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自分の前世・過去生を探求した記録  ヒプノセラピー(前世療法)を含む!

最終校正をもう1度入れたいと思いますが、ご先祖様の魂をお迎えするお盆なので、とりあえずお盆休み期間中は、無料記事としてアップいたします。
(考えるところがあり、しばし無償提供 続けますぞよ!)
少し長い記事ですが、「輪廻転生」「あの世とこの世」「前世」「過去生」などに想いを馳せてみてください!
以下の出来事は、すべて私自身に起こった ノンフィクションです。

前世や過去生を知ろうとしてはいけない!

まず始めに、自分前世過去生興味本位知ろうとしてはいけません

過去生(過去世)の記憶全て消し去って今生に生まれ出るのには、それなりの訳があるからです。

自分がこれまで体験してきた全ての過去生善悪等帳尻合わせがされた上で、今生生まれ出る環境家庭環境身体条件性別など)が決まります(自動的にではなく、自ら意思反映)。そして、今生取り組むべき課題自ら設定し、全ての記憶が消し去られ白紙の状態今生スタートを切ります。

前世過去生興味本位で知ることで、せっかく綺麗に帳尻合わせされていた今生でのバランス崩れ過去生因果リピート再生されやすくなってしまいます。

また、せっかくの白紙状態での今生チャレンジが、過去生身に付けたクセ習慣再生されることで、足を引っ張られることにもなりかねません。

前世』は、一つ前の過去生を指し、『過去生』は、過去にこの世に生まれた全ての』のことを言います。

私が過去生を知ろうとした訳

上記のようなデメリットがあるにもかかわらず、私が自身の過去生を探求したのには訳があります。(正確に記すと、このようなデメリットを正しく認識したのは、過去生探求後のことです。)

私は30代前半でフリーランスになった時一つの小説を書こうとしていました。テーマは、ずばり『輪廻転生』(りんねてんせい・りんねてんしょう:何度もの生まれ変わり)です。

その目的は、自分の本質とは、この体や肉体ではなく魂であることを知り、その魂は今生だけではなく輪廻転生によって幾度となく肉体の衣をまとって生まれ変わっていることを、はっきりと了解してもらうことです。

また、そのことにより、刹那的(せつなてき:一時的な快楽を求めること)に生きる人々に、一時的な快楽のみを追い求めたり利己的になったりせず今生自らの魂進化向上させるために、自らが強く望んで生まれてきたことを認識してもらえたらと考えたからです。

刹那主義というと、現代的には、「一時的な快楽を追及する考え方」と捉えられがちですが、「いま、この瞬間を生きることに、全力を尽くすという考え方」が本来の意味なのです。

輪廻転生正しく理解することは、肉親や近しい人の死に深い悲しみを覚えている人たちにとっては救いとなり、また、安易に自殺をしたり人を傷つけたり、殺(あや)めたりすることに対する抑止にも繋がるだろうと考えました。

輪廻転生現実のものであると了解することは、政治や宗教に頼らず世界の少なからぬ問題を解決し、個人の心中の平穏から世界の平和に至るまで作用するのではと、思い描いたのです。

そして、その説得力を高めるためには、作り物のフィクションではなく自身の過去生を踏まえたリアリティーが必須であると考えました。

前世探求の苦闘

それから、小説のモチーフ(テーマ)となる自身の『前世』『過去生』を探る苦闘が始まった。

前世療法ヒプノセラピー」「臨死体験」「宗教」「スピリチュアル」関連の本を読み漁(あさ)り、自分でできる退行催眠〔催眠や暗示により、意識を過去へ戻していき、年齢を遡(さかのぼ)り、当時の感情や感覚をリアルに思い出す方法〕、さらには出産以前まで誘導する「過去生退行」を録音してやってみたり、はたまた夢日記をつけてみたりと、ありとあらゆる方法で、自身の前世を探し出そうとした

今は、前世療法やヒプノセラピーをネットで検索すると、うじゃうじゃとセラピストやサイトが出てきますが、当時は前世療法をやっているセラピストは、日本には居ませんでした。

しばらく、自身の前世・過去生を必死で探りながら、なかなか見つけ出すことができない日々が続いた。

運命の日 1997年6月3日 〔観音日和〕

この日は、朝から少し変だった。

病気知らずで、健康そのものの進学前の娘が、早朝から高熱を出したのだ。そして、妻はというと、眠りから覚めた直後に、我が家の床の間の壁に観音様の姿を見たと言い出した。寝室からは、直接床の間は見えないので、白日夢に近いものだろうか。

その日の午前中に、近隣に住む年長の女性の友人Uさんから、スピリチュアル関連も含めた情報交換をしようと誘いがあった。この年の初めからフリーランスに転向していた私は、デスクワークの運動不足解消も兼ね、家から車で30分ほどの所にある日本の滝百選の名瀑で会うことにした。

山奥にある名瀑の滝壺近くで、Uさんが帰依する近隣に住するK先生との滝行の話を聞いた。K先生は、かつてその山麓にあった、ある会社の寮番をされており、昭和の後半に起きた大規模な土石流に遭遇し、寮の建物が飲み込まれる寸前に、流れが二手に分かれて、危く難を逃れた経験を持ち、それを境に、先生の霊的能力が開いたのだとのことだ。

私たちは、滝から流れ落ちる大量の水しぶきと、そこから派生するマイナスイオンを背に浴びながら、遊歩道上で長く立ち話をしていた。私の後頭部には、ジーンと、少し重く熱を帯びたような感覚が生じ始め、それは時間と共に強くなっていた。滝から湧きあがる冷気とイオンを帯びた飛沫が、後頭部を刺激し続けた影響によるものだと思われる。それとは逆に、体の方は、清澄な水の浄化作用により、すっきりと軽くなったように感じられた。

その後私たちは、せっかくなので、滝への遊歩道の入り口にある山間の小さな温泉街の宿で日帰り入浴をさせてもらった。渓流に面した「観音風呂」と呼ばれる露天付きの温泉は、白濁のにごり湯で源泉かけ流し。大地のエネルギーを存分に含んだ湯に清められ、風呂上りに鏡に映った自身の顔は、驚くほどスッキリしていた。

宿のロビーには、さまざまな美術骨董品や仏像が置かれ、中でも一番目を引いたが、白木の大きな厨子の中に納められた身の丈1メートルほどの黒光りする観音様の像だった。宿の「観音風呂」の名称も、この御像に由来するのだろう。Uさんと二人で、その流麗な御姿に見惚れていると、宿の女将さんが来て説明をしてくれた。

「実は、この観音様が来られる前日に、主人が観音様の夢を見たんです。そしたら、翌日になって知人が、この像が農家の蔵から出てきたんで買ってくれないかと、持って来たんです。それ以来、こちらでお祀りをさせてもらってるんですよ。江戸時代のもので、桜の一木で作られてるんだそうです」

この日は、やけに「観音様」に御縁があるだ。
 
Uさんとの話は、一通り終わっていたのだが、せっかくなのでK先生の道場に寄って行かないかと誘われた。道場とは言うものの、K先生に帰依する人たちが集い、お参りをする場であるらしい。場所を聞くと、温泉街から車で一直線の急坂を下り、十五分ほどの距離である。

私は、なにか古(いにしえ)の縁に導かれているような不思議な一日の流れに、『よし、こうなったらとことん流れに乗って、行くところまで行ってやれ!』という気になっていた。滝の近くで、後頭部に感じていたジーンとする感覚もなお続いており、そのことも前へ突き進む原動力の一因となっていた。

道場に行く前に、途中にあるS神社に寄ってお参りをした。S神社は、神仏習合が色濃く残っており、その御神体は、クニトコタチノミコト=地主権現本地 聖観世音菩薩、イザナミノミコト=白山権現本地 十一面観世音菩薩を含む三神をお祀りしていた。

Uさんによると、K先生もこのS神社に、熱心にお参りをされているとのことだった。

K先生の道場は、小さな鉄筋コンクリート製の建物で、十年ほど空き家だったものをK先生が格安で買い取り、信者の方たちが交代で整備や管理を行っているとのこと。

建物の中に入ると、入り口近くのテーブルで、おばあちゃんと、若い女性がお茶飲みをしていた。二人ともUさんとは顔なじみで、私たちもそこに加えてもらった。テーブルの上には、自家製のフキの煮つけなどのお茶受けが並んでいた。おばあちゃんと、若い女性は親しい間柄のように見えたが、親子ではなく近隣の別々の村に住む信者さんのようだ。

世間話をする中で、その日のK先生の動向が話題になり、今日は霊峰白山の方に車で出かけているとのこと。内心、道場まで赴いた動機として、K先生にお会いして、お話を聞ければと思っていたので、少しがっかりした。

ひとしきり茶飲み話をした後、せっかくなので2階にある祭壇でお参りをさせてもらった。その後1階に下りると、窓際の物置台の上に並べられた写真が目に留まる。信者さん向けに販売されているもので、通常のキャビネサイズの写真が、いくつかの山になって置いてあった。

その中の一枚が、圧倒的に私の目を引いた。どこかの山の山頂から撮った御来光の写真であることは間違いない。画面の下半分を構成する黒く闇に沈んだ雲海から、まさに太陽が顔を現した瞬間をとらえていた。そこまでなら、ただの一般的な御来光写真だが、上半分が、まったく通常のものとは異なっており、なんと太陽の周りには、半身の人物像がくっきりと浮かび上がっているのだ。ちょうど太陽の位置が人間のお腹の中心の位置にあって光り輝いている。腕や手は、その輝く宝珠のような太陽を、お腹の前で捧げ持っているように見える。また、頭の上の中央は、やや盛り上がった形に浮かびあがり、仏像の宝髻(ほうけい)と呼ばれる髪を結いあげた形になっているのだ。そして、半身像の背後は、太陽の光がオレンジ色のグラデーションとなって半円形に広がり、その端は虹のように写真の上半分に掛かり、仏像の背後にある光背そのものとなっていた。

まさに、光り輝く観音様』!

