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【連載9】専門家・ムラブリ・丸山眞男

頻繁に更新したいんですけど、いいかげんなことを書きたくないので、「あの記述はどこにあったのか」などと確認しているうちに、時間が経過してしまうのです。いかんなあ。

──狩猟採集民の本ばかり読んだおじさんに芽生えた思想 #9

◎言語学者がムラブリに出会った

 かつて、『世界ウルルン滞在記』というテレビ番組がありました。タレントが世界のあちこちに旅して現地の人と交流し、最後は涙涙で別れるというドキュメンタリーでした。都会に行って料理の修業をすることもあれば、辺境の地で少数民族と過ごすこともありました。

 2年くらい前かな、Amazon Prime Video の、MBSチャンネルかなにかに登録して、未開社会だけを見まくりました。狩猟採集、牧畜、山岳農耕民など、いろんな人たちを紹介しているので改めて驚きました。

 私が知る限り、タイとラオスの国境に生きるムラブリは2度登場しています。#312「タイ・森の妖精ムラブリ族に…広瀬久美が出会った」(2002年2月3日放映)と、#527「ガレッジセール ゴリ ようこそ!ふんどしのジャングルへ」(2007年4月15日)です。

 狩猟採集民ムラブリは、山の斜面に竹を突き立てて骨組みにし、バナナの葉っぱを立てかけただけの簡易テントに暮らしていて、人の気配を察すると素早く逃げることが知られていました。第三者が彼らがいた場所に行ってみると、まだ燻る焚火跡と黄色く変色したバナナの雨除けだけが残され、姿を消しているのです。「黄色い葉の妖精」と呼ばれていたました(伊藤氏によると、妖精ではなくお化けという意味合いのようですが)。2002年の番組を見たときのメモには、財産はほとんどなく弓矢もない。「喧嘩」「戦争」「抗争」という単語がない。集団生活の唯一のルールは「みんなで分け合う=平等分配」のみだとあります。

 1990年代、タイ政府はムラブリの定住化政策をはじめました。2002年放映「世界ウルルン滞在記」では、300人のムラブリのうち村に暮らすのは120人だと説明されました。2019年の金子遊監督のドキュメンタリー映画『森のムラブリ』では、タイのほとんどのムラブリが定住しているとされます。

『世界ウルルン滞在記』の、広瀬久美の回はたいへんおもしろかったんです。数家族のムラブリと出会った広瀬氏は、みんなと楽しく交流し、飲んで食べて笑って歌いました。ところが、ガレッジセール・ゴリ氏が出会った家族は、よそ者を受け容れる気配がありません。とくに大人はずっと憮然としていました。あんなに開放的だったのに、なぜゴリ氏を拒絶したのか、私は不思議でした。だって、広瀬氏とゴリ氏が会ったムラブリのうち、少なくとも男性1人は同一人物だったのです。彼の妻子はいなくなっていたけど、離婚したのでしょうか。

 おそらく、少なくとも2007年の放映分は、定住していたムラブリが伝統的な狩猟採集生活を再現し、制作側の意図に沿って演技した気がします。状況証拠の1つは、広瀬氏にもゴリ氏にも会っている男性が、長い横の髪で薄い頭頂部を覆っていたことです。「狩猟採集民」でも「hunter gatherer」でもいいので画像検索してみてください。私は、禿頭・薄毛・白髪の狩猟採集民を見たことがありません。

 そんな理由で、ゴリ氏とムラブリ訪問は消化不良だったんですが、まさにゴリ氏が出演した『世界ウルルン滞在記』を見て、言語学者・伊藤雄馬さんはムラブリの言葉を研究することに決めたそうです。だったら、あの放送回にも意味があったというものです。伊藤氏の本は面白かったもの。

◎分業や専門家は権力をうむ?

 伊藤氏は1986年島根県生まれ。富山大学文学部から京都大学大学院に進み、今もムラブリの言語を研究しています。映画『森のムラブリ』にも登場しました。著書に『ムラブリ──文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと』(集英社インターナショナル)、奥野克己との共著『人類学者と言語学者が森に入って考えたこと』(教育評論社)があります。

 伊藤氏は言語学者ですが、人類学者のようにムラブリの生活に入って参与観察をしています。ラオスで今も狩猟採集生活するムラブリにも会いました。紹介したいことはたくさんありかすが、今回は「分業」や「専門家」について考えます。

 狩猟採集民は、上下関係をつくらないように慎重に行動していると先に書きました。すでに定住したムラブリたちも、みんなで獲物を分配するなど、狩猟採集生活のマインドを残しているようです。

 加えて、彼らは専門家を育てず、分業もしないそうです。村の誰かにバイクの整備を教えようとしても拒否するし、服を作るのも糸を撚るところから一人でやるらしい。現代人からすると非効率的ですが、彼らはなぜ専門家を持たず分業をしないのか。伊藤氏はこう考えます。

