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『来世ではちゃんとします』は、令和を生きる私たちを代弁している!

言いたいことは題名の一行に尽きるのだが、いつまちゃん著『来世ではちゃんとします』がなぜ現代を生きる私たちに刺さるのか、今更ながら所見を述べたいと思う。

この漫画は、映像プロダクションに勤める5人の若者たちが、それぞれ私生活に悩みを抱えながら生きる日常を描いた作品である。27年間恋人のいたことがないアセクシャルの梅、5人のセフレと関係を持ちながら本命に振り向かれることをほのかに願っている桃江、メンヘラ女子製造機の松田、前カノのトラウマにより処女しか受け付けなくなってしまった林、そして風俗嬢との叶わぬ恋をしている檜山が代わる代わる主人公として出てくる。

まずこの漫画の驚くべき点が、構成が4コマ漫画なのである。4コマ漫画といえば少年少女誌ではギャグマンガが主流で、誌面では箸休め的な役割を果たすイメージがあるが、この漫画はストーリーやキャラが立っていて続きが気になるような、そんな魅力を持っている。むしろすべてちゃんと起承転結をつけて、結でメッセージをしっかり出しているのがすごいことなのではないかと思う。

こう字面で書いていると、なかなかキャラの立った5人なのだが、この漫画の凄いところがおよそすべてのキャラクターに何かしらの親近感を抱いてしまうところである。私はこれが、「すべて作者であるいつまちゃんの分身だからである」ということが所以であると感じている。とあるインタビューで彼女が、「すべて自分の要素である」と言っていたのだ。

たとえば松田は、根っからの女たらしであり、初めは女性にいい顔をするものの別のことに興味が移ると突然女性をシャットダウンしてしまう性格である。かなり酷い性格のようにも思えるが、初対面では良い顔をしてしまったものの、その人に興味がなくなり関係性を続けることが億劫になった経験は誰しもがないだろうか。

また、主人公5人以外のバイプレイヤーたちにも共感できる人間性が垣間見える。風俗嬢の心ちゃんの男性に対する諦念や檜山に少し同情してしまう気持ちも理解できるし、彼女の同僚である梢ちゃんがある日職場に行けなくなってしまった場面も、誰しもが陥ってしまう可能性のある状態なのではないか。

こうして、誰しもにとっても自分の一部であるような、そんなリアルなキャラたちだからこそ、この漫画は多くの読者から共感を得ているのではないか。

私が熱烈にこの漫画が好きな理由は、「来世ではちゃんとします」というこの題名だと思う。主要キャラ5人が本当にどうしようもない人間たちかと言われると、(価値観によるかもしれないが)私は違うと思っている。しっかり会社に勤めて人間関係を構築し、それぞれ生活や趣味を謳歌できるくらいにはお金も稼いでいる、これは麻薬にはまってしまったり企業勤めからドロップアウトしてしまったりした人に比べれば十分「ちゃんとしている」と思う。この人たちがなぜ「ちゃんとしていない」のか。これは彼らが小さいころからの刷り込みの蓄積で思い描いている「ちゃんとしている像」があり、それといまの自分の現実に大きな差を感じているからである。

日本では「親の生きているうちに結婚して孫を見せる」のが美徳という観念が未だに根強い。これが、いまや普通に大学を出て企業に就職してもなかなか高いハードルであるにも関わらず。頑張れば頑張るほど稼ぎの得られた親世代を持つからこそ、いまはそうではなく人一人育て上げる給料は一部の人しかもらえないということに親も子も気づけていないのである。

この漫画のキャラクターたちは皆ある種の「ちゃんとしている理想像」があり、そのためにどう行動すべきであるか(少なくとも、いましている行動がそれにふさわしくないこと)はなんとなくわかっていても、それができない(いまの現状を変えることができない)、だからこその「来世ではちゃんとします」なのである。

早く結婚したい桃江にとっては、本来取るべき行動は(Aくん含め)5人のセフレとさっぱり関係を切って高スペックな本命を見つけることである。それができないのは、一人になったときのさみしさに耐えられないからであり、Aくんが自分を本命として選ぶという一縷の可能性を捨てきれないからである。そんな彼女は、現在も「早く結婚して孫見せろ」との親からの外圧を受け続けている。

好きなワンシーンがある。それは1巻のラストで、桃江が本命のAくんに汚い自室を見せるはめになった上、夜の音で近所との関係も気まずくなりため息をつくが、彼女は隣で眠るAくんの寝顔を見ながら「まーいっか♡来世はちゃんとしますということで」と独りごちてこの巻は終わる。

大げさかもしれないが、この言葉は生きづらい現代人にとって救いの言葉なのではないかと私は思ってしまう。自分の理想と現実がままならない、その場の楽しさに身を任されてしまう自分も結局は自分自身なのであり、この言葉はそれをある種の諦念をもって肯定してくれる言葉なのではないか。

サクセスストーリーやシンデレラストーリーが流行るのは、ある程度みんなが目指す方向性とその手段が決まっている時代であり、SNS社会の多様な価値観が認められる現代においては、ありのままの自分を肯定してくれるストーリーが流行るであろう。この漫画は現状に身を任されてしまう自分の分身たちを「まあ、来世ではちゃんとしますから」とそっと肯定してくれるのであり、だからこそ多くの現代人から愛されているのである。

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