私が呆気にとられて写真に見入っていると、Uさんが、それはK先生が、白山の山頂から撮ったものであると説明してくれた。私は、朝からの「観音様繋がりがあったので、写真を買おうかどうか迷ったが、帰るときにしようと、とりあえず写真を元の場所に戻した。

外は、もう暗くなり始めていた。おばあちゃんがUさんに、焼きおにぎりなら出来るけど、夕飯を食べていくかと聞いてくれた。Uさんが、私にどうするかと尋ねたので、せっかくなので頂いていくことにした。

手作りの素朴な夕食をたべながら、K先生が最近お参りに行っている近くの小さな神社のことが話題になった。先生が氏子となっている最も近隣のお社で、『大天神社』という名前である。

K先生が、一昨年の大晦日から新年にかけての二年参りに行った折、その氏神様より「二年待っておったぞ」と、御神託を受けたのだそうだ。K先生によると、大天神社は、霊的には先ほどお参りをしたS神社の奥宮的な存在に当たるとのこと。

そう聞くと、ここまで流れに乗ってきたのだから、もう、前に進むしかない。夏至間近の頃であるが、すでに外は真っ暗だった。車で行けばすぐの距離だが、道が非常に分かりづらいらしく、Uさんも夜道では自信がないという。

お姉さんに行き方を紙に書いてもらっていると、ちょうど仕事帰りに道場に立ち寄った三十代ぐらいのお兄さんが入ってきた。つなぎを着ているので、自動車の整備か、農業に関わっていそうな印象だ。おばあちゃんと、お姉さんは、グッドタイミングというように、事情を話し、お兄さんに案内してもらえるように頼んでくれた。

時間も遅いし、仕事帰りのようでもあったので、恐縮したが、お兄さんはいやな顔一つせず、道も狭いので、自分の車に乗せて連れて行ってくれるとのこと。Uさんと私は、好意に甘えることにした。

お兄さんが運転する軽自動車は、街灯のない細い農道を、右へ左へと何度も曲がりながら進んでいく。そして、5分も経たないうちに停車した。辺りは、街灯や人家の明かりもなく真っ暗だ。

お兄さんは、道場から借りてきた懐中電灯で行く先を照らしてくれた。彼の先導のもと、私とUさんが足元に注意しながらゆっくりと付いていく。山村の氏神様を祀る神社としては、小規模ではあるが杉並木の参道があることに驚いた。

懐中電灯の明かりを頼りに、三十メートルほど歩いただろうか、小さな石橋を渡って、やはり小さなお社の前に辿り着いた。社殿正面上には、年季の入った立派な額に、『大天神社』と書かれている。拝殿を前に、私たちはお参りをした。私は、この神社に辿り着けたことと、そして、今日一日の導かれるような不思議な流れに対して感謝をささげた。私たちは、その場の雰囲気をしばし肌で感じてから帰途につくことにした。

先頭を行くお兄さんの懐中電灯の明かりが、杉並木と山道のような参道の一部を浮かび上がらせる。一歩先、一歩先の一点を注視して、ゆっくり、ゆっくりと、歩いて行く。参道を取り巻く杉木立は、幹の太さはそれほどでもないが、根はしっかりしていて土の地面から盛り上がり、木の根道となっていた。その薄暗い木の根道に目を遣った瞬間、不意にデジャヴュ(既視感)が起こった。『これと同じ情景を、私は遠い昔に見たことがある』と、確かに感じたのだ。

瞬間、『回峰行』という言葉が閃いた。

それと同時に、背後大天神社から強いエネルギー後頭部通して体に流れ込むのを感じ脊髄、そして眉間の辺りがグワーンと重く痺れるような感覚に包まれ、立ちくらみのようにクラクラした。

立ち止まる私を心配して、お兄さんが振り返って声をかけてくれたので、私は興奮した口調で、今体験したことを、彼とUさんに話した。それは、今までに体験したことのない感覚瞬間だった。

そして、私はもう一つ別の意味においても、興奮していた。やっと、自分の前世についてのヒントを見つけ出したのだ。暗がり木の根道既視感は、今生のものでは無く、それよりも前の生のものであると、私は体の奥深く直感的感じ取っていた。

ひょんな切っ掛けから、大きなヒントを得ることができたのだ。まさに、『念ずれば花開く』〔総べて物事は、あきらめずに想い続け、努力をしていけば、必ずや想い通りになる〕である。
「回峰行」という言葉も、いきなり出てきたわけではない。比叡山の峰々を、千日という月日と生死を掛けて行なう荒行のことは、以前から知っていたし、興味もあった。七百日の回峰を終えた行者が挑む九日間の断食・断水・不眠・不臥の「堂入り」とよばれる超人的な行は、特に関西圏では大きなニュースとして取り上げられる。また千日回峰行を満行した僧自らが記した本を、前年に私が読んでいたのも、単なる偶然とは思えず、そこには何らかの必然〔縁〕があるように感じられた。

私たちは、大天神社から車で一旦道場に戻り、お兄さんに丁寧にお礼を言って別れた。Uさんが、そろそろK先生が戻られているかもしれないので、御宅にお伺いしてみようかと言う。私としても、望むところなので、もちろん断る理由はない。車で五分ほど移動し、新築してからまださほど年数が経ってない、大きな一軒家のインターホンをUさんが押した。

幸運なことに、先生はちょうど戻られたばかりで、会って頂けることになった。私たちは、祭壇のある二階の大広間に案内された。K先生は、すぐに部屋に入ってこられた。歳は六十前後であろうか、がっしりとした体躯をされている。Uさんと私は、帰られたばかりでお疲れの所、面会して頂けたことに感謝を述べた。
「先生、今日は白山に行ってらっしゃったんでしょ?」と、Uさんが聞いた。
「いや、実は朝までその予定だったんだが、途中から富士山に行くことになったんだよ」
先生が、白山に向けて車を走らせていると、途中から神様によるサインが中空に現れ、その方向に従って進んで行ったとのことである。関越自動車道の花園インターチェンジで下り、身延山、朝霧高原を通って、富士山中腹の噴火跡である宝永山まで行き、そこから帰って来たばかりなのだそうだ。

先生はその後、その地域の歴史や、温泉街から下ったところにあるS神社の歴史的な経過などを霊的なリーディングを交えて話して下さった。

そして、私からは、惣滝からの後頭部のジーンと少し重く熱を帯びたような感覚のことや、先ほどの大天神社での既視感のことを先生にお話した。後頭部の感覚については、滝行が霊門である脊髄を刺激するためのもので、それに近い効果が現れたとの解釈を頂いた。そして、私の魂に関するリーディングが続いた。
「あなたは、とても古い魂だ。六百年ほど前に僧侶として比叡山にいて、千日回峰行の修験者の後について、後ろで杖で支える役目を果たしていた」と、言われた。  
私は、自身のことながら感心するような心持ちで聞いていたが、まず、古い魂という意味がよく分からなかった。私の解釈だと、人は皆多くの輪廻転生を繰り返しているので、その意味では、すべての人が古い魂であるように思えた。

先生が話されたのは、私の前世と今生の間に、六百年という長きに渡る期間があるということなのだろうか。次の比叡山の僧侶に関してであるが、その真偽はともかくとして、つい今しがたの体験により、比叡山の回峰行に私の前世が関わっていたことは間違いないと確信できたので、そのような可能性もあるかなとは思えた。

