科学技術といかに共生するか――テクノロジーへの無自覚・無関心な依存を脱し、互いに語らうべきときが来た(近刊『鋼鉄と電子の塔』座談会公開 1/3)
科学技術と社会の関係がいま、大きく揺らいでいます。
高度に進化し、日常に深く浸透したテクノロジーは、もはや科学的知見だけでは制御しきれないものとなりました。それにより、科学技術の専門家、ひいては科学技術そのものが、しばしば疑いの目で見られ、時にないがしろにされるような状況が生まれています。しかし私たちの日々の生活は、科学技術なしには到底成り立ちません。
自動車の利用が交通事故のリスクと表裏一体であるように、科学技術の利用には大なり小なり、何らかのリスクが伴います。そのリスク評価にも科学的知見が欠かせませんが、では社会としてリスクをどの程度まで受け入れるべきか、という問いについては、科学は答える術をもちません。
このような「科学に問うことはできるが、科学では答えられない問題」を、米国の物理学者アルヴィン・ワインバーグは、トランスサイエンス(Trans-Science)問題と名づけました。社会への科学技術の影響力が強まるにつれて、とくに近年、このようなトランスサイエンス問題の領域が広がりつつあります。
そのようななかで、科学技術と社会の関係はいかにあるべきでしょうか。テクノロジーを生み出す専門家たちと、テクノロジーの受益者である一般の人々、両者の関係はいかにあるべきでしょうか。科学技術の光と影、その両側面と向き合うために、私たちはどのように対話し、意思疎通を図ればよいのでしょうか。
2020年12月上旬刊行予定の『鋼鉄と電子の塔:いかにして科学技術を語り、科学技術とともに歩むか』では、科学技術をめぐるコミュニケーション・意思決定という観点を軸に、産業・理工学・人文社会学の第一人者たちが、上記のような問題提起についてそれぞれ論じています。それを踏まえたうえで、最後に座談会としてオープンな意見交換をしていただきました。そこには、福島原発の処理水の海洋放出の問題や、新型コロナウイルス問題、日本学術会議のあり方など、いままさに議論の対象となっている課題も含まれています。
その第4部座談会を、刊行に先駆けて全文公開します。
本記事では、
1 原子力発電の過去・現在・未来(福島原発事故と汚染水)
を公開します。
『鋼鉄と電子の塔』
第4部 塔を囲む人々―執筆者座談会
2020年5月15日(金)、Web会議システムによりオンラインで開催
参加者:
桝本晃章 (一社)日本動力協会会長
唐木英明 東京大学名誉教授、(公財)食の安全・安心財団理事長
平川秀幸 大阪大学COデザインセンター教授
山口彰 東京大学大学院工学系研究科教授
城山英明 東京大学大学院法学政治学研究科・公共政策大学院教授
島薗進 上智大学大学院実践宗教学研究科教授、同グリーフケア研究所所長
司会:大来雄二 金沢工業大学客員教授、電気学会倫理委員会コーディネーター
司会補:佐藤清 電気学会倫理委員会コーディネーター
1 原子力発電の過去・現在・未来(福島原発事故と汚染水)
大来
本日はお集まりいただきありがとうございます。本書のきっかけは、電気学会が主催した2回の技術者倫理研修会にありました。科学技術と社会との関係が深く、かつ加速する中で、ぜひ考えたいテーマとして、たいへん有意義なご講演を6先生から頂戴しました。あまりにもったいないので、本として出版しようとなり、さらに本日の座談会になりました。
研修会では、最初に企業人である桝本先生にご講演いただきました。これには意図があって、科学技術が社会で価値を生むためには、実業を担う人々の大変な努力が必要だからです。その最前線にいらした方として、今回もトップバッターをお願いします。
最初のテーマは「原子力発電の過去・現在・未来」です。一例として「福島原発事故と汚染水」の問題を考える中で、過去を振り返り、未来を展望し、広く意見交換をしていただければ幸いです。
桝本
私が研修会で話をさせていただいたのは2016年ですが、いまや100年に一度という大混乱の世の中になってしまって、なかなか的確な判断が難しいかもしれません。
原子力発電は長い歴史の下で社会にいわば植え付けられてきたわけで、科学技術の一つの大きい場面ということは間違いないわけです。しかし、この状況下でエネルギー需要は世界的にひどく低迷して、混乱、混迷が深まっている。そういう意味で、エネルギーを生み出す、あるいはエネルギーしか生み出せない原子力発電の議論が、難しくなってきていると感じます。これは非常に残念なことです。
科学技術には、影もあるけど、光もある。マイナスもあるけど、プラスもある。そのプラス、人類に対する貢献を見なければ、私は科学技術というものは必ずしも現実の場では語れないと思います。わずか70年の日本の原子力の歴史を見ても、たいへんに紆余曲折があります。しかし、現在では、問題ばかり見えてしまう。これでいいのかなと私は思います。
