の力で抵抗していこうとする永井さんの姿勢がユルールに重なった。
無関心や仕方がないという考えに対して「本当に?」と問うのが哲学の役割だという。

シュトヘルは歴史漫画でもあり、哲学漫画でもあるようだ。
(というか漫画自体に哲学の要素があるのかも)。

永井さんの新刊、読みたいような。タイトルはドンピシャなんだ。でも、「水中の哲学者たち」もタイトルドンピシャで買ったのに、何度挑戦しても読みきれなかったので躊躇している。でも「世界の適切な保存」は私にとっても追い求めていることなのだ。本屋行くか。

永井さん、シュトヘルよんでなかったぜひ読んでください!どこに贈ったらいいですか?


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