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コミュ障がこころに人を飼う話

コミュ障という便利な言葉ができた。コミュ障って言っておけば、人間関係こじれても免罪符のように使える気がする。

私コミュ障なの

家族とはよく喋るしコミュニケーション取るけど、公の場に出るのが極端に苦手になった。人と話せば後悔するし。
寝る前に今日一日を反芻する。「なんであんなこと言ったんだろう」「代わりにこう言えばよかった」「黙っておけばよかった」
そんなことの繰り返しで38歳になっている。20代の時より慎重になったし落ち着いてきた。代わりに20代の時の発想や勢いは失ったと思う。
どちらがよかったのだろう。
無鉄砲に突っ込んで人間関係に振り回されること。
コミュ障と称し慎重に発言して発展しないのと。
極端すぎるのだ。もう少しいい塩梅にならんかね。自分の中のあの人が言う。

この歳になって心の中に人を飼うようになる。

私は今3人飼っている。
押し並べて「できる人」たちばかりだ。
身の回りにいる実際の「できる人たち」が自分の中にいて、私の行動に対し指示をするのだ。
「今の発言はする必要ないよね?相手を混乱させるだけ」
「最初に結論。あとに説明」
かしましい。

こんなこと言うと精神の病やらストレスなどカテゴライズされそうで怖いのだが、至って普通の人のつもりだ。
コミュ障だと言っておきながら、結局その3人を私は飼い慣らしている。

自分で決断したくない。

結局そういう甘えなのではないかとも思う。
自分の判断、咄嗟の行動に反省点が多すぎて、結果他人ならどう思うのか、判断してもらっているのではないか。

果たして世の中の大人はみんな自分の頭で考えて行動しているのだろうか。
そうだとしたら凄すぎる。

コミュニケーションの難しさを毎日感じる。意図が伝わらない。他人他人他人。
それでも私たちはコミュニケーションを続けていかなければならない。
毎晩反省会を開きながら。
他の人たちの考えを拝聴しながら。

完璧なコミュニケーションなんてありはしないのではないか。伝わらなくて当然で、伝わったら奇跡。あいつはあいつで俺は俺。

みんながそう思えたらコミュ障なんて言葉無くなるのではないだろうか。

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