見出し画像

近刊『ランダム行列の数理』序文公開

2021年5月上旬発行予定の新刊書籍、『ランダム行列の数理』のご紹介です。
同書の「序」を、発行に先駆けて公開します。

ランダム2

ランダム

***

ランダム行列とは何か — それは乱数を成分とする行列である —

本書はランダム行列の基本的な性質と、その背後にある数理構造を解説することを目的としたモノグラフである。

ランダム行列は、およそ100年ほど前にWishartによって統計学分野へ導入されたのが事の起こりとされる。その後Wignerが重原子核の準位統計問題に対してランダム行列の適用可能性を見出したのに続いて、Dyson、Mehtaらによってその基本的な数理構造が明らかにされてきたという経緯をもつ。このように統計学に起源をもち、物理学において発展してきたランダム行列であるが、その方法はいまや自然科学のみならず広範な分野において用いられ、現在に至るまで発展し続けている。すべてを挙げることは不可能だが、重要なキーワードを列挙すると

• 量子カオス
• 量子色力学
• 量子重力
• 超弦理論
• 不純物・ランダム系
• 散乱理論
• 界面成長
• 解析数論
• 自由確率論
• 結び目理論
• 複雑系ネットワーク
• 生態学
• RNA 構造論
• 無線通信
• 金融工学

など、その応用例は枚挙にいとまがない。これらの応用面に興味がある方は、ランダム行列の網羅的な総説「Handbook」(The Oxford Handbook of Random Matrix)を参照されたい。

Handbookの出版された2011年以降も、これらのトピックにおいて多くの進展がある。たとえば量子カオスに至っては、量子情報や量子重力・超弦理論的な視点に基づいた研究が近年の潮流であろう。なかでも中心的な役割を果たしているSYK(Sachdev–Ye–Kitaev)模型は元来、スピングラスの模型として導入されたものであり、ランダム行列との関わりも深い。量子重力についてはJT(Jackiw–Teitelboim)重力とよばれる2次元重力理論が再注目されており、これによりランダム行列とRiemann面のモジュライ空間との関係についての研究が再度進展しつつある。不純物・ランダム系における重要な話題としてAnderson局在が挙げられるが、最近の進展として、そうした局在現象の多体問題化、および量子色力学における局在現象などが挙げられる。界面成長に関する進展としては、ランダム行列に見られる普遍的なゆらぎの実験的な検証が挙げられるだろう。すでにランダム行列からの予測を超えた新たな統計則が実験により新たに示唆されており、今後の進展が待たれる話題である。数論分野では、かねてよりランダム行列とRiemann予想との関係が注目を集めているが、最近の進展として、ランダム行列のスケーリング則に動機付けられた深Riemann予想(Deep Riemann Hypothesis)が提案されている。結び目理論では、ランダム行列において発展している幾何的手法(スペクトル曲線とその量子化)に基づいた結び目不変量の漸近展開法の進展が見られる。これは、結び目補空間の体積に関する予想(体積予想)に対する有力なアプローチになっている。このように、ランダム行列にまつわる研究はますます分野横断の様相を示しており、これらが渾然一体となって深化し続けているといえよう。

ではなぜそうした幅広い応用可能性がランダム行列に秘められているのであろうか。それに答えるのがランダム行列に備わる普遍性(universality)の考え方である。ここでいう普遍性とは、ランダムな行列のサイズを非常に大きくとることによって現れる統計則が、系の微視的な性質には依存せず、その対称性によってのみ決定される、というものである。このようなランダム行列における普遍性に対して、さまざまな側面からアプローチし、理解することが本書の主たる目的の1つである。

本書ではランダム行列の諸分野への応用を逐次的に解説することはできないが、一方で、その基礎付けを与える豊かな数理構造を説明することに重きを置いた。上述の普遍性の概念もその1つである。ランダム行列は元来、確率・統計論的な対象であるが、本書で紹介するように、代数・幾何・解析の方法が遍く用いられる。これらはたがいに相補的なものであり、すべてが予備知識として不可欠というわけではない。予備知識として線形代数、微分方程式、複素函数論の基礎は想定しているが、むしろランダム行列を通してさまざまな数理的手法に親しんでもらうことこそが、本書に込めた筆者の本当のねらいである。筆者自身も、これまでランダム行列そのものを対象とした研究はさほど多くはないが、ランダム行列を通して培った数理物理学的手法や、あるいはランダム行列との類似性に示唆された研究は数多くある。そうした意味で、ランダム行列の応用可能性の真髄は、ランダム行列に関わる数理的手法の汎用性にある、というのが筆者の考えである。本書を契機として、ランダム行列、および周辺の数理物理学の世界へ読者を誘うことができれば幸いである。

