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『よるくま』酒井駒子

この春、息子は5年生になり娘は1年生になった。

眠りにつく前には、子どもと本を読む。
この習慣がいつ頃から始まったのか正確には覚えていないけれど、
息子が2才の頃から始めているなら、娘に代替わりしつつ、
もう8年くらいの習慣になる。

今日は8年くらい前のことを振り返ってみようと思う。

息子が幼稚園に入園する前の頃だ。
その頃、息子は『よるくま』を読んでと毎日のようにせがんでいた。

絵のタッチがいいなあと軽い気持ちで買って、
最初は「よるくま」可愛いねえと微笑ましく読んでいたのだが、
読んで読んでと息子にせがまれて、繰り返し読んでいるうち、
よるくまのお母さんについて考えるようになった。
「こんなかわいいよるくまをおいておかあさんどこにいったの」
このセリフに、やましさを覚えるようになった。

眠る「よるくま」をおいて星の海に魚を釣りに行ってしまうとお母さん熊と、
息子が寝たら喜び勇んで書き物や読書に耽って、
心だけ、
息子のそばから遠く離れたところに飛ばしている自分が重なって、
これは息子にばれているな、
こういう抗議のスタイルだろうか、と感じたのを覚えている。
しかもお母さん熊は「おしごと」だけど私は仕事ではないし、
と覚えなくていい罪悪感まで感じて、勝手に苦しんでいた。

それでも息子の「よるくま」フリークは続き、
本当に何べんも、毎晩毎晩、読んで、とせがまれた。
何を求めて息子はこんなにも繰り返し読みたがるのだろうかと、
息子の表情も見ながら読んでみると「抗議」の意志なんか彼にはなく、
ただ「安心」を求めているのではないだろうか、と思えた。

「まっくら! 」のページをじっと見つめる息子の横顔には緊張があり、
「助けて! ながれぼし」から、お母さんと再会する流れで、ほっとして力が抜ける。
離れても、また会える、この安心感。
ちょうどプレ幼稚園で母子分離に手こずっていた時期でもあった。

よるくまとお母さんは、
よるくまが流れ星に掴まって、
お母さんがその流れ星ごとよるくまを釣り上げて再会を果たす。
この再会の仕方は、
子どもだけが、お母さんに会いたいと願う一方通行的な心をもっていたのではなく、
お母さんからも、子どもに向ける意識(もしくは無意識に子どもを想う心)があることを
暗示しているような気がしたのだ。

星につかまる、よるくま。それを釣り上げるお母さん。

心を遠くに飛ばしても、ふっと、子どものことに意識が返ってくることがある。
夢中で読んでいた本のなかに、ぐっとくる言葉があった時、
大きくなったら子どもにこの言葉を教えたいなと思っていたり、
登場人物のなかに息子と通ずるものを感じたり。
意識が返ってくる前に、子どもに泣かれて慌てることもあったけれど。

昼間、子どもと過ごす時間は楽しい時間でもあるけれど緊張もある。
子どものペースに合わせるあまり、自分の心の手綱をきつくして、
心が勝手に動いてどこかへ行かないよう押さえつけることに草臥れていた。
そんなガチガチの母だった私は、夜、心だけを旅に出して、何かを休ませていたのだと思う。
お母さん熊の「おしごと」くらい、私には夜の旅が生きるために必要なことだった。
その旅を、後ろめたく思う気持ちはたぶん、もたなくて大丈夫。
離れて、また会う。また会えた喜びを味わえばいい。

最近、夜は早く寝て、朝の4時くらいから、心を旅に出してやることが多くなった。
空が段々明るくなるにつれ、私の意識も旅から戻ってくる。
息子と娘が起きてきて、おはようを言うと、旅は終わる。
いい旅をした朝ほど「おはよう」のハグを、ぎゅーっとしたくなる。
再会したよるくまと、お母さんの抱擁のような。
息子はもう精神的にも物理的にも大きいのでハグを毎日したい訳でもないようだけれど、
時々、すっと腕を広げて近づいてくる。
娘は大体毎日、よじ登って抱きついてくる。
考えてみれば、こういう朝って嬉しいことじゃないか。
ここから目まぐるしい生活が始まるので、
毎朝そんなことを思ってはいなかったけれど、
いま書きながら気付いたので記録しておく。

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