わたし。
無職日記も綴らず
noteもあまり開かず
文を読むこともせず
考え事ばかりし
心地の良い音ばかり聞き
ぼーっとして
あと2歩くらいで変わりそうな雰囲気になってきた今日この頃。
仕事を辞めて、自己と見つめあって様子見をしていた。
友達と話すことも
家族との関わりも
驚くほど減って、自分との自分の時間を
たぶん、生まれて初めてこんなに長く過ごしたと思う。
そしたら、元々群れることも好きでない性格がもっと強調されてどんどん入り込む。
ただ、心の中のもう一人の私が世間との調和を促してくる。
世の中から取り残された、孤独感・疎外感。
人並み を人並みに求める自分。
どんどん自由になって
どんどん一人になりたくて
進んでいく自分。
魂がワクワクして喜ぶ。
反面、
どんどん周りとの調和を気づかない振りして
どんどん日常の歯車が狂って
どんどん周りがおかしくなる。
そこを修正し、空気を読み 調和を促す元々の自分に疲れた。
普段なら崩れかかった駒を調整して、崩れないようにパトロールしているから 大きく崩れることはなかった。
今は見てみぬふり。気づいてないふり。
とても理不尽。
勝手だなと思って 気を病むこともある。
周りからみたら、変わってしまった人。
だろう。
自分を優先して心がときめくのに
理不尽な自分に気づいて、また引っ張られる。
もう疲れたから、バランスなんてとりたくない。席をはずす。
私が居なくても回る。
そう思うけれど、はたして それが最善なのだろうか。
過去、こうだったから、こうなった。
この家に生まれたから、とか、環境や家族の問題、育ち方、経験。
体質、敏感さ、病気。
それが問題だったから、この問題が起こった。
こんな自分になった。
こんな風にしか感じなくなった。
っていう問題は、その構図にピタッとハマったときに、安心する。
納得して、自分は悪くないって救われる。
はたして、その型にハマる必要はあるのだろうか。
それが相まってできたものが個であり
短所であり 長所であって
だから、こうなった。
だから、こう感じる。
と、いう結論を胸において、その都度それを認めて進むしかないのではないか。
こうなったから、あれが悪い
親のせいだ。環境が変だったから。
とまで思うことはあれど、変わらない事実を責める時間があるのなら、それを抱えて
たまに逃がしながら進む方が絶対的に良い。と、私は、思う。
病名を突き詰めなくても
こういう体質で体調悪いなぁって思いながら過ごす。(実際は病名がハッキリすれば治る確率が上がるので、これは突き詰めたほうがいい。)
そんな、感覚。
これがこうなったから、今の私がいる。
ただそれを認めるだけ。
嫌だったことも、嫌な自分も認めて 少し切り離して見つめる。
自分でもはっきりと分かるくらいに 心の中の本当の自分がニョキニョキ奮っている。
これも わたし。
今までの私も私。
わたし は、変わらない。