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「死」と「忘却」

昨日、親友の祖父が亡くなったことを電話で聞いた。
元々よく電話で近況報告をし合うのだが、「危篤」と言うことは事前に聞いていたが、改めて訃報を聞いてショックを受けた。
僕は直接会ったことはない。でも、親友が好きだと言っていた。色んな思い出話しを聞かせてくれた。

きっと、その親友が言う「じーちゃん」は親友の人格形成に大きな影響を受けたのだろうと容易に推測できる。
だから面識は無くとも哀しかった。
もちろん、人間だけではなく、大切な人が飼っているペットが亡くなっても哀しい。

もちろん、親友にお悔やみの意(正式な言葉遣いではないが)を伝えた後で、
「今日仕事キツくなかったか?よく頑張ったね。」
と言ったら親友は
『仕事中ずっと泣いていたよ、でもじーちゃんは「仕事は頑張れ、家族は養え」って言うと思うから』
と言っていた。強いなと思った。
僕なら仕事に行けないかもしれない。
でも彼は筋を通す男だ。
覚悟を決めていても、いざその時が来たら居ても立ってもいられなくなるだろう。
けど彼は強かった。

よく頑張ったね。

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「死」について考えていたら自分のことも思い出した。
父方の親戚は全くいないのだが、(父親もいないならね。)
母方の祖父が数年前の5月2日に亡くなった。
発見された時にはもう亡くなっていたらしい。
僕には、祖父に最期に会った人間だった。
僕が産まれる前、僕の祖母と伯父(母の兄)しか肉親がいないけど、母や伯父が学生の頃から酒癖が悪く、僕が産まれる前から別居していた。
また、途中にアル中になったりロクでもないじーちゃんだったのだろう。客観的に見ると。

だから、"田舎にいるじーちゃん"という感覚はなかった。
祖母も変わった人で自分の親戚や祖父のことを一回当たり3時間は恨み辛みを聞かされていた。
幼少期の頃からだ。
だからそんな感情は沸いて来なかったけれど、地元にいた時はドライブがてら顔を出すくらいだったかな。

それから数年、東京にいた時、認知症が始まったことを聞いた。
伯父に申し訳ないことをしたと思っている。
肺がんを患っている高齢の祖母、精神科病院に幽閉されている母、認知症になった祖父、全部任せっきりだった。


コロナ前、その親友の結婚式のために帰郷したのだが、その時に、認知症になっている祖父に会いに行った。
ぼくは、色んな話を聞いていたけど、別にそこまで何も思っていなかった。

とある精神科病院に受け入れ先の介護施設が決まるまでいさせて貰っていた。
そこに向かうと衝撃的な光景だった。
認知症が進んで、転倒防止のために車椅子にバンドが付けられ、昔の顔がまんまるの祖父ではなく、痩せこけていて衝撃的な姿に一瞬面食らってしまった。

ちょうどご飯の時間だったので、ご飯を見たらペースト状のものだった。
看護師さんに、「ぼくが食べさせてもいいですか」
とお願いしたら了承してくれた。
食べさせながらたまに戻したりしていたので、持参したハンカチで拭いてあげていた。

そして僕は東京に帰り、5/2に訃報を聞いた。
その時思い出したのは、会った時の"氷解"だったのだ。

あの時、カチカチになっていた凍りついた心が溶けた気がした。
"もういいよ"って思った。

話は変わるが、5月2日は1番好きなアーティストのhideと忌野清志郎の命日なのである。

hideは、嘘つきだ。
「また 春に会いましょう」と歌詞に書いていなくなってもう何回も春が来ても会えないんだ。



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話は変わります。自分の話になります。
ぼくには育ての親の肺がんを患っている祖母(84歳)
と伯父(59歳)しかいない。
ぼくは昔からいつ死んでもいいと思ってる。
安楽死ボタンがあったら連打したいくらいだ。
それくらい人生は色々あったし、本当はこの世に産まれてきてはいけない人物だったのかもすら思ってしまう。

でもたまに思うけどばーちゃんが言った言葉が思い留まらせてしまう。


「死ぬ順番は間違えたらいけんよ。それが1番悲しいとやけんね」


この一言である。
それは生き続ければ祖母も伯父も順番でいなくなって、それを受け入れないといけないという運命を背負うことに他にならない。

時々思う。幼少期はとても寂しく、また喪失感を受け入れなきゃいけないというのか。
とても残酷だ。


また
5/2が来る。


ちなみに僕は早死にしたらその親友に親族の許可は出しとくから、遺骨の一部を故郷の綺麗な海に散骨してくれとお願いしてある。
死んだ後くらい故郷の綺麗な海で生きたい。

いつ来るか分からない死に対して、31歳の僕は準備をしているのである。







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