私とUさんは、先生がお疲れであることは分かっていたので、そろそろお暇(いとま)することにした。話の中で、私が先ほど道場で見た白山からの御来光の写真について感嘆の意を述べたことから、白いプラスティックの額に入ったA4サイズの写真をプレゼントして頂いた。写真の下には、『霊峰 白山奥宮からの御来光神の姿見る』とのキャプションが付けられていた。
これで、何もなかった我が家の床の間の壁にも、観音様のような御来光神の写真が掲げられることになった。カミさんが、朝見た白昼夢は、まさに正夢となったのだ。

前世探求の再苦闘 〔恵心僧都源信との邂逅〕

この日以来、自身の前世探し、言いかえると小説の主人公探しに拍車がかかった。既視感という自身の内から出てきた『回峰行』という確かなキーワードも手に入り、K先生からは、リーディングで、六百年前に比叡山の僧侶であったとも言われた。

ただ、自身の前世に関しては誰しも、淡い期待を抱くもので、例えそれが事実であり、かつ貴い役回りであるとしても、回峰行者の後ろでつっかい棒をしているというよりも、闇夜の峰々を颯爽と歩いて修行する回峰行者自身であった方が、カッコよく思えるし、小説の主人公としても見栄えがする。

そして、先生の言われたことが真実かそうでないかは別にして、既視感という自身の内に感じられたものと、自身の外から得られた情報では、その納得度合にも大きな差がある。

しかし、どちらにしても比叡山に関係していたことは、間違いなさそうだ。幸いなことにというか、これも縁なのかもしれないが、私の妻は、琵琶湖近隣の出身で、近江に行く機会も多く、湖西の比叡山にも遊びに行ったことがある。その折、自身の興味からと、あとは物書きの習性として何かの資料になるかと思い、比叡山と延暦寺に関する本を何冊か購入していた。

当初は、その資料を基に、回峰行と、それを修した行者を中心に調べ始めた。比叡山で行なわれている千日回峰行に関しては、その修行形態の主な部分は室町時代以降に確立されたこと。常不軽という名の菩薩が、出会う人すべての中に仏を見て敬い礼拝したことに由来し、神社仏閣のみならず、一木一草にまで仏性が宿るという考えから霊石・霊木・霊水を含む山中のおよそ三百カ所を礼拝して歩いて回ること。その総距離は七年に渡る千日をかけておよそ地球一周分に相当することなど、修行の行程を含めてかなり詳しく知ることができた。

一方、それを満行した行者のこととなると、比叡山の記録に残っているのが五十人弱で、戦後では十人強というぐらいで、直近の何名かについては、本も出ていたりするのである程度のことは分かるが、それ以前となると詳細を知るのは難しい。比叡山は、織田信長によるものを含めて、幾度かの焼き討ちに遭っているので、六百年前の行者の名前や、その人生を資料から探るのは、困難であると思われた。

さあ、どうしようと、しばらく考えあぐねる日が続いた。そして、資料を読み込むなかで、ある僧侶の肖像画の写真が目にとまった。それは、天台宗の系譜の中で高僧と呼ばれる人たちを紹介するページで、当人を模した木像や肖像画の写真が説明文と共に一覧で並んでいた。多くの高僧たちの容貌が、キリリと険しい表情をしている中、一人だけ優しげな目と顔立ちをした人物がいるのだ。源信という平安時代の僧侶で、恵心僧都とも呼ばれ、『往生要集』を著したことでも知られている。

『これだ!』と、直感した。

恵心僧都の往生要集と言えば、私の学んだ日本史の教科書にも載っていたほどだ。その生涯の概要を知るのは、他の僧に比べればずっと容易であるだろう。そして何より、名前に関する共通点や、その容貌、特に目の下にホクロがある一致点に、強い親近感を覚えた。

また、恵心僧都が、修学と修行に専心するために籠った比叡山中の横川(よかわ)にある『花山院』(現在は主に恵心院と呼ばれている)という名称と、いま私が住んでいる家の屋号(当初、借りていた頃の大家さんが、借家以前に営業していた民宿の名として使用していたものを、譲ってもらった今もそのまま使わせてもらっている)が類似している点や、我が家のある村の名が、寺院の「大本堂」に通じる音であるのも、何がしかの縁であるように感じられた。

私は、『回峰行』というキーワードには当てはまらないものの、恵心僧都源信という人物を小説の主人公とすることに決めた。東京の大型書店などで恵心僧都に関連する資料を買いたし、ストーリーの構想を練る中で、その代表作である「往生要集」と、解説書も手に入れた。

往生要集は、仏典や経文を抜粋する形で、人々がどのように念仏を実践すれば極楽浄土に往生できるかを理論体系化したもので、日本浄土教の基礎を築いた一書とされている。また、日本人が抱く極楽(天国)と地獄の世界観に、大きく影響を与えたのも本書だと言われている。

極楽世界での楽しみと、地獄の惨状を描いた部分は、実は、念仏を推奨するための導入として記されたものである。しかし、これが図らずも後世の人々に、地獄に対する恐怖心を植え付けて行くことになった。

結果、人々に現世での悪行を抑制させ、善行を積ませる効果を生じさせたのではないかと推測される。これは、源信の本来の狙いとは異なるものの、輪廻転生を了解することで、世の中が少しでも良くなるのではないかという私の小説の目的と、まさに合致している。恵心僧都源信こそが、私の書く小説の主人公に相応しい人物であると確信するに至った。

1998年5月13日~16日   恵心僧都 取材の旅

奈良県香芝市  阿日寺

小説執筆の為、恵心僧都源信を取材する旅にでた。源信ゆかりの地を訪ね、彼がどのような場所で生まれ育ち、修行に明け暮れ、俗世に貢献していったのかを、この目で確認し、その土地の空気を肌で感じたかったのだ。

恵心僧都源信は、平安時代の中期に、大和国・当麻郷(奈良県香芝市)に生まれた。源信が生まれたとされる寺が今も残っていて、後年彼が母の為に刻んだとされる本尊の弥陀仏と、父の為に刻んだとされる大如来から一字ずつ取って、阿日寺と呼ばれている。

境内にある説明看板には、次のような由緒が書かれていた。
『当寺は今から約千年前に恵心僧都(九四二~一〇一七)がご誕生になった寺で誕生院阿日寺といいます。恵心僧都は源信僧都ともいい七高僧のお一人で念佛の始祖とも仰がれています。・・・』

そして、その中の「毎年七月十日に、『恵心僧都遠忌大法要』が、古くから取り行われている」という記述には感銘を受けた。源信の没年は、西暦1017年なので、かれこれ千年近くが経っている。人の一生が長くて百年ほどであることを思うと、その時の重みが、彼の残した業績の大きさを物語っているようである。

因みに、大法要の行なわれる日付は、私の誕生日に限りなく近い。

奈良・當麻寺〔練供養会〕

次に向かったのは、阿日寺から二キロメートルほど離れた當麻寺(たいまでら)である。今回の取材で、比叡山の横川と並ぶ重要な場所だ。

翌日の五月十四日には、聖衆来迎練供養会式(俗に『當麻寺のお練り』、または、縮めて『練供養』)と呼ばれる年に一度の行事があり、取材日もそれに合わせて設定していた。當麻寺は、阿弥陀如来の極楽浄土の世界を描いた本尊の當麻曼荼羅をはじめ、その堂塔及び仏像の多くが、国宝や重要文化財に指定される古刹である。

近鉄當麻寺駅で電車を降りると、寺までは一本道の参道となっている。東大門と呼ばれる仁王門をくぐると、広い境内に出る。右手にある娑婆堂と呼ばれる小屋から奥にある本堂の曼荼羅堂に掛けては、明日の練供養の重要な舞台装置となる木製の橋がすでに設置されていた。左手には、東西両塔の上層だけが、木立から顔を出すように優美な姿を見せている。

私は、境内の各御堂に参拝してから、最も山裾に近い奥院の宝物館へと向かった。時計を見ると、すでに夕方の五時になろうとしていたので、入館させてもらえるか少し心配だったが、受付で尋ねると、年配の女性がこころよく迎えてくれた。閉館間際ということもあり、館内に人影はない。大きな曼荼羅の図を拝していると、先の女性が説明をしに来てくれた。

金箔を付した小さな仏像が何体も並んでいるのを愛でていると、「これは、二十五菩薩来迎像と言って、私たちを極楽浄土に迎えてくださる菩薩様の姿を表したものです。明日の練供養では、菩薩講の人たちが、二十五菩薩の面と装束付けて、舞台の上を練り歩くんです」と説明してくれた。

この練供養は、恵心僧都が生まれ故郷の名刹である當麻寺の曼荼羅に帰依し、弥陀来迎の模様を実演するために、弥陀に従って来迎する二十五菩薩の面と装束を寄進したのにはじまると伝えられている。

