デザイン思考と起業行動 PARTⅢ
前回述べたように、狭義のデザイン思考とリーン・スタートアップやアジャイル開発はそれぞれ考え方の一部分を共有するものの、基本的には別物として捉えることができる。そのため、Dell’Era, Magistretti, Cautela, Verganti and Zurlo(2016)が行ったように、それらを足し合わせることは形式的には可能なように思われる。彼らは、狭義のデザイン思考にリーン・スタートアップとアジャイル開発を加えたものを「スプリント(広義のデザイン思考)」と定義している。
なお、ここでいう、それぞれの考え方に共通する部分とは、不確実性(あるいは、その結果として生じる予測不可能性)への対処に主眼が置かれていることである。さらに、その不確実性とは、「結果が分からず、事象の生起の確率分布も未知であることに加えて、この生起の確率分布を普遍のものと仮定してよいかどうかも分からないような状態」(Knight,1921)のことであり、予測という科学的な取り組みを無効化するような不確実性のことである。したがって、三者では共に予測をあきらめ、失敗すること(1回の取り組みでは上手く行かないこと)を前提に、その失敗から効率的かつ確実に教訓を得て、素早く次に進むことに主眼を置いたアプローチが採用されている。
その一方で、それらの間(特に狭義のデザイン思考とリーン・スタートアップの間)には、少なくとも2つの相違点が存在する。
1つ目の相違点は、ピボット(方向転換)が対象とする次元の違いである。狭義のデザイン思考におけるピボットの対象は主に製品やサービスそのものであるが、リーン・スタートアップでは、その背後にある戦略が主たる対象とされている(Ries,2011)。そこでは、製品やサービスの改訂に留まらず、企業の在り方やビジネスモデルまでも改訂してしまう。つまり、両者の間ではピボットの対象とする次元が異なっているのである。Ries(2011)は下記の引用からも分かるように、スタートアップの活動を「戦略を検証する実験」として捉えている。
2つ目の相違点は、時間軸の違いである。リーン・スタートアップは前述したように、戦略をピボットの主たる対象としているため、それに伴い、狭義のデザイン思考に比べ時間軸も長くなっている。本編⑫のところで見たように、リーン・スタートアップは「実践投入からの学び」を信条とするため、実際に市場に製品(MVP)を投入してユーザーの反応を探る。そして、旗色が良くない場合は戦略の方向転換を図る。
Thomke(2020)は、そのような市場との対話を何度も繰り返すことでブレイクスルーが起きる場合があるとして、次のように述べている[注1]。
また、元・MITメディアラボ所長(現・千葉工業大学変革センター長)の伊藤穣一氏によると、YouTubeやPayPalも、以下に示すように同様の経緯を経てブレイクスルーに辿り着いたとされている。
このように、狭義のデザイン思考とリーン・スタートアップでは、対象とする次元や時間軸が異なっており、それらを足し合わせて新しく生まれる概念(=スプリント)は、狭義のデザイン思考に比べ、対象とする次元や時間軸が広がる。つまり、Dell’Era et al(2016)で行われた作業の本質は、デザイン思考概念の拡張であり、それ自体それほど珍しいものではない。そのような操作は、これまでも様々な研究において行われてきた。例えば、Bourdieu (1979)が提唱した「文化資本(cultural capital)」は、個人に宿るミクロなものから、マクロな経済発展を説明する概念にまで拡張され(Throsby,2001)、Boland and Collopy(2004)が提唱した「デザイン態度(design attitude)」は個人の意思決定から、メンバー間で共有される組織文化にまで拡張された(Michlewski, 2008)。
ただし、概念の拡張を行うと、それに伴って理論的な性格も変質することがある。デザイン思考の場合、それは「問題解決」から「学習プロセス」へと変質すると推察される。なお、そのような変質を考える上でヒントとなったのが、新製品開発研究におけるシングルプロジェクト研究とマルチプロジェクト研究の理論的な問題意識の違いである(青島,1997)。それに倣えば、対象となる次元や時間軸が拡張されることで、商品化の持つ意味合いや、関心の寄せられる部分が次のように変化すると考えられる。
まず、従来からある狭義のデザイン思考では、(ある特定時点で顧客が要求する機能を、物理的構造物としての最終製品へと具現化させる)製品開発をユニークで独立した一連の問題解決プロセスと捉え、物理的な製品を世に送り出すという意味での商品化がゴールとなる。それに対して、広義のデザイン思考(スプリント)では、個別の製品開発プロジェクトを越えた活動に関心が寄せられる。そこでは、物理的な製品を世に送り出すという意味での商品化は、学習プロセスの副産物と位置付けられる。つまり、物理的な製品にまとめ上げるのは、それを顧客が買うから意味があるのではなく、そこで製品システムに関する新たな学習が起こるから意味があると考えるのである。
●参考文献
青島矢一(1997)「新製品開発の視点」『ビジネス・レビュー』第45巻、第1
号、161-179頁。
Boland, R. and F. Collopy. (2004), Managing as designing. Stanford University
Press.
Bourdieu, P.(1979), La distinction: Critique sociale du jugement. Les Editions
de Minuit. (石井洋二郎訳『ディスタンクシオン―社会的判断力批判(1・
2)』藤原書店、2020)
岩尾俊兵(2019)『イノベーションを生む改善:自動車工場の改善活動と全社
組の織設計』有斐閣。
Klenner, N. F., G. Gemser and I. O. Karpen. (2021), “Entrepreneurial ways of
designing and designerly ways of entrepreneuring: Exploring the
relationship between design thinking and effectuation theory.” Journal of
Product Innovation Management. Advance online publication.
DOI:10.1111/jpim.12587.
Knight, F. H. (1921), Risk, Uncertainty and Profit. Houghton Mifflin.(奥隅榮喜訳
『危険・不確実性および利潤』文雅堂書店、1959 )
Michlewski, K. (2008), “Uncovering Design Attitude: Inside the Culture of
Designers.” Organizational Studies, Vol.29, No.3, pp. 373-392.
Ries, E. (2011), The Lean Startup: How Today’s Entrepreneurs Use Continuous
Innovation to Create Radically Successful Businesses. Currency. (井口耕二訳
『リーン・スタートアップ』日経 BP、2012)
佐々木康裕(2020)『感性思考』ソフトバンク・クリエイティブ。
Thomke, S.(2020), Experimentation Works: The Surprising Power of Business
Experiments. Harvard Business Review Press. (野村マネジメント・スクール
監訳『ビジネス実験の驚くべき威力』日本経済新聞社、2021 )
Throsby, D.(2001), Economics and Culture. Cambridge University Press.(中谷武
雄・後藤和子訳『文化経済学入門: 創造性の探求から都市再生まで』日本
経済新聞社、2002)