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かけがえのなさについて
北海道に来ている。
ニセコ方面に向かう道で
草を食んでのびのびと過ごしている牛をみて、美味しそう!と思った。
ステーキもハンバーグも美味しかった。
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基本的に私の中で可愛い、好き、美しい、と美味しそうは両立する。
きのこしかり
お魚しかり
野菜しかり。
鶏に関しては、たくみ(私の飼い鶏)だっていざとなったら食べるつもりだった。
でも食べられなくなったのは、
食べてしまったらもう会えない、
その悲しさに尽きる。
多分、目の前の牛が地球最後の牛なら、食べないと思う。
牛というものにまた会えなくなるから。
でも、この健やかそうな牛たちは、私にとって唯一無二ではない。
ほかのその他大勢の牛と等しく好ましく、
悪く言えば代替可能な存在。
なので、美味しそう!と思って
美味しい!と食べてしまえる。
私にとって食べられるかどうかは
その生き物との関係性なのだと思う。
小さい頃は「にんじんさん」などと言われると、人格を感じて食べられなかった。
顔のついた可愛い土産菓子も
食べ難かったし
アイシングのされた角砂糖なんかも
唯一無二すぎて食べ難かった。
(大事にたべたけど)
最近では可愛いキノコなども
愛着が湧いて食べ難かった。
私の中では
蒐めたい欲と
食べて味わいたい欲がいつも葛藤している。
オタクが観賞用と実用用?と同じものを複数所有する気持ちはここから生まれるのかもしれない。