翌日、練供養は午後四時からの開始だった。
開始までは時間がるので、私は當麻寺のすぐ裏・西側にある二上山に登り、反対の大阪側(飛鳥時代に王陵の谷と呼ばれた地域で、聖徳太子の御廟もある)まで行って戻って来た。

午後の三時に近づくと、境内にはすでに大勢の人が集まっていた。観覧に都合の良さそうな講堂の石垣の上に座って開始を待った。講堂は、本堂(曼荼羅堂)の中央から娑婆堂に掛けられた来迎橋と呼ばれる百二十メートル程の細長い舞台のすぐ脇にあり、二十五菩薩のお練りを見るには格好の場所である。

四時前になり、お練りが始まった。この日だけ極楽堂と呼ばれる本堂(曼荼羅堂)の中央から娑婆堂へと一直線に伸びた細い舞台の上を、黄金に輝く御面をかぶり、それぞれ色の異なる煌びやかな衣装に身を包んだ二十五の菩薩達が、黒紋付姿の介添え役に手をひかれて舞台の上をよちよちと歩いて行く。

聞くところによると、御面の目の所には五ミリほどの穴しか開いてないため、外がよく見えず、遠近感もとれないのだそうだ。そして、この舞台の主人公と言える観音菩薩が登場する。この菩薩様には、介添え人は付いていない。しかも、両手で小さな蓮台(仏様が座る台)を捧げ持ち、一歩ずつ腰をかがめて前進しては、前に出した足とは逆方向に連台を掲げて立ちあがるのだ。実に優美でダイナミックな動きである。他の菩薩面と同様の視界であるとすれば、来迎橋と呼ばれる幅一メートル半ほどの細長い舞台をあの所作で往復するのは、神業、いや仏業といえる。

観音菩薩の後には、やはり介添えのない勢至菩薩が合掌をした姿で同じ所作で続く。二十五菩薩が登場してからは、雅楽に代わって読経が行なわれ「南無阿弥陀、南無阿弥陀・・・」の念仏が境内に響き渡る。すべての菩薩様が娑婆堂に到着すると、読経は節回しを付けた声明へと代わる。

この練供養会のストーリーは、當麻寺のご本尊である曼荼羅を織り上げた中将姫の臨終に際し、二十五菩薩が来迎するという設定である。西側にある本堂を西方極楽浄土に、東側にある小屋のような娑婆堂を現世に見立てている。従って、宗教演劇として見るならば、二十五菩薩が中将姫を迎える娑婆堂の場面が、一つのクライマックスと言える。娑婆堂の中では、神輿の前で観音菩薩と勢至菩薩がしゃがんで向かい合っている。観音菩薩の持つ蓮台には、中将姫の小さな像が載せられ、それを勢至菩薩が撫でる所作を行なった。

極楽浄土への戻りは、観音菩薩が先頭に立ち、勢至菩薩とその他の菩薩達がそれに続く。境内には、高性能のスピーカーを通して、喜多郎の「シルクロード」が大音量で流れはじめた。NHKの番組テーマに使われたエキゾティックな曲で、来迎の場面ともマッチしており、終盤を盛り上げる演出効果としては最高である。シルクロードの東の終着点といえる奈良の寺院で聞くにも、相応しい選曲である。

この練供養会は、恵心僧都源信面や装束を寄進して、西暦1005年に始まったとされている。今、千年もの時が経とうとしているが、こうやってそれぞれの時代に創意工夫がなされ、今日まで受け継がれ、なお多くの人々に親しまれていることに感動を覚えた。千年もの時の流れを想うと、涙が溢れそうになった。

それをこらえて、私はそれまで座って写真を撮っていた講堂の石垣から、本堂に近い来迎橋のすぐそばへと移動した。行きと同じ所作を繰り返す観音菩薩の動きは、間近で見るとさらに迫力が増し、衣擦れの音と、その息遣いまでが聞こえてきそうだった。二十五菩薩と僧侶、稚児の列、そして、最後に神輿が通り過ぎて行った。この中に中将姫を迎えたという設定なのだろう。

折しもその時、極楽堂のすぐ上のうす曇りの空から、夕陽が射した。ちょうど先ほど下りてきた二上山の方角である。あまりにも完璧な演出! この山に沈む夕陽の時刻に合わせて、練供養会の日時が決められていることを了解した。
式が終わると、観衆は一斉に駅へと戻り始めた。私もその人ごみに混じって、宿への帰路についた。

比叡山〔横川〕

 翌朝、私はこの取材の第二の目的地である比叡山延暦寺へと向かった。延暦寺には、以前に訪れたことがあり、その中心を成す根本中堂をはじめ、主だった堂塔には参詣したことがある。比叡山内は南から北へ、東塔(とうどう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)という三つのエリアに分かれており、恵心僧都源信が修行に励んだのは、京の都から最も離れた最奥の地といってよい横川であった。

横川は、第三代天台座主となる慈覚大師円仁が、唐に渡る前の四十歳の頃に厳しい修行によって心身が衰弱し、余命いくばくもない状態となったときに、草庵を立てて隠棲したことにより開かれる。西塔よりさらに四キロも奥まった静寂の地に転地したことが功を奏し、しばらくして円仁大師の心身は回復する。今回は、その横川エリア内にある恵心院と僧都のお墓が、取材のメインである。

奈良から京都経由で湖西線の比叡坂本駅まで行き、ケーブルカーと比叡山内を走るシャトルバスを乗り継いで横川に着いたのは、午後の早い時間だった。

横川に来たのは二度目なので、風景や説明看板などには見覚えがあるが、今回は恵心僧都が過ごした千年前をイメージする必要がある。参道を通って、まず目に飛び込んでくるのは、石垣の上に舞台造りされた横川中堂の鮮やかな朱の建物だ。横川の中心となる本堂で、昭和十七年に雷によって焼失したものを、昭和四十六年に再建しているので、山中のお堂としてはごく新しい。横川中堂は、慈覚大師円仁が唐での求法の旅を終え、船で帰国する折に嵐に遭い、観世音菩薩加護を祈ったところ、嵐が鎮まり助かったので、その観音菩薩お祀りするお堂として建てられたのが始まりである。

中に入ると、暗がりの奥に御本尊聖観音立像を拝することができる。ほぼ等身大で人間味があり、ふくよかで優しげな印象である。幾度かの焼き討ちや、昭和の雷火から難を逃れた平安時代の御像なので、恵心僧都も拝した可能性が高い。私は手を合わせて、この横川の地に取材に来られたことに対して感謝を捧げ、説明書きにあった聖観世音菩薩の真言「おんあろりきゃそわか」を唱えた。千年前に、恵心僧都も唱えたであろう真言である。

中堂を後にして少し行くと鐘楼があり、そこを右に曲がって林道を百メートルほど進むと恵心堂の入口へと辿り着く。この辺りまで来ると、もう人影は見えない。そこに立つ説明看板には、次のように記されている。
        
『恵心僧都の旧跡で、藤原兼家が元三慈恵大師のために建立した寺です。門前に「極重悪人、無他方便唯称弥陀得生極楽」とあるように、念仏三昧の道場です。
恵心僧都は恵心院に籠り、仏道修行と多くの著述に専念され、有名な「往生要集」や「二十五昧式」「六道十界ノ図」「弥陀来迎の図」等を著し、浄土教の基礎を築かれました。
毎年六月十日のご命日には「二十五三昧式」の講式が唱えられ、僧都の報恩法要が営まれています。
付近都率谷墓地恵心廟があります。』

元三慈恵大師とは、恵心僧都の師に当たる慈恵大師良源のことで、第十八代天台座主となり、一時衰退した山中の諸堂の復興に努め、比叡山中興の祖といわれる高僧である。門前の石柱に書かれた言葉は、往生要集に記されているもので、「極重の悪人は他の方便なし。ただ弥陀を称し、極楽に生ずることを得る」と読み下す。

恵心堂は、丈六(一丈六尺=四、八五メートルの略で、座像ではその半分の大きさとなる)の阿弥陀如来を本尊とし、口には常に阿弥陀仏の名を唱え、心には常に阿弥陀仏を念じ、本尊の回りを歩き続けるための道場であった。この修行法を「常行三昧」、または、三昧中に仏が現前することから「仏立(ぶつりゅう)三昧」と呼ぶ。

恵心僧都は、若くして教学に秀で、村上天皇に召されて、宮中での法会の講師を務めるほどであった。その褒美として宮中より賜った絹織物などを、当麻郷の母に送ると、「世の人を渡せる橋と思いしに 世渡る僧となるぞ悲しき」と、諌めの和歌が返ってきたという。以来、世の栄達をいっさい捨て浄土教の研究実践執筆教化専心するために籠ったのが、恵心堂である。(見出し写真は、2008年再訪時の恵心堂。6月11日の恵心講に合わせた取材時に撮影)

