発達心理学者が子育ての「べき論」について語ること(『思いどおりになんて育たない』解説公開)
いま、書店やネットでは、「科学的な子育て」の情報があふれています。わが子を思う現代の親たちにとって、そうした「正しい方法」に従わねばと考えるのは自然なことかもしれません。
しかし、「科学的子育て」はどれくらい科学的なのでしょうか。『思いどおりになんて育たない:反ペアレンティングの科学』(原題“The Gardener and the Carpenter”)にて、発達心理学の第一人者であるアリソン・ゴプニック氏は、巷に出回る子育ての「べき論」を強く批判します。子どもと親の関係の成り立ちからして、そもそも親が何かを「すべき」と考えるのが間違いだというのです。ゴプニック氏は乳幼児の「学習」を精力的に研究しており、2011年のTEDトーク「赤ちゃんは何を考えているでしょう?」でご存じの方も多いかもしれません。
以下は、森口佑介先生(京都大学准教授)による『思いどおりになんて育たない』の「解説」の全文です。本書におけるゴプニック氏の主張が、明快に解説されています。
★森口先生は、子どもの能力の発達について、同書の内容からさらに踏み込んだ研究を行っています。子どもの脳の発達と「経済格差」にまつわる下記の記事も必読です。
現代ビジネス2019.08.28「経済格差が、子どもの「脳の発達」に影響を与えるという厳しい現実」https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66787
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『思いどおりになんて育たない』解説
著:森口佑介
著者のアリソン・ゴプニック氏は、カリフォルニア大学バークレー校の心理学部の教授であり、哲学の教授も兼ねている、当世で最も独創的な研究者の一人である。彼女の研究業績の多くは乳幼児を対象とした実験的・理論的研究なので心理学者としてのイメージが強いが、本書でも数多く紹介されているように、哲学についての並々ならぬこだわりを見せ、このことはゴプニック教授の前著『哲学する赤ちゃん』にも反映されている。彼女のこだわりは、まるで、子どもの発達に関する心理学を打ち立て、今でもその研究業績が議論の対象となるスイスのジャン・ピアジェのようである。彼も、心理学者としての評価が高いが、自身は発生的認識論というある種の哲学に関する研究者を自認していたようである。第4章でも紹介されているゴプニック教授のブリケット探知機に関する研究では、子どもが自分の仮説を立てては修正する様子が明らかになっているが、この様子はピアジェが提唱した「科学者としての子ども」に近く、さまざまなところにゴプニック教授とピアジェの間に興味深い関係性を見いだせる。
筆者は、2014年に京都大学で開催された日本発達心理学会に恩師がゴプニック教授を招待した際にお会いし、同僚と共に、彼女の講演の司会・通訳をする機会に恵まれた。印象としては、とにかくパワフルかつ快活な方で、哲学や進化論、コンピュータ科学はもちろんのこと、本書で源氏物語などに触れられていることからわかるように、日本の古典などにも精通されていて、とても楽しくお話しさせていただいた(ゴプニック教授は日本に来られる少し前にはいろいろと大変な思いもされたみたいだが)。講演では彼女のコンピュータ(アップル社製品)と会場のプロジェクタの相性が悪く、アテンド役として冷や汗を書いたが、TEDでも見せた彼女のプレゼンテーション能力に会場は魅了され、大好評であった。
アップル社に関連して、彼女の配偶者であるアルヴィー・レイ・スミス氏は、かのスティーブ・ジョブズ氏とともに『トイ・ストーリー』などを生み出したピクサーの共同創業者である。本書の中で彼女は中産階級であることを何度も強調しているが、この点については多少の疑念が残る(どうでもいいことだが)。スミス氏も京都に同行されていたので、学会の懇親会でお話しさせていただき、ジョブズ氏についてのさまざまな印象的な逸話をご披露いただいた。
