都市哲学もどき#2
こんにちは、だるまです。
レポートに求められている趣旨と、自分の書きたいテーマが齟齬をきたしはじめたので清算します。
前回は「都市を語る会」で話した内容をつらつらと書きました。第2回が開催されるようで、楽しみです。
断章
さて。ブツブツと話題が変わります。「断章」というと許されるらしい。
都市や都市計画を語るうえで近頃欠かせないテーマが、人口減少と少子高齢化です。
そもそも、人口拡大と工業化による都市への人口流入、経済成長の文脈で、「いかに都市をコントロールするか」に主眼が置かれた都市計画。
工業化→衛生問題→都心は居住に不適→郊外に住む→居住と就業の分離→用途地域(ゾーニング制の輸入)
という流れが都市計画の土台をなしています。
都市へ働きに来た労働者(とその家族)が郊外に居を構え、「男性は都心へ働きに、女性は郊外で家事子育てを」という性別による分業システムが定着。
桃太郎でも「おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に」という分業システムが…と思いましたが深入りは避けます。
山本理顕が主張する「『一家族=一住宅』という呪縛」は戦後に始まります。
家族は団地や郊外戸建の密室に住み、子供を育て親の介護を引き受け、と「ケア」を内包することとなります。
「一家族=一住宅」が戦後政策によって進められた特殊な形態であることを、言われるまで気が付きませんでした。
「一家族=一住宅」の封鎖的居住が確立しているために、その枠組みの中で町内会やコミュニテイ組織を作ってもうまくいかないという話らしいです。町内会って存在するのかしら、と、毎年の祭りがなくなったこの頃は思います。
ともかく、「近代家族」という家族形態は戦後に輸入されたモデルであり、家族愛や夫婦愛が近代の産物であるという指摘に頭がグラグラします。
コミュニティはあれば善だというわけではなく、人生のなかでコミュニティが必要なときとそうでないときの波があるということ。
それが一つの町の中でホワイトノイズのようにぐちゃぐちゃに存在しているということ。コミュニティの押し付けはいけません。
現代になり冒頭で述べたように人口減少、少子高齢化が進むなか、再び都市のあり方を転換する必要があるのではないか。
多分、いろいろな人がそのあり方を模索しています。
近代的な都市のあり方は、成長、生産性、利潤最大化など思いっきり資本主義的でした。今もそうかもしれません。
ならば、現代の都市のあり方はポスト資本主義的になるのか?
私的財産の所有ではなく、共有財産、シェアという流れは実際の都市に片鱗が見えていると思います。
住宅供給過剰で空き地、空き家が増えるなら、儲けようと宅地にするのではなく、空き地のままにする、集まれる場にするなど、社会資本的な使われ方ができないものか。
大体このような話をするとき、悪者にされるのは、「瞬間最大風速」的利潤を得ようとする、不動産やデベロッパーです。建築家v.s.デベロッパーのような様相を取りますが、本当にそんなに?
ゼロイチ論で、大企業が悪いとしては危険なような気がします。
経済合理性と社会的に良いとされること、はそこまで相反するものなのでしょうか。
そんなみんな、みんなって誰だ、ともかく社会の大多数は利益を追い求めているのか?
生産性、合理性、高層化、集約化にいつも引っ掛かります。
安全な立場からものを言うのは簡単ですが、いざ何かをなすとなると難しいです。
1500字くらい書いてる…レポートの足しにしたい。
ひとまずレポートに戻るので、終わりにします。
かしこ
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?