敷地に入ると、穏やかな空気がながれ、心安らぐ感じがした。入り口から御堂までは、すこしカーブを描きながら綺麗に石畳が敷かれている。現在の恵心院の御堂は、とても小さい。門前の坂本里坊にあった別当大師堂を移して再建されたものだ。元は、丈六の阿弥陀如来が安置されていたのだから、もう少し規模は大きかったのだろう。資料の写真で見ていた通り、御堂前の左右にはモミジが植えられているが、今では二本とも、御堂を覆ってしまうほどに成長していた。

私が訪れたときには、御堂の扉は固く閉ざされており、中の様子をうかがい知ることは出来なかった。御堂に向かって左側には、比較的新しい平屋の庫裏(僧侶の住居場所)と思われる建物があり、使われている様子ではあったが、その時は人気(ひとけ)が感じられなかった。

私はゆっくりと御堂の周りを見て歩いた。お堂の裏の林の中に星霜を経た小さな石像がひっそりと祀られていた。聖徳太子の御像のようである。聖徳太子は、恵心僧都が幼少を過ごした當麻郷の東、飛鳥の地に生まれ、政治に携わる中で、仏教を深く信仰して興隆させた人物である。ふる里の大和、そして仏道での先人でもある太子に対して、敬愛の念を持って、御像を拝していたのではなかろうか。太子の廟が、二上山の西、飛鳥時代の王陵の谷と呼ばれる地域にあることに倣って、御堂の西側に石像をお祀りしたのかもしれない。(因みに、私は小学校の夏休みの課題で、聖徳太子を研究した)

他には、かつて水が流れていたような跡もあった。千年前には、勿論水道がなかったので、生活用水を確保できる場所に御堂が建てられたはずである

また、ネイチャーガイドという職業柄、私はどうしても周囲の木々や草花に目が留まる。たとえ花が終わってしまっていても、葉や形状を見れば種類の見分けがつく。ショウジョウバカマ、ギボウシ、サギゴケ、クマザサと、我が家の庭にある草花と同じものが多いのに驚いた。信州北端の山里にある我が家に比べると、比叡山は緯度的に低いが、冬には雪が積もるので、似た植生となるのであろう。

後日調べてみると、横川と私が住む山里の標高は、共に六百メートル強と、ほぼ同じであった。私は千年前の山の暮らしをイメージしながら、深くその場の空気を吸い込んだ。恵心僧都に関する諸々のことがらと、現在の自身の環境との符合に、ただならぬ縁を感じた。
 
 次なる目的地は、恵心僧都源信の墓である恵心廟である。横川中堂から恵心院に掛けての道は、参詣道として整備されているが、さらに南下していく道は、ほぼ林道と言ってよい風情である。ここはまた、千日回峰行者が山内の堂塔を巡って礼拝するための道でもある。

恵心院までは案内看板が出ていたが、恵心廟に関しては全く案内がない。山内で得た簡易のマップにも、その所在が記されていない。あとは手持ちの資料の中にある小さな概略図をもとに探すしかない。林道を南下してしばらくすると、右手に御墓が見えたが、近づいて見ると、それは他の僧侶のものだった。脇道もあり、そちらかと思って行き来したが、どうも違うようだ。さらに林道を進むと、右手に大きな杉の木があり、石の階段をはさんで石碑が立っていた。「惠心僧都御墓」とある。ようやく見つけた。

長い急な石段で、両側は杉並木となっている。御墓自体は写真で見ていたが、このような立派な参道まであるとは思っていなかった。御墓は、琵琶湖側を見下ろす高台の見晴らしの良い場所にあった。比叡山内でも一等地の御墓と言えそうな立地だ。このことからも、恵心僧都が残した業績の大きさがうかがえる。

御墓の前には身の丈ほどの小さな石の鳥居がある。墓碑は四角く細長い棒状の上に、傘状の石が載っていて、愛らしい感じである。その回りに石の玉垣があり、左右の灯篭も備えた立派なものだ。辺りを見回すと、横川で修行をした僧侶たちの墓が多数見受けられた。そこは、恵心僧都の墓を中心とした、横川の霊園的な場所となっていた。

私は、自身の小説の主人公となる人物に対して手を合わせ、書かせて頂くことに対して感謝の想いをこめて報告した。その時、私の頭に浮かんだのは、今回の小説のテーマである「輪廻転生」ということを前提とすると、例えば自分の先祖代々のお墓をお参りするとき、その果てしない系譜の中に自身が含まれている可能性もあるということである。自身で自分の墓をお参りすることは、誰にでも起こりうることなのだ。私は奇妙な感覚を抱きつつ、恵心僧都源信の陵墓を後にした。

比叡山 無動寺 〔千日回峰行の拠点〕

私はその後、恵心僧都の師である慈恵大師良源の住房であった四季講堂と、その御廟にお参りをし、横川の地を離れた。山内のシャトルバスでケーブルカーの延暦寺駅に戻ると、まだ陽も高かったので、現在の千日回峰行の拠点となっている無動寺谷にも行ってみることにした。

1年前、大天神社にお参りしたとき、暗闇の木の根道で既視感として浮かんだのは、『回峰行』という言葉である。小説の主人公は、恵心僧都源信に設定したものの、私の実際の前世となると、この無動寺谷で行われている回峰行に関わった可能性がある。

駅舎のすぐ横に、『無動寺参道』と大きく書かれた石碑と、弁天堂の鳥居があり、そこをくぐると、舗装された急な下り坂となる。本堂の明王堂までは数百メートルの距離だが、次のケーブルが発車する三十分ほどの限られた時間しかないので、私は坂道を駆け下りるように速足で歩いた。

実際の回峰行においても、一日の歩行距離が長いので、行者は速足や小走りとなって諸堂を巡っているので、擬似体験をさせて貰っているような気分となる。途中、神社の手水舎に似た閼伽井(あかい)と呼ばれる清水を汲む場所がある。無動寺の本堂である明王堂の御本尊・不動明王に御供えする功徳水を汲む井戸である。

そこから少し下ると明王堂に辿り着く。ここは比叡山中の北端に位置する恵心僧都の修行の地、横川と対をなす南端のエリアである。明王堂は、開けた見晴らしの良い場所に立っていた。小さなお堂であるが、建物の外観も、そして、そこから漂う雰囲気にも厳格さが感じられる。ここは、千日回峰行の七百日を終えた行者が、九日間、断食・断水・不眠・不臥で不動明王の真言を唱え続ける、まさに生死をまたぐ荒行が行われる場所なのだ。この「堂入り」と呼ばれる節目の行を終えると、行者は不動明王の化身となり、「阿闍梨(あじゃり)」と称され、それまでの比叡山内における自身の為の行から、さらに山を下りて京の市中をも回る、衆生済度の為の行へと変わっていく。御堂の入口の戸は閉ざされていたので、私は外から、この回峰行の聖地に来られたことに対する感謝を捧げ、来た道を急ぎ駅へと戻った。

西教寺〔門前町・坂本〕

この日は、比叡山麓の門前町、坂本にある西教寺内のユースホステルに泊まることにしていた。西教寺も恵心僧都に縁のある寺であり、ケーブルの坂本駅から歩いて行けるということもあって、宿泊を決めた。

駅からは、比叡山麓の道を北へと歩いて行く。高台の道は、右手に琵琶湖が見え、快適である。一キロメートルほど行くと、西教寺の山門があり、参道を通って広い敷地に入ると、ユースホステルがあった。予想とは異なり、鉄筋の立派な建物である。その日は、泊まり客も少なく、相部屋とはならずに、ゆっくりと泊まることができた。

翌朝、六時半から朝のお勤めに参加した。自由参加ではあるが、寺院内で宿泊したのだから、当然のごとくに思った。この西教寺は、聖徳太子建立と伝えられ、一時衰退著しかったが、比叡山から恵心僧都の師である慈恵大師良源、そして僧都自身も入寺して復興に努めた。

現在は、天台真盛宗の総本山となっており、恵心僧都が修行をしてから四百年を経た戦国時代の乱世の頃に、やはり比叡山から入寺した真盛上人が宗祖となっている。真盛上人は、恵心僧都源信が著した「往生要集」に感銘を受け、西教寺を不断念仏(特定の日時を決めて、昼夜間断なく念仏を唱える修行)の根本道場としたのだ。

ところで、この真盛上人の肖像画が、手持ちの資料に載っているのだが、その御顔にそっくりの知人が私には居るのだ。最初にその肖像画を見たとき、あまりにも似ているので、本当にビックリした。その知人、Yさんに初めて会ったのは、私が東京の会社を辞めて、あてどなく出かけた日本最南端に近い竹富島の民宿だった。Yさんは、私の出身地である神戸の在住で、旅が終わった後、信州の我が家に遊びに来たこともある。以来、20数年間、神戸のビワと、信州のブルーベリーを、贈り合う仲となった。