ともかく、ゴプニック教授は、そのような方である。加えて、母親であり、祖母でもある。その彼女が、世の中にあふれかえる育児書に対する不満をぶつけて書いたのが本書である。確かに、現代の日本においても、子育てや育児の指南書は数えきれないくらい出版されている。発達心理学者である筆者のところにも、さまざまな取材依頼が寄せられる。勇敢な男の子に育てるにはどうしたらいいか、優しい女の子に育てるにはどうしたらいいか、キレない子に育てるためにはどうしたらいいか。そして、筆者の専門が脳の発達を含むこともあり、その取材の多くは、「脳科学的根拠」を求めてくる。筆者は、科学的見地から見て最低限言えることをコメントするが、なにせ子どもの脳発達はわからないことだらけなので、コメントできることは多くない。結果として、取材側が求めるような答えは提供できない。つまらないからボツになることもある。ところが、不思議なことに、子どもの脳発達を研究したこともない「専門家」が、科学を装って、筆者が答えられなかった問いに対してわかりやすい答えを提供している。「天才」を育てたという母親が、自分の経験をもとに、子育て一般を論じることもある。本当にその子育てが正しかったのか、比較群がないので、わからないにもかかわらずである。米国でも同じような現状があるのだろう。
そして、子育てや育児の指南書は、とかく「べき論」になりやすい。本書でいうところのペアレンティングの規範というやつだ。子どもには早期から外国語を身につけさせるべきだ。叱るよりも褒めて育てるべきだ。科学的根拠がないか、あっても浅薄なものしかないにもかかわらず、世の親たちは、この規範に振り回される。あれもしなきゃ、これもしなきゃ。ただでさえ忙しい子育て、他にも仕事を抱えつつも、親たちは子どものためになるのであればとペアレンティングの規範を実践し続ける。その先に待っているものは、決して幸福なんかじゃない。疲弊した親と、疲弊した子どもなのだ。
ゴプニック教授は、こうした現状を憂慮し、現在広がっているペアレンティングが根本的に間違っていると論じている。どのように間違っているか。これまでのペアレンティングの規範が推奨する親像が木工職人なら、彼女の提案する親像は庭師である。本書の原題である“carpenter(木工職人)”と“gardener(庭師)”はここからきている。前者の仕事は、材料を組み立てて、目標どおりに同じ形に作り上げることだ。そして、その腕前は、出来上がった品を見て評価される。子育てで言えば、目標の子ども像があり、その子どもを育てあげるためのマニュアルがあり、そのマニュアルどおりに育てることが推奨されるということだ。育てられた子どもを見て、マニュアルどおりに育てたことが評価される。
第2章に詳しく触れられているように、このやり方がダメな一つの理由は、私たちの住む環境が親の世代と子どもの世代で大きく変わる可能性があるためだ。たとえば、タイプライターという職業があったころ、親が子どもにタイプライターになってほしいと思い、そのマニュアルどおりに子どもを育てたとしよう(そのようなマニュアルはないと思うが)。ところが、子どもが成長して大人になったとき、タイプライターという職業自体がなくなってしまった。これでは、子どもは親の目標の犠牲になってしまう。
