【昭和あるある話】携帯電話のない昭和の女子高生は、どうやって連絡を取り合っていたのか。
ここ数年、Z世代と呼ばれる若者の間では昭和レトロがブームだそうで、そのブームが廃れてしまう前に、このあたりで昭和あるある的な記事でも書いてみようかなと。
その内容とは、「携帯電話もメールも普及していない昭和時代の連絡手段」である。
「携帯電話がなくて、どうやって連絡を取り合ってたんですかー?」
そんな若者の素朴な疑問に対して、「何を言っている?携帯などなくともいくらでも連絡の取りようはあったのだよ」ということを、まずもってお伝えしたい。
友人同士での連絡手段に、その時は特に不都合を感じたことはなかったし、それなりに楽しい高校生活を送れていたのだ。
つまりは、今のように携帯電話やメールがなくても、なんとかなっていたということだ。
なぜそういえるのかを、当時女子高生だった私や私の周りで繰り広げられたリアルな体験をもとに綴っていく。
何かと慌ただしい年末ゆえ、同世代の方には、古き良き(?)昭和の時代を懐かしみながら、まったり癒しのひとときにでもなっていただけたら幸いである。
※ 今回の記事は、過去に自身のワードプレスブログに挙げていたものである。今回意を決して、一部加筆・訂正したうえで、このnoteに投稿することにした次第だ。
「固定電話」という便利なモノがあるじゃないか
そう、私が高校生の頃は、固定電話という便利ツール(!)が、一家に一台鎮座していたのだ。
友人との遊びの約束も、悩み相談も、あんなことやこんなことまで、だいたいコレで事足りていた。
遊びの約束をする際は、事前にこの電話で待ち合わせの日時や場所をきっちり決めておけば、ほぼほぼ問題はない。
だからなのかどうなのか、遅刻やドタキャンはそれほどなかったように記憶している。
固定電話は、ダイヤル式の「黒電話」が一般的。
昭和レトロ好きな今の若者であれば、コレをみて「エモい」と思うようだが、私の場合は、親から「いつまで喋ってるの!電話代がもったいないでしょ!!」と怒られた記憶しかないのだ。
どうでもいい話だが、NTT がまだ電々公社だったことを覚えているのは、私と同世代以上の人間なのだろう。
で、ここでいきなりだが、「黒電話あるある」を挙げていきたい。
コレに共感できる方は、まぎれもなく同世代確定!おめでとう!!
*固定電話(ダイヤル式黒電話)あるある*
固定電話の置き場所は、たいがいが「玄関」である。長電話になると床の上に座り込んでしまうので、寒い冬の時期は身体にこたえる。
電話機の置き場がリビングなどの家族が集まる場所にある場合、友人との会話は家族には絶対に聞かれたくないため、コードを極限まで延ばした電話機を、玄関や廊下、階段などに移動させて対策をした。
友人宅に電話をかけた際、最初に電話口に出た人を友人と勘違いしてタメ口で喋りはじめたら、友人の母親だった。逆も然りで、高校生ともなると母親と声が似てくるらしい。
クラスの緊急連絡網で架けてきただけなのに、男子からの電話には異常なほど敏感で耳がダンボな家族。
電話番号の入力はダイヤルを右方向に指で回転させるが、一番遠くのダイヤルの「0番」が元の位置に戻るまでに時間がかかるので、急いでいる時にはちょっとイラッとする。
指を離せばダイヤルは自動で元の位置に戻るにも関わらず、せっかちな私は、ダイヤルに指を入れたまま「0番」まで戻ってみる。(うまく言語化できないけど、この意味がわかった人は素晴らしい!)
通話中、すでにクルクルになっている本体と受話器を繋ぐコードを、さらに指でクルクルにさせてしまう。
黒電話がいかつくてお洒落じゃないということで、花柄とかフリフリレースのカバーをかぶせてみるも、それがもとで、インテリアの方向性を完全に見失う。
昭和を振り返って、あまりの懐かしさに、調子に乗って尋常じゃない数の「あるある」を挙げてしまった。ここでかなりの方にドン引きされたのかもしれないな(苦笑)。
でも、これらは、私及び私の周辺にいる同世代人間から聞いた話を元にした貴重な(?)実話なのだ。
タイムラグがある「手紙」こそがエモさの極み
携帯電話やインターネットが普及したとて、手紙(文書)という紙媒体でも連絡を取り合うことは、令和の現在でも続いていることだ。(特に役所系)
私が高校生だった頃など、まだまだ手紙文化は元気だったように記憶していて、勉強机の引き出しには「レターセット」なるものが常に置いてあったし、そのレターセットを選ぶのも楽しみの一つだった。
とはいっても、手紙というのは、緊急性のそれほど高くないものに限られていたように思う。
急ぎの用であれば「黒電話」という便利なモノ(!)があったし、手紙ではタイムラグがありすぎるので。
でも、そのタイムラグが楽しかったのだ。
距離的な問題ということはもちろん、どんな内容でも「文章」にするとなると、ある程度時間がかかるものだ。当時はほぼ手書きだったし。
でも、そのタイムラグがあることで、「あの手紙、まもなく届く頃かな?もう読んでくれてるのかな?」と相手に想いを馳せることができる。
タイムラグがあるからなのか、返事が来た時の嬉しさとか、そこに何が書いてあるのかとドキドキワクワクする気持ちがより一層高まったのではないかと、今となっては懐かしく思うのだ。