こうしたねらいから、本書を執筆するにあたって留意した点がある。それはランダム行列の諸性質を議論する際に、なぜ、そのような性質がランダム行列において成り立つのか、という観点や記述を可能な限り取り入れたことである。ランダム行列にはすでに多数の教科書や総説があるが、とくに洋書はいずれも分量が多く、複雑な式の導出の繰り返し、あるいは導出そのものが省略されてしまう傾向がある。これはランダム行列の豊かな数理構造、広範な応用例を反映したものであるかもしれないが、初学者がいきなり独習に用いるにはハードルが高いと思われる。実際に筆者がランダム行列の勉強を始めたときも、その膨大な計算の先に何が見えるのかがわからず苦労した記憶があることから、本書では全体を俯瞰しながら議論を進めることを心がけた。もしその計算の目的を見失った場合には各章、あるいは各節の冒頭まで戻って改めてその意図を確認してほしい。

また、こうした俯瞰的視点の多くはランダム行列だけを見ていたのでは捉え難いというのが筆者の経験に基づいた考えである。こうした観点から、実際に関連の話題と結び付けて考えることも有用であると考え、本書も「第I部:基礎編」「第II部:発展編」の2部構成とした。各章で取り扱う内容、および概要は各部の冒頭に記すのでそちらを参照していただきたい。第I部で導入したランダム行列の諸性質が、第II部で何度もリバイバルされる様相を通じて、ランダム行列の世界の奥行きの深さを感じていただければと思う。

もう1つ本書で心がけたのは、可能な限り一般論より始める、という点であり、これは本書の目的の1つであるランダム行列の普遍性を示すという立場からも重要である。ともすると一般論を展開することは具体例を見ていくことよりも難しいのでは、という印象を受けるかもしれないが、それは必ずしも正しくない。具体例を議論していると、筋が悪いと思いつつも何とか計算しきって示してしまう、ということがしばしば可能であるが、一般論だとそうはいかない。一般論を論じる際にはそうした腕力で押し切るアプローチではなく、必然的に明快な説明が求められるのである。本書を執筆する際には、過去の文献では各論的、かつ具体例として取り上げられている多くの内容を一般論にもち上げ、本書の流れに沿うように再導出、再構成を行った。解法がわからなければ一般化せよ、というのは数学者からよくうかがう格言である。一般論だと使える道具が限られて、むしろ見通しが立てやすい、という旨であるが、これは上述の、なぜそれが成り立つのか、という視点をもつことにも通ずるだろう。もちろん一般論で議論し、導出した後には具体例を取り扱い、理解の定着を促すことにも努めた。

***

『ランダム行列の数理』
https://www.morikita.co.jp/books/book/3595

著:木村太郎
【目次】
第I部 ランダム行列:基礎編
 第1章 ランダム行列基礎論
  1.1 複素Hermiteランダム行列
  1.2 実対称ランダム行列,四元数自己双対ランダム行列
  1.3 βランダム行列
  1.4 カイラルランダム行列
  1.5 ランダム行列の分類

 第2章 Coulomb気体の方法
  2.1 有効作用
  2.2 スケーリング極限と鞍点近似
  2.3 固有値密度函数
  2.4 汎函数形式
  2.5 スペクトル曲線
  2.6 量子スペクトル曲線
  2.7 カイラルランダム行列

 第3章 固有値相関と固有値統計
  3.1 観測量と相関函数
  3.2 行列式構造:β=2
  3.3 Christoffel–Darbouxカーネル
  3.4 スケーリング極限
  3.5 固有値統計
  3.6 Pfaffian,四元数行列式構造: β=1,4
  3.7 特性多項式
 
 第4章 円型ランダム行列
  4.1 円型ユニタリ集団
  4.2 行列式構造
  4.3 ポテンシャル変形
  4.4 円型直交,シンプレクティック集団

第II部 ランダム行列:発展編
 第5章 ランダム行列と可積分系
  5.1 Lax形式
  5.2 r函数
  5.3 Fredholm行列式,Painlev´e方程式,Schlesinger方程式
 
 第6章 ループ方程式
  6.1 位相的展開
  6.2 ループ方程式
  6.3 演算子形式:共形場理論の方法
 
 第7章 超ランダム行列
  7.1 Grassmann数
  7.2 超ベクトル空間
  7.3 超行列積分
  7.4 Coulomb気体の方法
  7.5 Wigner半円則
 
 第8章 Chern–Simons行列模型
  8.1 分配函数
  8.2 Wilsonループと結び目不変量
  8.3 Coulomb気体の方法
  8.4 超行列Chern–Simons理論

 第9章 ランダム分割
  9.1 Plancherel分布
  9.2 Schur測度
  9.3 演算子形式
  9.4 相関函数
  9.5 Coulomb気体の方法

 第10章 角度積分
  10.1 Itzykson–Zuber積分
  10.2 外場行列
  10.3 ランダム行列鎖
  10.4 超群IZ/HC積分
  10.5 Chern–Simons行列模型

第III部 付録
 付録A 特殊函数
  A.1 r函数
  A.2 q類似
  A.3 Gauss積分

 付録B 対称多項式
  B.1 分割
  B.2 基本対称多項式
  B.3 完全対称多項式
  B.4 冪和対称多項式
  B.5 単項対称多項式
  B.6 Schur多項式
 
 付録C 文献案内
  参考文献
  索引

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?