そもそも、子どもが親の思ったとおりに育つわけがない。子どもは、人格を持った、親とは異なる人間である。子どもには子どもなりの好みがあり、考えがあり、目標がある。筆者にも娘がいるが、最初の誕生日を迎える前から、このことを思い知らされた。彼女には好きな色があり、好きな食べ物があり、こちらの思いとは別にやりたいことがある。特に子どもが小さいころは、親は子どもが自分のものだという誤った思い込みをしやすい。自分ができなかったことを子どもに押し付ける親や、何でも自分色に染めたがる親。これが高じると、虐待につながることもある。ゴプニック教授は、木工職人ではなく、庭師としての親像を推奨する。昔から、子どもはよく植物にたとえられる。有名なところでは、フランスの教育思想家ジャン=ジャック・ルソーが挙げられる。植物が水をやらないと枯れてしまうが、水をやりすぎても枯れてしまうのと同様に、子どもは生まれつきすばらしいものを持っており、教育しなくても、教育しすぎても、子どもの成長は妨げられる。ゴプニック教授の親子像も似たところがある。親がいくら思いどおりに育てようとしたって、たくさんの花を咲かせようとしたってなかなかうまくいかない。第1章で触れられているように、子どもはそもそも乱雑で無秩序な存在だ。こちらが方向付けようとしても無理である。だとしたら、植物の自由に任せてみよう。そうすると、思いがけない成長を見せることもある。ただ、庭師は植物の様子をただ見ていればいいというわけではない。ここで大事なのが、安全な環境を提供するということだ。乱雑さにはリスクが伴う。植物が生長するまでの間、庭師はその安全を担保しなければならない。人間では、この時代――子ども時代――が長い。乱雑に生きる時間を長く与えられているのだ。その分親の負担は大きい。安全な環境下で十分に育ったら、自立のときだ。外の世界に連れ出し、後は自ら育っていく様子を陰でそっと見つめよう。
となると、やっぱり子どもへの愛が大事なのね、という話になる。第3章でも触れられているように、子どもへの愛は特別だと見られがちだ。とりわけわが国では母性愛信仰が強く、母親の子どもへの愛が特別だと考える向きがある。筆者の大学の授業に参加する学生でも、三歳ごろまでは保育園に預けるよりも、家庭で子どもを育てたほうがいいと考えている。この考えは、国内外のさまざまな精密な研究から否定されている。家庭で育てようが、保育園に預けようが、親子関係もその後の子どもの発達もほとんど変わらない。
ゴプニック教授は、母親の子どもへの愛は、さほど特別なものではないと説く。祖母の子どもへの愛情や、夫婦間の愛情と似たものかもしれない。隣の家の子どもに向ける愛のような、アロペアレンティングだってある。とはいえ、やはり自分の子どもは特別だと誰もが思うだろう。筆者自身、自分の娘への愛情は特別で、何にも代えがたい。ゴプニック教授によれば、生物学的なつながりに加えて、自らが世話をすること、関わることで、愛情が特別になるのだという。子どもを愛することは、子育ての原因ではなく、結果だという。この点はなかなか受け入れにくい人もいるかもしれない。
第4章と第5章では、子どもの学習の仕方について丁寧に解説している。ペアレンティングの規範では、親が子どもの学習について口出すことを推奨する。だが、これは子どものことを知らない人が言うことだ。筆者は、この点をゴプニック教授に強く同意する。子育て本を書く人も、教育関係者も、親も、子どものことを知らなさすぎる。たとえは悪いが、企業が、顧客が何を求めるのかを知らないようなものだ。相手のことも知らずに、なぜ学習について口出しできるのだろうか。そして、大人が思っているよりも、子どもは学習が上手な存在だ。
第4章は主に視覚を通じた観察学習や模倣についての話である。発達心理学の教科書のような内容が並んでいるが、重要なのは、子どもがいかに親や他の大人の行動をよく見ており、そこからいかに学ぶのかという点だ。ときには大人よりも子どものほうが上手に学ぶという研究もある。子どもを甘く見てはいけないし、大人の言うとおりに学ばせることがいいわけではない。大人の行動そのものが重要なのである。そういう意味では、大人は、人の振り見て我が振り直せということになるだろう。たとえば、優しい子ども、親切な子どもが育つための最も重要なことは、何より親自身が親切であることだ。ナチスの時代にユダヤ人を救済した人は、その親の影響が大きいらしい。親が、すべての人間に倫理的価値があると考えていたようだ。そういった親の様子を子どもはつぶさに見ている。
