「行為×環境=評価」について
はじめに
今回は、「行為×環境=評価」について考える。
結論から述べると、個々人が他人から受ける「評価」は、その人の「行為」そのものではなく、その人の「行為」とその人が置かれている「環境」のかけ算であると思われる。
裏返せば、個々人が他人から受ける「評価」は、その人が置かれている「環境」によって変わりうるということである。
このことは、当たり前と言えば当たり前だが、上記のように「かけ算」のような数式で表すことでよりわかりやすくなると思われる。
本論
具体例で考えてみる。
例えば、他人から高く「評価」される人はどのような人だろうか。現在の日本では、他人に気を配る人、真面目に働く人などではないだろうか。
しかし、例えば戦前や戦時中の日本では、国やお上に従順な人、分をわきまえる人が他人から高く「評価」される人だったのではないだろうか。
また、現在であっても日本以外の国、例えばアメリカでは、リーダーシップがある人は高い「評価」を受け、他人に気を配る人や真面目に働く人は時に自己主張のない人として低い「評価」を受けることもあるのではないだろうか。
つまり、どの時代、どの地域でも高く「評価」されるような個々人の「行為」は存在しないといえる。このような時代や地域といった要因を、個々人を取り巻く「環境」とみなせば、先に述べた次の公式が成り立つ。
行為×環境=評価
この公式がかけ算で表されることを、次の具体例から考えてみる。
現在の日本において、ある会社で、他の社員がまだ仕事をしているときに定時で帰る社員はどのような「評価」を他人から受けるだろうか。
現在の労働基準法では、定時に帰るという「行為」は正しい(少なくとも間違いではない)。しかし、その人の他人から受ける「評価」が低いものであることも少ないと思われる。
これは、言うまでもなく、その人の置かれている「環境」、つまりその会社が残業の多い「環境」だからである。そのため、この「環境」は労働基準法に照らせば正しくないと言える。
仮に、正しいことを「+」、正しくないことを「-」とすると、この例は次のように表せる。
「定時に帰るという行為(+)」×「残業が多い会社という環境(-)」=「低評価(-)」
かけ算では、「+」かける「-」は、当然「-」になる。
つまり、「行為」は正しいものであっても「環境」が正しくないがために、「評価」も正しくない、つまり低い評価になってしまう。
このように考えれば、正しい行為をしているにも関わらず他人からの評価が低い人や、正しくない行為をしているにも関わらず他人からの評価が高い人がいることを説明することができる。
もちろん、定時以降に働く(残業する)人が必ずしも間違っているわけではないだろう。人手不足や多すぎる業務量から、仕方なしに残業する人がほとんどであると思われる。
ただし、忘れてはならないことは、定時に帰るという「行為」が結果として周りの人々の迷惑になったとしても、その「行為」自体は正しいということである。
よって、定時に帰るがために低い「評価」を受ける人を責めるのではなく、誰かが定時に帰ることで周りの人々にしわ寄せがいく会社(社会)という「環境」を問題視したり改善したりすることが重要であると思われる。
「罪を憎んで人を憎まず」というが、この場合、その行為に「罪」がない(正しい)のであれば、「環境を憎んで人も行為も憎まず」があるべき姿であろう。
おわりに
このように、個々人が他人から受ける「評価」は、その人の「行為」とその人が置かれている「環境」のかけ算であると思われる。
このことを意識することで、「今・ここ」からのみの見方ではなく、広い視野の見方で物事を考えることができるのではないだろうか。
また、定時に帰るという行為が正しい(+)という考えすら、労働基準法が制定された現代の日本という「環境」によるものということもできる。
こうした意味で、「環境」に左右されず、本当に正しい「行為」を追求することは非常に困難なことではある。
しかし、例えば侵略という「行為」は常に正しくないと思われるし、支援という「行為」は常に正しいと思われる。このような、「環境」に関わらず「評価」を下すことのできる自らの「軸」のようなものもまた大切なのではないだろうか。