飯室谷 不動堂 〔酒井雄哉大阿闍梨のお堂〕

さて、西教寺での朝のお勤めといっても、こちらは御本尊の丈六の阿弥陀如来の前に座って、御経や法話を聞くのみである。
朝食を頂いた後、チェックアウトして、そこから約一キロメートルほど北にある飯室谷 不動堂まで足を伸ばした。ここは、千日回峰行を、二度も成し遂げた酒井雄哉大阿闍梨が住する御堂である。二千日満行した僧侶は、比叡山の長い歴史の中でも、わずか三人しか達成していないという偉業である。

酒井阿闍梨は、三十九歳にして出家し、一回目の回峰行に挑み始めたのは、なんと四十七歳のときである。現在の千日回峰行の本流は、前日訪れた東塔の無動寺を中心とする流れであるが、酒井阿闍梨は、長く途絶えていた横川を拠点とする回峰行復活させた人でもある。横川ルートは、一日に歩く距離が実質的に長くなり、それを二千日満行し、生死を跨ぐような堂入りも二回行なったわけであるから、一般人からすると、超人的といわざるを得ない。

飯室谷 不動堂に着くと、入り口の所に掲示板があり、そこに「比叡山日報」という新聞が貼ってあった。そこには、酒井雄哉大阿闍梨弟子である藤波源信という僧が、横川拠点とする千日回峰行に挑んでいることが書かれていた。関東圏に住んでいると、回峰行に関するニュースが少ないので、現在進行形で行に取り組んでおられる方がいることが、とても新鮮に感じられた。

そして、横川恵心僧都源信取材に来て、同じ横川に属する飯室谷の『源信』という名の僧侶が、『回峰行』を行なっていることを偶然に知ったことにも、縁(えにし)を感じた。

私がこの飯室谷 不動堂に来るには、横川から比叡山内を南下し、山麓の坂本までケーブルで下り、さらに二キロほど北上して、コの字型に移動してきたが、実は横川恵心廟からは、1㎞ 程しか離れていない場所なのだ。

堅田の浮御堂 〔近江八景〕

この取材の締めくくりは、横川の北西、琵琶湖畔に建つ堅田の浮御堂へと向かった。JR湖西線の比叡山坂本駅まで歩いて戻り、ふた駅先の堅田まで電車に乗っていった。堅田は、近江八景の一つ(堅田の落雁)にも選ばれる景勝地で、そこに建つ浮御堂は、恵心僧都自ら一千体の阿弥陀仏を刻んで湖上通船の安全と衆生済度を発願したことに始まるとされている。僧都は、山上から琵琶湖を行き来する船や漁船、庶民の暮らす町を眺めて、市井の人々のために何かをしたいと思われたのだろう。

満月寺と書かれた唐風の楼門をくぐると、観音堂があり、平安時代作聖観音座像がお祀りされている。大きさや、立像、座像の違いはあるが、横川の御本尊と同じ、聖観世音菩薩である。私は、その真言である「おんあろりきゃそわか」を唱えて、お参りをさせて頂いた。

浮御堂は、その名のごとく琵琶湖の湖上に建てられており、そこに短い橋が渡されている。御堂は、横川の恵心院ほどの小さなものだ。中には小さな金色の阿弥陀像が整然かつ所せましと祀られている。私はいつものごとく、その場に来られたことに感謝を捧げてから、御堂の裏へと回り込んだ。眼前に、雄大な琵琶湖の風景が広がった。

ハワイのヒプノセラピーで、もう一つの『過去生』に出会う。2006年12月13日~19日

ハワイ〔ホノルル〕

この頃、私の仕事はネイチャーガイドという自然案内業から、森林セラピーという森を使ったメンタルヘルスケア へとシフトしていた。カウンセラーの資格も取得し、森林を散策しながらのマン・ツー・マンセッションは、特にメンタルヘルスを必要とするクライアントに対して、自身の予測を超えるほどの効果を上げていた。
主に信越高原妙高戸隠連山国立公園〕の森でセッションを行なっていたが、日本からの旅行者が多く転地効果も高い癒しの島ハワイでも、セラピーができないかと考えていた。

インターネットでハワイの情報を検索すると、日本人旅行者向けの日本語でのトレッキングやガイドツアーが、数多く実施されていたので、実際に現地に行ってその動向を調べてみることにした。

ハワイというと、海辺のリゾートばかりに目が行きがちであるが、実は森や滝を巡るトレッキングコース豊富にあるのだ。私は、まずハワイの植物やトレッキングコースに関する本を買いそろえた。そして、テレビで日本のクルーを案内していた現地ガイドにアポイントを取り、彼が企画しているトレッキング・プログラムに参加することにした。

クリスマス前のオフシーズンなので、ハワイへのツアー料金は最安値に近いものだったが、出来れば仕事をからめたかったので、アウトドア雑誌に、オアフ島でのトレッキングということで企画を出したのだが、最終の段階でOKが貰えなかった。

私は、ただ森林セラピーの可能性があるかどうかだけをチェックするのではもったいないので、その他に何か出来ることはないかを探っていた。フリーランスで仕事をしていると、一つのことをやるにしても、何か他のことにも活用出来はしまいかと考えるのが習い性となる。

インターネットで、さまざまな現地情報を調べていると、海外旅行ガイドブックを出版している会社の現地スタッフによる体験記事が目にとまった。それは『ヒプノセラピー』、日本語でいうと『前世療法』を、スタッフが何度か受け、その体験を詳細に記事にするという、体当たり的というか、かなり個人のプライバシーを犠牲にした大胆な企画だった。

私自身、小説を書くためということもあり、前世療法に関しては、関連書籍も数多く購入して読み、テープを使った自己催眠にもトライしたことがある。セラピストによるセッションも、興味があってかなり調べていた。その頃は、セッションを行なっている人も現在のように、むやみやたらに多くなく、信頼できそうなセラピストも見つけていたが、セッションを実際に受けるまでには至らなかった。

今回は、セッションの流れがインターネットのサイトでほぼ確認できた安心感があり、そこに海外という非日常性も加わって、ヒプノセラピーを受けてみようという気になった。

また、セラピストは日本人の女性で、かつ日本人向けにセッションを行なっていたので、森林セラピーのリサーチにも持って来いである。そして、恵心僧都モデルとした小説自体はすでに書き終わっていたものの、大天神社でデジャヴュ(既視感)として得た『回峰行』という言葉に関する前世の手がかりが、つかめるかもしれないと思った。

ヒプノセラピーのセッションは、トレッキングツアーに参加した翌日からの二日間にわたって、両日とも午後の一時半に予約を取っていた。初日、ワイキキからダウンタウンまでバスを乗り継ぎ、そこにあるチャイナタウンで早めの昼食を取った。

チャイナタウンから歩いて程近くに、目指すビルはあった。下から見上げると、ミラーガラスに覆われた壁面は、巨大なキャンバスとなり、南国の青空と、そこに漂う白い雲を映し出していた。

宅配ピザの配達員と乗り合わせたエレベーターを十二階で降り、部屋番号をひとつひとつ確認していく。重厚感のあるこげ茶色のドアに、小さな金のプレートがはめ込まれ、そこに、目的のオフィス名が記された部屋を見つけた。呼び鈴のブザーを押してしばらくすると、ドアが細く開いた。
「Aさんですか?」
「はい」
小柄な女性が笑みを浮かべ、「はじめまして、Uです。どうぞお入りください」といって握手で迎え入れてくれた。

女性の顔は、インターネットのホームページで何度も目にしていた。小さな顔に比して、すべてを透徹するような黒い瞳は大きく、眉や顎先には強い意志が感じられた。黒髪をやや茶に染めたショートカットが、ボーイッシュな印象を持たせる。

彼女の後に従い、社長室にあるような大きな机が占める小部屋を通って、奥のセラピールームに入った。部屋の写真もインターネットで幾度となく見ていたので、中に入っても初めてという気がしなかった。ただ、部屋に入った正面の壁が全面ガラスになっていて、ダウンタウンのオフィス街を見渡す眺めは新鮮だった。

「そちらにどうぞ」彼女は、壁際にあるベージュのソファを手で示し、「いまハーブティーをいれますから」といって、通り抜けてきた部屋へと戻っていった。程なくして、彼女はハーブにお湯を注いだガラスポットと、ティーカップを二つ持ってきて、私の前のテーブルにおき、自身も対面する一人掛けのソファに座った。