山口
桝本先生が「いまは科学技術の影ばかり見えてしまっている」とおっしゃいましたが、なぜそういう事態になってしまうのか考えてみたいと思います。
今日のテーマでは汚染水の問題が例に出されていますが、汚染水とはそもそも何なのかと思うわけです。冷却した水を処理して、きれいにしていって、最終的に残ったトリチウムだけを海洋よりも十分低いレベルに希釈して排水する。じゃあ海洋は汚染水か。どこまでいけば汚染水でなくなるのか、と考えたりするわけです。
これは安全にかかわる非常に本質的な問題で、私も使いますが、世界中の原子力技術者たちが問い続けてきたのは、How safe is safe enough? です。この問いは、安全かどうかとは本質的に違うんですね。安全かどうかというのは、要するにどこから汚染水かという答えを求めているわけです。そうではなくて、安全でないという側面を認めつつ、safe enoughとはどういうレベルかと問い続ける。そういうものだったと思います。
それで原子力発電の過去ですが、特に日本の場合にはどうしてもHow safe is safe enough? 型の問いができなかった。それが根本にあると思います。汚染水の問題を見ると、いまでもその問いを真剣に考えようとしない。原子力の未来でいえば、その点を問いかける踏ん切り、勇気、そういうものが求められるだろうなと。そうすると、影も光も見える。汚染水かどうかという二者択一ではなく、両方の側面がいつも突きつけられている。原子力だけに限らず、あらゆるテクノロジーで、そのHow safe is safe enough? 型の発想をやっていくというのが未来につながると思います。
唐木
これは、安全かどうかだけの問題じゃないんですね。誰に責任があるのかが問題にされる。海水中のトリチウムは自然のものだから許せるけれど、汚染水は加害者が出したものだから許せないという判断がある。タバコでがんになるのと、放射能でがんになるのは、結果は同じであっても原因は違う。誰の責任なのかで判断が大きく変わる。この感情の問題をどうするのかがたいへん大きいだろうと思います。
平川
いまのお話は、とても重要な問題提起だと思います。安全というのはゼロリスクではなくて、リスクがある程度存在する状態であるけれども、それを安全とみなすということで、たとえば国際基本安全規格(ISO/IEC GUIDE 51: 2014)でも、「安全とは許容できないリスクがないことである」と定義しています。How safe is safe enough? とは、リスクが許容できるかどうかを決める線引きの問題であるわけです。
それとともに大事なのは、許容できるかできないかを決めることには、科学的な判断を前提にしつつ、便益とのバランス、費用対効果、技術的制約、社会の価値観など、いろんな事柄が考慮要因として入ってきます。それらについて正面から議論する、そういう覚悟が必要となってくるんだろうなと思います。科学的にはこう、といったうえで、さらに責任や感情の問題も含めて議論して、社会として納得を得る作業をやっていく必要があります。その点、ゼロリスクを想起させる「安全」は便利なレトリックで、安全を求める側も、行政の側も、しんどい思いで責任や感情の問題を議論するのを避けられるということがあったのかもしれません。How safe is safe enough? ではなく、It’s safeで逃げてきたところもあるので、現在はそれをちゃんと正面から使えるタフさが求められる時代なのだと思います。
山口
唐木先生のコメントはまったく私も同感で、たぶんそれはこの次の「未知の脅威にどう備えるか」につながるのかなと思います。結局、How safe is safe enough? は、ずっと問い続けることに意味があって、たぶん答えは見つからないと思うんですが、そういう問いはみんな気持ちが悪くて、しんどいし、なかなか難しい。ただやっぱりいまはその覚悟こそ重要なのかなという気がします。
唐木
山口先生のおっしゃるとおりだと思いますが、現実問題としてこれまでは多くの問題をどう解決したかというと、誰がどれだけ損害を受けて、それをきちんと補償できるのか、という形がほとんどです。安全といわれても不安は残る。それをお金で換算するとどうなるのか。全然違ったものを等価とした交換で解決してきている。しかし、お金で解決するのは最悪だ、それは責任をあいまいにするもので、けしからんという空気もある。この出口をどうするのか。最終的にはそれしかないとしても、 押しつけられて受け入れるのか、納得して受け入れるのか、そのコンセンサスが必要だろうと思います。