第5章は、聴覚からの、言葉を通じた証言学習についての話である。21世紀に入って、子どもの証言学習についての研究は飛躍的に進んだ。自信満々な人と、自信なさそうな人のどちらから子どもは言葉や道具の使い方を学ぶのか。大人と同じくらいの年齢の子どものどちらから学ぶのか。子どもは相手をつぶさに観察し、誰がより信頼できるかを見極める。本書でも触れられているように、親と子の愛着関係が証言学習に及ぼす影響は興味深い。親子の関係が安定していれば、子どもは他人よりも親を信頼する。一方、親子の絆が確かなものでないと、親を信頼してくれない。この話を聞くと、娘が他人よりも自分を信頼してくれたら筆者はうれしくて泣いてしまいそうだ。こういうところからも、親の役割は、庭師と同様に、子どもが安全で安心できる環境をつくり出すことであることが窺い知れる。
子どもの「なぜ」攻撃についての話も興味深い。昔、一休さんというアニメにどちて坊やという、何についても「どちてですか」と尋ねるキャラクターが存在したが、子どもは本当にどちて坊やだ。一時間に七五の質問をするという。好奇心の塊だ。こちらから教えなくても、子どもは自ら学ぼうとするのだ。世界の仕組みを知ろうとするのだ。子どもから質問を受けると、うまく答えられない自分に気づくこともあるだろう。いつから自分は世界を知っている気になってしまったのかとわが身を見つめ直す機会にもなる。ゴプニック教授は、そんなにがんばって質問に答える必要はないと説くが、やはり子どもの好奇心を奨励するためには、ある程度は子どもの質問に向き合う必要があると筆者は考える。いつも誰も答えてくれなかったら、子どもは質問を発しなくなるだろう。大学の授業ではなかなか学生からの質問が出ず、どうしたら質問しやすくなるかに腐心している筆者からすれば、子どもの質問に向き合い、肯定することは重要に思える。第6章は幼児期の遊びの話だ。教育や保育関係者は、必ず、遊びの重要性を強調する。だが、実はごく最近まで、遊びと子どもの発達に関する証拠はあまりなかった。何となく遊びが大事だという認識を教育・保育関係者が持っていただけだ。本書では、遊びの役割として、脳が可塑的になることや、現実世界と違う視点をとれるようになることをあげている。前者に関してはヒト以外の動物に関する研究に基づいているので、ヒトにどれくらい当てはまるかはわからないが、遊ぶ人ほど斬新な考えを思いつくという直観には合う気がする。後者に関しては、特に空想遊びやごっこ遊びについて取り上げられている。空想遊びをする中で、子どもは現実とは異なる視点を得ることができる。ときには、子どもは空想上の友達をつくり出すのだ。筆者自身、空想の友達は極めて興味深く、なぜこんなことができるのだろうかと不思議に思って、研究を進めている(拙著『おさなごころを科学する:進化する乳幼児観』(新曜社)参照)。親の視点から見て重要なのは、他の欲求が満たされていないと子どもは遊ばないという点だろう。心配を抱えたり、栄養が足りていなかったりしたら、子どもは遊べない。ここでも、庭師としての親の役割が見えてくる。そして、子どもの邪魔をしないことも大事だ。遊ばせっぱなしにするというわけにはいかないにしても、子どもが自分で自らやろうとしているのを先回りしたり、止めさせたりするのは推奨できない。
しかし、子どもはいつまでも遊んでばかりはいられないし、いつまでも乱雑なままではいられない。学校教育が始まる児童期から青年期を取り上げたのが第7章である。幼児期までの発見学習から、自分の住む文化に必要なスキルを学ぶ完全習得学習へ。つまらないドリルをしたり行儀作法を身につけたりする時期になる。脳の中にも変化が起き、目標に到達するためのスキルである実行機能やその脳内機構である外側前頭前野が発達するのもこの時期だ。ゴプニック教授の学校教育や発達障害についての考えは、傾聴に値するが、そのまま受け入れていいものとも思えないので、ここでは割愛する。学校教育に対する疑念には大いに同意するが、さりとて現代社会に生きている以上、現代社会に必要なスキルをある程度学習するのはやはり必要だろう。日本でも、外国語を小学校の早い時期から始めたり、プログラミングを導入したりするようになった。賛否両論の難しい問題だが、世界は動いていて、追い付けないのはいつの時代も大人のほうだ。教師が教えるよりも、少し上の世代の中高生などに教えてもらったほうがいい気もする。