「こちらにはいつ来られたんですか?」
彼女は、ハーブティーを小さな白磁のカップに注いだ。
「おとといです」
「時差は取れました?」
「いえ、まだ慣れないですね。朝早くに目が覚めてしまいます」
「・・どうぞ、ハーブティー、飲んでくださいね」
私は勧められるままに、ハーブティーを口にし、しばし味わってから「カモミールと、レモングラスですか?」と聞いた。
「よくお分かりですね」
「以前、健康茶をつくる会社で、新商品開発をしてたことがあるんです」
「それじゃあ、ご専門ですね」彼女は笑いながらいった。
「ええ、まあ」私は、ビルに吹き付ける強風の音に引かれて、大きな窓の方に目をやった。先ほどまで広がっていた青空に、分厚い灰色の雲が、山側から吹く風に乗って流されてきた。
「ここ何日かは、ずっとこんな天気なんですよ。風が強くて、晴れていても急に、にわか雨が降りだしたり・・・せっかくハワイにいらしたのに、あいにくの天気ですね」
「いえ、私の住んでいる信州では、もう雪が降るような季節ですから、けっこう南国気分を満喫してますよ」と、私は笑いながらいった。
「雪ですか~、もうしばらく見てないなー」
「先生は、ご出身は?」
「東京ですけど、こちらの大学を出てからは、ほとんどずっとこっちです」
 私はもう一度、窓の方に目をやった。雲が風に乗り、にわか雨が降ったりやんだりしている。
「・・・・それで、今回はどういったことで、こちらに来られたんですか?」頃合いをみて、彼女が切り出した。
「ええ、・・いくつか目的があるんですが、ひとつには、私は森の中でカウンセリングをする森林セラピーというのを仕事にしていて、今後、信州の森だけでなく、癒しの島ハワイでもできないかと思い、視察を兼ねてという部分があります。こちらは、日本から来るクライアントを対象に、日本語で対応されていますよね・・・そのあたりを参考にさせて頂こうと思ったのが一つ・・」

彼女が軽くうなずいたので、私は話を続けた。
「それから、もうひとつの目的は、私は本を書いたり、雑誌に原稿を書いたりする物書きでもあるんですけど、何年か前に、人が輪廻転生することを了解できれば多くの人が癒しを得られるんじゃないかと考えて、小説を書いたことがあるんです・・・例えば、とても親しい身近な人や、愛する人を失った人たちも、死んでしまったら二度と会えないというんじゃなくて、幾度もこの世に転生し、近しい間柄で過ごすこともありうるんだと分かったら、どれだけ救われるかと考えたんです」
「そうですね」彼女は大きくうなずいた。
「そのとき、小説を書くにしても、完全なフィクションよりも、真実をベースにしたほうが読者に伝わりやすいと思い、真剣に自分の前世を模索したんです」
「それで、見つけだせましたか?」
比叡山で修行をしていたというヒントだけは、見つけ出せました」
「それは、退行催眠でですか?」
「いえ、・・前世を知ろうと、夢日記を書いたり、自己催眠など、さまざまなことをやって模索してたある日、小さな神社の杉並木で、ひとつの言葉がインスピレーションとして浮かんだんです・・・『回峰行』と」
「かいほうぎょう?」
「回峰行というのは、比叡山の峰々を毎日毎日、長い距離を歩く修行のことです。その小さな神社に行った日は、朝から不思議なことばかりあったんですが、そこに導かれるようにお参りに行ったのは、もう暗くなってからのことで、懐中電灯を持って木の根道になっている杉並木を戻るときに、ふと『回峰行』という言葉が浮かび、その瞬間、背にした神社から後頭部を通してグワーンというものすごく強いエネルギーを感じたんです」
「デジャビュの一種ですね」
「そうです。回峰行は夜明け前の暗い時間から歩き始めますから、暗い杉並木の木の根道が、過去生での記憶をよみがえらせたんだと思います」
「それから、どうされたんですか?」
「とりあえず、回峰行のことをいろいろ調べてみたんですが、なかなかこれという人物に行きあたりませんでした。比叡山は、焼き討ちにあったりしているので、資料も充分に残ってないんです。そこで、手持ちの資料の中に載っていたある高僧を、小説主人公にしたんです」
「どうしてその僧侶を、主人公にしたんですか?」
「一つは、著名な高僧なので、その人生のおおよそを資料などから知ることができたということと、比叡山にも取材に行ったんですが、彼が住んでいた環境と、いま私が住んでいる信州の環境とがとても似ていたり、名前の一字が共通したりと、符合する点が多く、親しみが持てたからです」

彼女が、なるほどというように、うなずいたので、話を続ける。
「過去生において、比叡山修行をしていたことには確信を持ってるんですが、それがどういうものだったかを詳しく知りたくて、今回先生のセッションを受けに来たんです」

「・・ありがとうございます。よく分かりました・・・Aさんは、ヒプノセラピーは初めてなんですね?」
「はい」
「それでは、これからセッションを、今日と明日の二日間、前半と後半の二つに分けて行います。前半は、まずヒプノセラピーに慣れてもらうセッション。後半は、本格的な前世療法に入ります」
「よろしくお願いします」
「Aさんもカウンセラーなので、あえて細かく言いませんが、セッションでお話いただいた内容は、もちろん守秘義務によって守られます。」彼女が微笑みながら言うので、普段とは逆の立場にいる私も苦笑いを返した。

「それでは、まず、こちらに寝ていただけますか」彼女が、部屋の中央に置かれた黒い大きな寝椅子を指し示したので、私はソファから立ち上がって移動する。
「とても寝心地がいいですね」
「二週間前に変えたばかりなんですよ。わざわざイタリアから取り寄せたんです」
彼女は、壁際に置かれたミニコンポを操作して、小さな音でヒーリング・ミュージックを部屋に流した。
「どうですか? もし、気に入らなければ、ほかのにチェンジしますが」
ヒーリング系のニュアンスが強い曲想だったので、私はほかの曲に変えてもらうように頼んだ。
「これはどうです?」
「先ほどのよりは、シックリきますね」
「こちらの方が、少し仏教的な感じで、ちょうどいいかもしれませんね」彼女が微笑みながら言うので、私も笑いながら「そうですね」と答えた。
「お手洗いは大丈夫ですか?」彼女が笑顔で聞いてくれる。「よく、我慢をされている人がいるので」
「そうですね、始まる前に行っておきます」
「隣の部屋の正面が、トイレです。ドアのカギが壊れているので、そのままにしてください」

トイレから戻ると、彼女はすでに寝椅子の傍らに立ち、準備万端整えて待っていたので、私もすぐに定位置に着いた。
「これから私が誘導していきますが、肩の力を抜いて、リラックスしてください。そして、頭に浮かんだ言葉があったら、子どものように深く考えず、ポンポンと口に出してください。一つ口に出すと、そこから次々に広がっていきますから」そう言いながら、横になっている私の体に、薄いブランケットを掛けてくれた。
「それでは、軽く目を瞑ってください・・そして、ゆっくりとした呼吸をしてください・・・・息を吐くときは、口をうっすらと開けて、ほそーい糸を長く吹き出すようにしてください・・・・・息を吸うときは、鼻からゆっくりと楽に吸ってください・・・・・肩の力を抜いて、ゆっくりと、何度もくり返してください・・・」

私は言われるとおりに、呼吸に意識を集中した。呼吸法は、やり方は少し違うものの森林セラピーでいつもクライエントに指導し、森の中で一緒に行なっているので、お手の物である。彼女の穏やかだが、意志の強さが感じられる声で指示が続く。
「今度は、息を吐くときに、Aさんの体の中に溜まった緊張やストレス、ネガティブな感情などが、一緒に体の外に出て行くようにイメージしてください」
部屋に流れる静かなヒーリング・ミュージックの効果とあいまって、私は心身ともにリラックスしてきたが、思考は明晰なままである。
「暖かで穏やかなリラクセーションの波が、Aさんの体を優しく包みます・・・・・Aさんは、柔らかな繭に包まれ、恐れや不安をまったく感じません」

彼女は、大きな寝椅子のまわりをゆっくりと回りながら、ワンフレーズずつ区切るように、ゆったりとした口調で指示を出し続ける。
「Aさんの目の前に、らせん状に下りていく、白い美しい階段をイメージしてみてください・・・・・イメージできましたか?」
「はい」
「それでは、ゆっくりとその階段を下りていってください・・・ゆっくりと・・・一歩ずつ・・・・・・階段の終わりには、白い扉があります・・・・・その扉を開いて、中へ踏み出してください・・・そこは、Aさんが、かつて比叡山で僧侶だった場所です」