城山
フィジカルなリスクでないにしろ、少なくともレピュテーションリスクはあるわけですよね。真偽は別として、影響があると思われたら、たとえば福島の海産物は売れなくなる。そういう意味で、これは単なる不安ではなくて実在する問題になり得るわけです。その部分はいまいわれたように、場合によっては経済的対応ができる話なわけですね。だからやれることをまずやるべきだっていうのが一つあるんだろうと思います。
それから逆にその点で、唐木先生の章の福島のリスコミの成功例がすごく面白かったのですが、福島の農産物に関しては、そういうレピュテーションリスクをなくす、むしろお礼をしようといういろんな人の活動があるわけです。同じことがたとえば海産物についてあれば、漁業者の人たちはかなり考え方が違ってくると思うんですよね。だからそういう草の根の活動があるかどうかが大きいのかなという気がします。
それから、平川さんもいわれた、単なるリスクの問題だけじゃないということ。これは唐木先生の「責任」とも絡んできますが、何とかsafe enoughをクリアしたとして、そのまま汚染水を流すのがある種の公平性としてどうかって話になると思うんですね。物理的に可能かは別として、東京湾とかほかのところに流したって本来的に問題はないわけで、残るのはある意味でコストの問題ですよね。だから場合によっては、公平性としてそういうオプションも考えるんだと。あるいはそれで、コストを考えたら福島でとなるのであれば、経済的な話として補償をすべきかもしれません。そういう次元の話をきちっとやるべきではないかという気がします。
桝本
私の理解では、この福島原発の汚染水は、もう科学技術の問題ではなくて、科学技術と地域社会、あるいは科学技術とその地域の皆さんのコミュニケーションの問題で、その基本はやっぱり信頼関係だと思います。どうやって周辺の漁業者の方々を含めた人たちに、改めて信頼していただけるかという深い問題です。ただ現実には、たいへん難しい。たとえば汚染水の放射能レベルが基準上も安全といえるようなレベルになっていても、その放出に激しく反発する周辺国もある。そういう意味で、これは本当に社会的問題の象徴の一つだと思いますね。
そしてもう一つは、先ほど出た「責任」なんです。「責任」は、本来やはり事故を起こした東京電力にあると考えるのがごく常識的、普通でしょうが、この問題は、社会に理解していただくという意味では、原子力界全体が負わざるを得ないかと思います。トリチウム水は、世界中の原子力施設から大量に流れ出ているわけですが、国際原子力機関はそれが安全上問題だとはいっていない。つまり、原子力システムでは恒常的な処理が今回は問題にされていると。そういう意味で、これは世の中と科学技術、あるいは原子力のかかわりとして、きわめて象徴的な問題だと私は思います。
大来
私はいま、昔のアメリカの電力事情に興味をもって勉強しているんですが、第一次世界大戦の前に反戦主義が非常に高まったそうで、結局は参戦をして戦争には勝ったものの、その後に戦時景気が落ち込んで、反戦運動をやっていた人の矛先が電力を中心とする公共事業に向くんですね。公共事業が不当な利益をむさぼっていてけしからんとなったわけですけれども、電気事業者側はそれに対して、エネルギーは世の中に有益なものだと数字を含めて示して、現実の問題である反電力・反公共事業の動きを克服していったわけですね。
このテーマは、原子力の問題は議論の発散を避けつつ、未来のことも考えたい、また具体的なテーマはほしい、という中で佐藤さんと一緒に考えて、影の側面である汚染水問題をわざわざ入れさせていただきました。期待以上に、行動の重要性や、その具体的な選択肢を示す発言があって嬉しいです。
佐藤
汚染水の問題は、現時点のタンク建設計画では2年後ぐらいに満杯になるということで差し迫った問題ですけども、その後にも除染残土の最終処分や、デブリの処理、それから、その解決が原子力草創期からの宿願である高レベル放射性廃棄物処分の問題もあります。これらはまず汚染水の問題を乗り越えられないと難しいだろうと思っていることもあって、テーマに取り上げた次第です。
私は福島出身ですけれども、放出に慎重な地元関係者の多くは海洋放出そのものを危険視してはいなくて、たとえば内堀知事も、トリチウムの科学的性質とか、海外での処分状況などに関して正確な情報が周知されていないことを危惧しているとおっしゃっています。ただ違う見方をされる方も世の中たくさんおられます。島薗先生は放射線の健康影響の問題でも数多くご発言され、また、グリーフケアの問題にも取り組んでおられますので、ぜひそのあたりお聞きしたいと思います。
