支援技術としての抽象化と具体化
はじめに:他者理解の限界を知りつつ
ぼく自身、支援を学んでいる最中の身で、今日の内容については試論の域を出ないのですが、ふだん支援をする中で考えていることを言葉に落としておきたいと思い、今日は書いています。
支援の基礎技術のひとつに、支援を必要とするひとへの傾聴・共感があります。
例えば、厚生労働省の「こころの耳」というメンタルヘルス専門サイトでは、カール・ロジャーズを引きながら「共感的理解」を以下のように定義しています。
書籍や教科書によって定義は少しずつ違ったりもしますが、「傾聴・共感」の定義としては、おおよそ上記のような内容が書かれています。
一方、この「相手の立場に立つ」「相手の気持ちに共感する」というのは、口で言うほど簡単にはいきません。この二つが簡単ではない理由は、端的に言えば
「ひとが、目の前にいる他者を、100%理解することは不可能であるため」
だと思っています。
「今回は、このひとのことを100%理解できたかも」という願望にも似た淡い期待は、他者が他者である以上、どこかで必ず裏切られる構造になっているとも言えます。
それでも人間は、だれかを理解したいし、だれかに理解されたい。
そして、ぼくもそうした人間の一人だなと常々思っているところです。
いきなり絶望的なことを書いたのは、ぼく自身がここで、
「100%相手を理解できないことに絶望する前に、一方で100%相手を理解できると傲慢になる前に、目の前の他者の"正しい理解"に少しでも近づくために、ひとには一体なにができるか」
という、「この文章が答えようとしている問いかけ」をちゃんと定義したいと考えたからです。
今日、書こうと思った内容を理解したところで、目の前の他者を100%理解できるようになるものではありません。
それでも、相手をより良く理解するために、技術として使えそうなものとしての「抽象化と具体化」について、ここでは書いていきたいと思います。
「目の前の他者の見ている世界を、感情を、少しでも理解したい」という謙虚な望みを諦めないひとに読んでもらいたいなと思っています。そして、少しでも役に立てたら幸いです。
抽象化と具体化を用いた対話例
例えば、支援の現場でクライエントが
と話したとしましょう。
これに対する基本的な傾聴としては、「そうなんですね」「そうなんですか」というような反応が求められます。
一方、ここから更に一歩踏み込んで目の前の相手をより良く理解するために、「具体化」にベクトルを定めた傾聴、という技術があると、ぼくは考えています。
このクライエントの訴えはものすごくシンプルに分解すれば、
「犬の鳴き声を聞くと」(状況的インプット)
「不安になる」(感情的アウトプット)
の2つに分けられます。
状況的インプットの具体化と抽象化
まずは、「状況的インプット」に関する抽象化と具体化から考えてみましょう。
ここで言う「抽象化と具体化」とは、質問・問いかけによって相手が話している内容の抽象度を上下させ、自分と相手の見ている世界をすり合わせるという方法です。
これは特に状況的インプットの輪郭をクリアにする上で有用です。
例えば、以下のような形で、「犬の鳴き声」を抽象化する質問を投げかけることができます。
というような形です。
逆に、「犬の鳴き声」について、より具体化する質問をすることもできます。例えば、
ひとは、話し言葉の中で特定の状況をすべて説明することができません。
そのため、話し言葉の中では、さまざまな要素が捨象されています。
しかし、目の前の相手の状況的インプットについて、抽象度をコントロールしながら話を聞いていくことで、その捨象されたものの中から、大切なものを拾い上げることが可能になります。
相手の置かれた状況的インプットを、より鮮明に理解することで、相手のかかえた感情的アウトプットを共有していくための前提を整えていくことができます。
感情的アウトプットの具体化
感情的アウトプット(とある状況でどう感じたか、についての口頭表現)は、基本的に、最初に発話される段階では抽象度が高いことがほとんどだと思っています。(それに比べると、状況的インプットの具体度・抽象度は、場面によってまちまちです)
そこで、本人の感情的アウトプットをより鮮明に理解する(換言すると、共感する)ためには、質問・問いかけを通じた「感情の具体化」が必要です。
これにより、相手にとってその感情的アウトプットがどのような体験なのか、また、先に確認した状況的インプットと感情的アウトプットがどのように結びついているかについて、より深く理解していくことができます。
例で出したクライエントとのやり取りに戻ります。
「不安になる」という発言に対して、クライアントがこの不安をどんな風に経験しているのかをより具体的に知るために、クライアントが「不安」という言葉によってどのような情動を表現しているかについて、問いかけてみるとよいでしょう。
例えば、
などです。
さらに、状況的インプットの分析を通じて輪郭を得た「犬の鳴き声」と、体験されている「不安」が、クライエントの中でどのように結びついているのか、一つ歩みを進めて具体的に知るために問いかけることも可能です。
などです。
まず感情の起因となっている状況設定の抽象度を上げ下げします。
そして、相手の表現したい内容と自分の理解を擦り合わせます。
そして、相手のこころに喚起された感情を、より具体的な方向へ掘り下げます。
これにより、クライエントがどのようにその感情を経験しているのか、またなぜそのような状況と感情の連鎖(犬の泣き声→不安)が起きるのかを、よりよく理解することができるかと思います。
最後に
「よりよく理解することができるかと思います」という、この歯に物が挟まったような物言いは、冒頭で述べた通り、
「ひとが、目の前にいる他者を、100%理解することは不可能であるため」
というわたしなりの考えが、その背景にあります。
つまり、「犬の鳴き声」の指すところについて、いくら抽象度を上下させても、厳密にはクライアントの頭の中にある「犬の鳴き声」をピッタリと捉えることはできません。
また、いくら状況的インプットを限りなくすり合わせたとしても、そこから換気される感情について、クライエントとまったく同じやり方で体験することもできません。
しかし、相手をよりよく理解しようとするためのこのやりとりは、まさに相手と同じ風景を見ようとする努力であるとも思うのです。
それは、別の言い方をすれば、クライエントへの関心の表現・表明に他なりません。
自分に関心をもたれること、自分の見ている世界を、目の前にいる他者が理解しようと努力していること。そのためのやり取りが続いていること。
このプロセス(が続いていること)自体が、支援を受けている本人にとって回復につながるという視点も、ぼくは大切だと考えています。
追記:
書いていて思ったのですが、こうしたやり方を通じて他者の共感的理解に近づけるという考えの背景には、
人の思考/ものごとの理解は、抽象度の異なる事象をレイヤー構造で捉えることで理解できる(はずだ)
人の思考/ものごとの理解と感情とは、なにかしらの因果関係でつながっている(はずだ)
という前提があるように思いました。この前提を無条件のものとしないことも大切だと思い、追記しました。