そして、青年期に一度乱雑さが戻ってくるというゴプニック教授の指摘は面白い。発達心理学の世界で、いま最も注目を集めているのが、この青年期だ。なぜなら、この時期に脳が劇的に変化することがわかってきたからだ。児童期に着実に発達した前頭前野が、一時的にうまく機能しなくなる話が紹介されている。無論、実際にはこんなに単純ではないのだが、青年期に自分のコントロールが難しくなることは数多く報告されている。日本でも、青年期の脳の発達を調べるためのプロジェクトが進んでいて、その成果には大いに期待したいところだ。この時期は、親よりも友達のほうが重要になる。そうなると、親の出る幕ではなくなる。親は一歩引いて、自立を助ける必要があるのだろう。
現代の親の持つ悩みとして、デジタルメディアとの付き合い方もある。子どもにテレビを見せるのはいつからがいいのか、スマートフォンはいつから持たせるべきか、SNSを通じて怖い目にあったりしないか。テクノロジーと子どもの関係が第8章に触れられている。この点については、ゴプニック教授は、やや楽観的な見方をしている。いわく、デジタル世代の子どもがやっていることは、形は違えど、基本的にはこれまでの世代がやってきたことと大きくは外れない。親の心配は杞憂であることが多いというのだ。テクノロジーについての見方は、世代間でかなりの格差があるように思う。概ね、年齢が高くなればなるほど、スマートフォンやタブレット端末については否定的だ。日本でも「スマホ育児」が否定的に論じられることが多い。一方、若い世代は、テクノロジーを許容する傾向にある。そういう中にあって、ゴプニック教授はすでに孫もいる年齢だが、特異的な存在だと言えるだろう。筆者は、この問題には大きな関心を持って研究を進めている。結局のところ、デジタルメディアのような新しいテクノロジーの是非を論じるには、あまりに証拠が少ない。賛成派も反対派も、自分の思い込みに基づいて意見しているだけだ。旧来のメディアであるテレビについては半世紀にわたる研究がなされ、その成果を基に米国や日本の小児科医会が乳幼児の長時間にわたるテレビ視聴を推奨しないという声明を出すなど、テレビの功罪については明らかになりつつある。しかし、スマートフォンなどの新しいデジタルメディアについては、明らかになっていることは少ない。もちろん、長時間にわたるデジタルメディアの使用が子どもの発達に悪影響である可能性は高いが、適切な使用であれば子どもの発達にポジティブな影響を及ぼす可能性はある。現代の子どもは「デジタルネイティブ世代」と言われるように、デジタルメディアや情報通信環境の中で成長・発達をすることは避けられない。いたずらにデジタルメディアを忌避するのではなく、どのようなメディアの情報が、どの程度、どのように子どもの発達に影響を及ぼすかを実証的なデータに基づいて考え、デジタルメディアとの適切な接し方を考案していく必要がある。ゴプニック教授が考えるよりは状況は深刻かもしれないし、反対派が考えるほど子どもたちはテクノロジーに操られないかもしれない。
以上の内容を見れば明らかなように、ゴプニック教授の主張は、親は世の中にあふれるペアレンティングの規範に踊らされることなく、子どもが安全で安心でいられるような環境をつくり、彼ら・彼女らが自分であれこれと試し、失敗し、そこから学び、成長していくさまを、庭師のように眺めるだけで十分だということだ。一見すると、育児や子育てを放棄しているように思えるかもしれない。虐待の一種にネグレクト(育児放棄)があるが、これとの根本的な違いは、子どもが安全で安心でいられる場を提供するという点だ。ネグレクトは、子どもに温もりを与えず、食事を与えず、居場所を提供できていない。