 このように、ムラブリにはいかなる専門家もいない。ぼくらは分業することでより高度に技術が発展し、社会が前進すると考えている節がある。しかし、専門家が生まれただけ、素人が生まれることになる。それはすなわち権力の発生に他ならないし、一人ひとりが生きていく力を獲得していく機会を、潜在的に奪っていると捉えることもできる。実際、衣食住のどれをとっても、[現代人の]ぼくらは専門家なしには生きられない。どのように服がつくられているかを知らないし、農作物をつくる知識もなく、家を建てる技術も持たない。しかし、ムラブリは葉っぱでできたふんどしを着て、森のなかで食べられるものを見分けることができ、その場にある環境と植物で寝床をつくることができる。

『ムラブリ』157ページ *[ ]内は引用者

 小学校の社会科の時間、家内制手工業だった生産形態が、ベルトコンベアや分業などにより効率がアップして大量生産が可能になったと、肯定的に教わった気がします。ライン生産は資本主義の象徴である「フォーディズム」の特徴の1つに数えられますが、それを非人間的だと批判したのはチャップリンでした。映画『モダン・タイムス』(1936)の主人公は、機械化と効率化を追求する工場に勤め、正気を失いました。

 それから約90年。多くの人が効率を追及し、すべてを損得勘定で決めているのです。人間関係に生じるモノやできごとをすべて金銭価値に還元しようとするのです。「タイパ」なんて造語も生まれました。私が若いころは、「廻り道にも意味がある」なんて言われたものですが、今は昔ぞよ。

 では、誰がいちばん得をしているのでしょうか。努力してのし上がった人ではありません。裕福な家に生まれたというだけで利権を手にした者です。オルテガ・イ・ガゼットが、『大衆の反逆』(1929)で、慢心しきったお坊ちゃんと呼んだ人。すなわち、《生まれた時に、突如、しかも、それがいかにしてかは知らないまま、富と特権を有している自分を見出》した人びとなんです。政治家にせよ資本家にせよ彼ら世襲貴族が考えるのは、市民や消費者の幸福でしょうか。まさか。自分たちの利益の最大化です。「得したい、得したい、得したい」。ザ・資本主義。

 現代日本は専門家だらけです。専門家がつくった商品を専門家が運び、専門家が並べて売っています。自分たちもなにかしら専門家で、それによってカネを得ています。だけど、繰り返しますが、ムラブリは専門家のいる社会を避けているのです。《権力の発生》につながり、また《一人ひとりが生きていく力を獲得していく機会を、潜在的に奪っている》から。

◎専門家に依存することがファシズムにつながると、丸山眞男

 思い出すのは丸山眞男の警告です。言語学者と政治学者が結びつくから読書って面白い。

 丸山は『超国家主義の論理と心理』において、《近代生活の専門的分化と機械化》により、《政治的社会問題における無関心ないし無批判性が増大します》と書いています。技術的専門家は自分の仕事に熱中して張り合いを感じるものの、《それを使う政治的社会的な主体が何かというようなことについては、全く無関心で、いわば仕事のために仕事をする》ようなことが起きるのだと。やがて、《現代政治の技術的複雑化からして、政治のことは政治の専門家でないと分からないから、そういう人に万事お任せするというパッシヴな考え方が国民の間に発生し易》くなると続けます。

アリストテレスが、『政治学』の中で、「家の住み心地がいいのかどうかを最後的に決めるのは建築技師ではなくてその家に住む人だ」ということを言っていますが、まさにこれが民主主義の根本の建て前です。同じように料理がうまいかどうかを決めるのも、腕自慢のコックではなくて、それを食べる人です。(略)デモクラシーもその通りで、政策を立案したり実施したりするのは政治家や官僚でも、その当否を最終的に決めるのは、政策の影響を蒙る一般国民でなければならぬというのが健全なデモクラシーの精神です。政治のことは政治の専門家に任せておけという主張はこの精神と逆行するものですが、とかく近代社会の分業と専門家に伴ってこういう考え方が起り易く、これがファシズムの精神的培養源になるわけです。

丸山眞男『超国家主義の論理と心理』岩波文庫240ページ

 丸山眞男が上記の文章を書いたのは、1950年代半ばのこと。

 いわゆる55年体制が始まった年の衆院選挙の投票率は 76.99%でしたが、2024年は 53.85%。テレビのインタビューで「政治のことはわからないから投票に行かない」なんて堂々と答える有権者がいますが、政治の専門家はといえばウラガネばらまいて当選して自分の地位を確保したら、市民から税金を巻き上げていきます。減反政策は、企業が労働力を確保するために行われました。結果、現代日本の実質的な食糧自給率は 10%以下と言われます。戦争が起きたら国民の多くが飢えるといわれているのに、アメリカの型落ち兵器を購入し、防衛増税もおこなうようですよ。専門家にお任せしている人たち、そんな国でいいの?

 学問の世界もタコツボ化しているとよく批判されますよね。文学研究を志して私が入学した学部では、ある大御所の教授が「記事は読まなくてもいいから、書籍の広告を眺めるために新聞を取りなさい」と言っていました。数年前に定年になったゼミの先生は専門分野では大家ですが、ときどき会うたび、社会のことを知らないので驚きます。そんなんでいいのかなあ。

 私にはムラブリのほうが賢く生きている気がするのです。

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