あともう一つ、平川先生は「責任ある研究とイノベーション」についての考え方を披瀝しておられ、そこには非常に重要な論点が含まれると思います。汚染水の問題とも密接にかかわりますので、具体的にどういった指針が考えられるか、ご意見いただけるとありがたいなと思います。
島薗
汚染水の問題も喫緊の問題なんですが、もっと喫緊なのは、使用済み核燃料再処理工場の問題です。新規制基準に事実上合格(2020年5月13日)となりましたが、今後どうするつもりなんだという思いがして、公共的な合意と逸れたところで物事が進んでいる事態に思います。つまり、プルトニウムをつくり続けるような、おそらく国際的にも認められないシステムを、過去の経緯だけを理由にやることになるわけですよね。全体の方向がどうかという合意形成がありません。
これは原子力政策全般もそうです。世論が非常に厳しい中で、最も被害を受けている福島県の、その漁業関係者が汚染水の流出によって再び不利益を被るという、まさに信頼性の基本にかかわる問題がまずある。さらに、事故を起こした福島原発のサイトそのものが将来どうなっていくかもよく見えない。そういう大枠の中で汚染水という問題も生じていると思います。
本当に新しいタンクをつくれないのかとか、トリチウムだけじゃなくほかの汚染物質がどのぐらいかというデータの確かさという問題もある。そういう審議がなされ、ステークホルダーの意見が聞かれているかというと、たいへん不十分です。まさに、これはずっと原子力の開発に伴ってきたことなんですね。科学技術の光の部分というのは誰も否定しないところで、恩恵を受けていないと主張する人はあまりいないと思うんですけども、それでも負の側面が目立ってしまい、その部分が隠されたと考えられている。こういう経緯というのがとても大きな問題です。
福島事故については、特に初期の放射性物質放出についてのデータが非常に少ない。SPEEDIの公開がされなかったことも含め、甲状腺の汚染量調査、内部被ばくの調査が、チェルノブイリと比べてきわめて少ないですね。こういうふうに不信感を生み続けてきたことをセットにして考えなければなりません。科学技術一般に問題を広げてしまうと、どういう場合にトラブルが生じるのかという、科学技術に伴う不確実性の問題になる。また、必ずしも見えないものに対するさまざまな評価を、どう合意にもっていくかというプロセスの問題になってしまう。ここはよく考えねばならないということです。
平川
「責任ある研究・イノベーション」の観点には必ずしも収まりませんが、重なるところもありそうです。まずは一般論として、いまのお話に直結しますが、たとえば汚染水について現在明らかになっている事実がちゃんと共有しきれてないのかなと。公聴会的なものはいろいろ開催されていて、東京電力の廃炉汚染水対策チームのホームページで資料が見られますが、その中では2019年末のデータとして、トリチウム以外の物質の7割ぐらいはまだ基準値を超えていると書かれていて、それを今後どう処理していくかもちゃんと説明しているんですね。けれども世間一般に流れている情報では、汚染水の放出を主張する側が、あたかも全部きれいだという形でいっちゃって、それに反対する側が突っ込んで、そこで話がすれ違って、不信感を増幅している状況があります。汚染水の海洋放出を致し方ないという側も、そうでない側も、信頼の基礎として、的確に実状を共有できる形を心掛けないといけないと思います。
そのうえで、次の段階で、汚染水をどうするのがいいのかを問うべきです。結局は海洋放出ということにならざるを得ないと思うんですけども、ただそれをいつやるかとか、先ほどあったように他所に移すといったことも含めて、どういう解決が望ましいのか、いろんなステークホルダーを巻き込んでちゃんと議論して、納得づくで決定していくことが、禍根を残さず、いまある不信感を少しでも和らげるために必要なのかなと思います。これは「責任ある研究・イノベーション」でも重要なポイントです。
後は現実的な将来シナリオです。汚染水だけでなくて、未知要因が多い福島第一の廃炉に関しても、あまり楽観的なものを示すのではなくて、最悪こうです、というある種の納得というか、諦念を合意するようなアプローチも必要なのかなと。「責任ある研究・イノベーション」では先を見通すanticipationが重要なんですけども、変に将来への期待を掛けてしまうと、そうならなかった場合、後から不信感、残念感が出てきてしまうので、一番きついシナリオを、現実のあり得る姿として共有していくことも大事かなと思います。
城山