本書への疑念を一つあげるとすれば、「子どもはこういう存在ですよ」というさまざまな科学的知見に基づき、「親は見守ってあげればいい」という、規範とまでは言えないが、結局のところ「べき論」に近いものを提案している点であろう。残念ながら、本書では一部の愛着研究を除いて、親の関わりについての科学的知見はあまり引用されていないが、親の関わりについてはごまんと研究はある。ペアレンティングの規範に関する指南書と混同されぬようにゴプニック教授は少なめにしか触れなかったのかもしれない。
実際には、ゴプニック教授が提案することと、親の関わりについての研究にそれほど齟齬があるわけではない。親の立場からすると、何もしないよりも、何かをしたほうが、育児をした気分になり、自尊心も保たれるだろう。だが、それは親の自己満足でしかない。発達心理学で言うところの、支配的な子育てをする親だ。子どものことを考えれば、何かしたくなるところを抑えて、子どもの自由にさせたほうがいい。こちらは、支援的な子育てと言われる。これは、子どもが何かしようというときに口出しをせず、少し困難を抱えているときに、少しだけ後ろから支えてあげるような関わりだ。子どもの自律性を保ちつつ、本当に困ったときは親が助けてくれるという安心感が得られる。過保護にならず、子どもとの適切な距離をとりながら、子育てに従事すればよい。子どもの持つ力を信じよう。インターネットやSNSでさまざまな子育て情報が飛び交う現代の日本の親たちに、ゴプニック教授はそのようなメッセージを送ってくれている。
出典:『思いどおりになんて育たない』解説
森口 佑介(もりぐち・ゆうすけ)
京都大学大学院教育学研究科准教授。博士(文学)。専門は発達心理学、特に子どもの想像力やセルフコントロールに関する心と脳の機構について研究している。著書に『おさなごころを科学する:進化する乳幼児観』(新曜社,2014年)、編著書に『自己制御の発達と支援(シリーズ 支援のための発達心理学)』(金子書房,2018年)がある。
★訳者あとがきはこちら: https://note.mu/morikita/n/n350b2d58f675
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『思いどおりになんて育たない:反ペアレンティングの科学』
「ひとりで寝かせるべき?」
「添い寝をすべき?」
「習いごとをさせるべき?」
「それとも、遊びを優先すべき?」
よき親として「すべき」ことは何かを求め、日々悩みが尽きない現代の親たち。しかし、数十年にわたり子どもの学習を研究してきたアリソン・ゴプニック氏によれば、巷の子育ての「べき」論(=ぺアレンティングの規範)には根拠が乏しい。そればかりか、子育てを仕事のように捉える発想自体が、最新の科学的知見に反するのだ。
ほかの動物と比べ、人間の子育てには特殊な点が多い。人間の子どもは、異常に長い期間、親やそれ以外の大人たちから世話を受ける。見る、聞く、遊ぶことすべてを通じて、生まれ落ちたこの世界について知っていく。
・進化の過程で、人間の親子が獲得した「育て、育てられる」関係とは?
・発達研究が明らかにしつつある、子どもの持つ驚くべき学習能力とは?
子どもは親の思いどおりになんて育たない。それこそが、子どもが「学ぶ力」を持って生まれてくる意味なのだから。
発達心理学の第一人者が贈る、優しさと意外性に満ちた、親子の科学。
【目次】
イントロダクション
第1章 ペアレンティングに異議あり
第2章 子ども時代の進化
第3章 愛の進化
第4章 見て学ぶ
第5章 耳から学ぶ
第6章 遊びの役割
第7章 成長する
第8章 未来と過去:子どもとテクノロジー
第9章 子どもの価値
解説:森口佑介