多感な思春期に、そういったエモーショナルな経験がごくごく自然に味わえる環境だったことは、今思えばとても幸せだったんじゃないかなと。
*「文通が」が流行していた昭和時代*
高校時代、雑誌をきっかけに「文通」をはじめた友人がいた。
そういえば、昭和の雑誌には「ペンフレンド募集コーナー」が設けられており、そこには、氏名と住所(電話番号も?)といういわゆる「個人情報」なるものが、ふつうに掲載されている。
それらがないと文通は成立しないのだが、にしてもあの時代はいろいろ平和だったんだなぁと・・・(遠い目)。
あ、そうだ。いくら急ぎの用だといっても、さすがに高校生同士で「電報」は使わなかった。
「じゃあ、緊急時はどうしてたの?」という疑問が湧いてくるかもだが、次のようなことをしてなんとか凌いだものだ。
用件を書いた「メモ」を授業中に回すこともできたぞ
急ぎの際には、いわゆる「メモ回し」なるものが大活躍していた。
これは、授業中に用件を書いたメモを、届けたい相手まで回してもらうことだ。
というか、さほど急ぎでなくとも、友人とのコミュニケーションやお遊びのツールとなっていたような気がする。
メモに届けたい相手の名前を書いて、その相手にできるだけ最短ルートで届くように回していくのだが、これにはクラスメイトの協力が不可欠。
先生の目をかいくぐりながらのなかなかにリスキーな方法ではあるが、見つからないようにこっそり回すあの感じが、たまらなく楽しかったなぁ〜と(笑)。
*メモ回しあるある*
用件を書いたメモは、折り紙のように小さくたたんで、中身が見えないようにして回していた。
なかにはノートの切れ端に殴り書きしたようなものもあり、その紙が折られることなくそのまま回っていたため、書かれている内容が大半のクラスメイトに知れ渡ってしまったものも。
たまに先生に見つかって、途中でメモを取り上げられる生徒もいて、そのメモに書かれてある内容を、その場で皆に聞こえるように読み上げられたというエピソードもある。(友人談)
ただ、うちはゆるゆるの学校だったので、ほとんどの先生が、メモ回しを見て見ぬ振りしていたんじゃないだろうか。教壇からは全体がよく見えるので、絶対バレてたと思うけど。
最終手段は「伝言板」&「公衆電話」で
で、いくら事前に会う約束をしたとて、待ち合わせの時間になんらかの事情で「相手が来ない」場合もあるわけで。
これは、待ち合わせ場所が「駅」に限ってしまうのだが、駅にはたいてい、黒板型の「伝言板」なるものが設置されていて、そこに白いチョークで用件が書けるようになっているので、これを活用するという手があった。
「Aちゃんへ、先に行ってます。Bより」とか「C君へ、しばらく待ちましたが帰ります。D子」とか、なんかそんな感じのやつ。もちろん縦書き。
まあ、最終手段だろうか。
この伝言板、実は私は一度も使ったことはない。
それでも、伝言板に白いチョークで書かれた切なげな文言はよく目にしていて、世の中には悲喜交々な人間ドラマが数多く存在しているんだなぁと、10代の私なりに感じていたものだ。
急用で約束の時間に間に合わないだとか、どちらかが時間や場所を勘違いしている場合もあったりして、それでも一度外出すると連絡が取れない状況になるので、今思えば、たしかに相当に不便な時代だった。
同世代の友人の話だと、過去に2時間待ったことがあるとか。
昭和は、「すれ違い」と「待つこと」が想定内の時代だったのだ。
あと、待ち合わせ場所に来ない場合は、駅にある「公衆電話」でその人の家に電話をしてなんとか連絡を取ろうとしてしていたこともあった。
その人が家に電話をして家族に伝えている可能性もあるので、何かしら手がかりがつかめるかと思ってのこと。
だから、外出の際は、電話番号をメモした紙やアドレス帳なるものを持参していたように記憶している。
はい、昭和はそんなめんどくさい時代だった。
でも、そのめんどくくさが、私にとってはどこか人間味があって愛おしささえ感じてしまうのだ。
自分はやはり、昭和どっぷり人間ということだろうか。
いつも必死でめんどくさくて泥臭い昭和に・・・ドンマイ!
携帯電話やメールがない時代の連絡手段を語ってきたが、それにしても昭和って、必死さが丸わかりというのか、めんどくさいというのか、どこまでも泥臭い時代だったんだなぁということを、この記事をまとめながら気がついてしまった。
そんなちょっと残念な(昭和と思しき)他者や自分自身を垣間見ると、その人にも自分にも、小さく「ドンマイ」と言ってあげたくなる。(ところでドンマイは死語なのか?)
それだから、「昭和ってうざい」「昭和ってキモい」って言われてしまうのかもしれないけれど、それが何だというのだ(笑)。
とはいっても、いつも必死な昭和時代に女子高生であったことは、なんだかんだと楽しく幸せだったなぁとも思う。
じゃあ、あの頃に戻りたいかというと、それはない。
今のような便利さを一度でも味わってしまっているし、せめてもう少し後に生まれて、ミニスカートにルーズソックスくらいは履いてみたかったし。
はい、今回はこれでおしまいっ。