コミュニケーションの問題であり、信頼の問題であるというのは基本的にそのとおりだと思うんですが、ちゃんとリソースを投入するのか、社会としてその判断ができていないという問題もあると思います。桝本さんも書かれたように、結局失敗して退くのか、失敗を克服して進むのかという選択の話ですね。もし後者を選ぶなら、相当リソースを投入し、さまざまなアクターと交渉しなきゃいけないわけですね。佐藤さんが話されたように、汚染水の話は入口で、原子力を継続するならいろいろやるべきことがあって、そこにどれだけコミットするのか。島薗先生のお話にもありましたが、やる気があればタンクの場所など何とでもできるわけです。むしろ、これらをしっかりやって次のステップを考えるのか、リソースを社会として投入するかどうかの意思決定が必要だと思います。
象徴的だと思うのは、今回の事故後に、安全規制の部門は強化されたわけです。原子力規制委員会という、その事務局だけでもともとの環境省全体の人数に匹敵する役所が、環境省の中に入った。これだけ大きな組織をつくったというのは、日本にとっては良くも悪くも画期的で、そこはリソースを投入してるんだけど、いわゆる推進側のインフラはほとんど強化されてない。原子力損害賠償・廃炉等支援機構という認可法人に民間の人も入れている体制をつくっているけども、きわめて不透明です。やはり国の組織としてちゃんと考えてやることが本来必要ですが、そういう体制になっていないわけです。汚染水の問題も、想定の甘さが何度も繰り返されている。
そういう意味で事故前と変わっていなくて、次のステップを考えるのなら社会的にリソースを投入して整合性のある枠組みをつくらないといけない。島薗先生がいわれたように、要するに燃料サイクルを本当に続けるのかということでもあります。今後はそういう全体的な戦略に関するコミュニケーションが必要で、部分のコミュニケーションだけでは済まないだろうなあという感じがします。
出典:『鋼鉄と電子の塔:いかにして科学技術を語り、科学技術とともに歩むか』第4部
★第2回、第3回の記事はこちら:
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『鋼鉄と電子の塔:いかにして科学技術を語り、科学技術とともに歩むか』
大来雄二、桝本晃章、唐木英明、平川秀幸、山口彰、城山英明、島薗進 著
電気学会倫理委員会 編
四六判、304ページ、定価3520円
2020年12月上旬刊行予定
科学技術と社会の関係がいま、大きく揺らいでいる。
高度に進化し、日常に深く浸透したテクノロジーは、もはや科学的知見だけでは制御しきれないものとなった。それにより、科学技術の専門家、ひいては科学技術そのものが、しばしば疑いの目で見られ、時にないがしろにされるような状況が生まれている。しかし私たちの日々の生活は、科学技術なしには到底成り立たない。
科学技術といかに共生していくか――。この問いがいま、現代社会に生きる人々すべてに対して突きつけられている。テクノロジーへの無自覚・無関心な依存を脱し、互いに語らうべきときが来た。
原子力発電、遺伝子組換え、BSE、地球温暖化、そして新型コロナウイルス――。科学技術と社会の関係深化がもたらす課題と、それらをめぐるコミュニケーション・意思決定のあり方について、産業・理工学・人文社会学の各分野の第一人者たちが、それぞれの視点から切り込んでいく。
〈人類にとっての科学技術の意義とは〉、〈なぜ人々は科学技術に不信感を抱くのか〉、〈科学技術の光と影に、どのように向き合うべきか〉・・・。
各章で示される主張はまた、我々自身へのさらなる問いかけでもある。これらは現実の複雑さを投影して、さまざまな視角をもつ多次元の写し鏡をなしている。多面的な対話の重要性を、あなたは理解することになるだろう。
突きつけられた問いに向き合い、ともに語り、そして前進するための燈火となる書。
【目次】
第1部 シンアルの地――社会にとっての科学技術を理解する
1章 不可避的に深まる科学技術と社会の関係(大来雄二)
第2部 言語の混乱――コミュニケーションとは何かを考える
2章 科学技術の恩恵は見えているか:電気の“空気化”がもたらしたもの(桝本晃章)
3章 不信と誤解が招く不安(唐木英明)
4章 コミュニケーションのすれ違いをどう理解するか(平川秀幸)
第3部 王《ニムロド》のいない街――誰が、何を、どのように意思決定するべきか
5章 「安全」の描像:リスクといかに共存するか(山口彰)
6章 社会における科学技術のガバナンスと専門家の役割(城山英明)
7章 科学技術専門家が市民の信頼を失う経緯(島薗進)
第4部 塔を囲む人々――執筆者座談会
1 原子力発電の過去・現在・未来(福島原発事故と汚染水)
2 未知の脅威にどう備えるか(次の感染症、次の大津波はいつか必ず来る)
3 無関心問題(メッセージが届かない人にどうアプローチするか)
4 座談会の最後にあたって(読者へのメッセージ)
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