退行催眠の誘導の仕方も、私が本で学び、自己催眠に使っていたものとほぼ同じであった。相変わらず、私の意識はハッキリとしたままである。
「まわりには、どんなものが見えますか?」
私は答えあぐねた。何か頭の中に、イメージやビジョンが浮かんでくる訳ではなかった。意識はクリアなままである。
しばらく指示が途切れたが、彼女は寝椅子のまわりを回り続け、ときどき咳き込んだ。

沈黙が気まずくなり、私は意を決して口を開いた。
「森に囲まれた小さなお堂があります」
比叡山の横川、恵心堂のことである。
「そのお堂は何をするお堂ですか?」
「修行をするためのものです・・・仏様のまわりを、念仏を唱えながらぐるぐると回って歩く修行です」

方向性さえ決めてしまえば、楽なものである。恵心僧都と比叡山に関しては資料を読み込み、現地で取材し、小説まで書き上げているのだから。
「そのほかには、何か建物はありますか?」
「・・・お堂のすぐ近くに、やはりとても小さな住居があります」
「ほかに人はいますか?」
「・・・若い僧侶が一人います」
「その僧侶は、何をする人ですか?」
「食事を作ったり、私の身の回りの世話をする僧侶です」
「・・・その若い僧侶は、今生においてAさんの近くにいる人ですか?」
「・・・・・私の娘です・・・」
この設定も、輪廻転生をテーマとした小説内と同じものである。
「まわりには、ほかに何が見えますか?」
「・・・お堂の正面の木の間越しに、遠く琵琶湖が見えます」
彼女は、ゆっくりと私の回りを歩きながら、少し指示の間をおいた。
「比叡山の僧侶だったときの人生から、学んだことは何ですか?」
「・・・・・・・・極楽浄土へ人々を導く方法を研究し、それを本に書いたり、信者に伝えたりできたこと総べてが学びでした」
「・・・わかりました・・ありがとうございます・・・」そう言ってから、少し間を置き、より強い調子で続ける。
「Aさんの過去生が素晴らしくなる・・・。そして、今の人生も素晴らしくなる・・・・・。これから三つ数えると、Aさんの意識が今へと戻ります・・・一・・、二・・、三・・・、それでは、ゆっくりと目を開けてください」

彼女の微笑を浮かべた顔が目に飛び込んできた。
「大丈夫ですか?」
「はい」
「それじゃあ、もう一度ソファの方へどうぞ。ハーブティーを、淹れてきますね」
彼女は、隣の部屋に行って、暖かいハーブティーを淹れなおして持ってきてくれた。
「今の前半のセッションの目的は、まず、ヒプノセラピーがどんなものかを体験して頂く意味と、もし、前世に戻れた場合は、次のセッションで、それをよりハッキリと見たくなるという動機付けの意味があるんですが、いかがでしたか?」
「うーん、・・・私の場合は、現地に取材に行ったことがあり、それをもとに小説も書いているので、実際に退行しているのか、それとも、自分の記憶を基にしているのかが、はっきり分からないんです」
「私も、少しその部分を感じてました。本当はセッションを受けてから、現地に行かれると良かったんですが」彼女は、笑いながら続けた。「明日、後半のセッションを行いますが、このまま比叡山の僧侶時代にもう一度戻りますか? それとも、別の選択をしてもかまわないんですが」
私は、少し考えた。
「そうですねー・・・おなじことを繰り返したくないし・・、別の前世にしてみようと思います」
「どのような前世にしますか? 一般的に、初めてのセッションの場合、あまり苦しんだ前世ではなく、楽しいことが多かったり、豊かであった前世にすることが多いんですが、指示の仕方でどのようにでもなります。どうしましょう?」
「・・・・・だいぶ前のことなんですが、ある方の講演を聴いていたときに、その方が講演中に、チベット仏教で僧侶が使うチベットベルを鳴らされたんです。そのとき、脳裏に、パッと、ポタラ宮が映像としてクッキリと浮かんで来たんです」
「ポタラ宮というと?」
「チベットのラサにある宮殿で、亡命以前にダライ・ラマが居城とした場所で、チベット仏教聖地です」
チベット関わる前世があったんでしょうね」
「かなりハッキリとした映像だったので、きっとそうだと思います」
「それでは明日は、『Aさんがチベットで生きていた時の前世』でやってみましょうか?」
「そうですね。それでお願いします」
「明日の午前中は、できればホテルでゆっくり過ごし、特に瞑想などされると良いですね」とアドバイスをもらい、その日のセッションを終えた。

予想していなかった展開だが、自身の未知の部分に対する興味が膨らんできた。ちなみに、チベット仏教では、チベット国土人民は、観音菩薩により教化されるべき世界衆生位置づけられ、その最高指導者であるダライ・ラマは、観音菩薩化身として、代々その生まれ変わりの者(ダライ・ラマが没すると、僧たちの予言に基づいて、その生まれ変わりの子供が探される。候補となった子供は、先代の持ち物に愛着を示すかどうか、それを使うときに先代と同じクセを持つかどうかなどを頼りに認定される。現在のダライ・ラマは、十四世)が世襲する制度となっている。また、現在のダライ・ラマが亡命するまで、その居城となっていた「ポタラ宮」の名は、観音菩薩が住むとされる『補陀落』のサンスクリット名ポタラカ』に由来している。

翌日も、同じ時間にオフィスを訪ねた。外は強風が続き、晴れては急に雨が降り出したりと、相変わらずの天気だったが、まずはソファに座り、ハーブティーを頂いた。
「今日の午前中は、ホテルでゆっくり過ごされましたか?」
「あっ、いえ、すいません」
「観光に出てしまったんですね」彼女は、少し、たしなめるような口調で苦笑いをした。
実は、午前中はダウンタウンに近いフォスター植物園に行き、そこで森林セラピーができるかどうかの下見をしていたのだ。私は、トレッキングやセラピー以外の時間は、フィールドの調査に時間を費やしていた。一瞬説明をしようとも思ったが、そのままにして、昨日の続きのセッションに入った。

音楽は昨日のものと同じでいいかと聞かれたので、そのままでと答える。
薄いブランケットを掛けてもらい、後半のセッションがスタートした。
「名前はいえませんけど、ここにはよく俳優さんや、女優さんがいらっしゃるんです。そして、彼らはとてもスムーズに退行催眠に入っていかれるんですね。仕事柄、何かに成りきるということに慣れてるからなんです。Aさんも、ここに座ったら、まな板の鯉のようになって、ぜひ彼らのように成りきってくださいね」
「まな板の鯉ですね。分かりました」私は苦笑いをしながら答えた。

昨日の最初の段階から感じていたことだが、ヒプノセラピーを受けに来るクライアントの多くは、たぶん若い女性で、私のような中年男性が来ることは、少ないのではないだろうか。そして、若い女性の方が、傾向としてスムーズに退行催眠に入れるのではないだろうか。今の前置きを聞くと、そのような懸念が、彼女の頭の隅にあるのではないかと感じられた。

「それでは、始めます。心の準備はいいですか?」
「はい」私は体を微妙に動かし、寝椅子に最もフィットする位置をさぐった。彼女の顔を見ると、ソファで話していたときの絶えず笑顔をたたえた柔和な表情とは打って変わって、どこか男性的な威厳にみちた顔に変化していた。昨日のセッションのときの表情と比べても、明らかに気合のレベルが違っていた。
「それでは目を瞑って、ゆっくりと、深い呼吸をしてください・・・。完全にリラックスするまで、何度も繰り返してください・・・・」声色も、表情の変化にともなって重々しいものに変わっている。
「息をするごとに、Aさんの右手が、だんだんと重くなっていきます・・・・・・・・・・・右手が完全に重くなったら、次は左手が重くなってきます・・・・・・・・・今度は右足が重くなってきました・・・・・・・・・・・最後は左足も重くなり、Aさんの手足はずっしりと重くなって、完全にリラックスしてきました」

その日の導入は、自律訓練法といって、ドイツの精神医学者が開発した、暗示によって心身をリラックスさせる方法だった。森林セラピーに活用するためにCDを買い、実際に試していたので、私自身、慣れ親しんだ方法である。
「Aさんの体はどんどん小さくなっていき、子どものころに戻っていきます・・・・・小学生の頃まで戻りました・・・・・・・もっと小さくなっていきます・・・・・・・お母さんの胸に抱かれるまで小さくなりました・・・お母さんを呼んでみてください」
私は少し恥ずかしさを感じたが、退行催眠を始める前に、俳優や女優の話を聞かされたので、それに応えるべく声を発した。
「おかあちゃん」
神戸に住んでいたころ、私たち兄弟は母親をそう呼んでいたので、意識して、そう答えた。
「お母さんの胸に抱かれてどんな感じですか?」
「・・・とても温かで、優しく守られている感じです」
私は、幼いころ母親の胸に抱かれ、目の前にぶら下がっているネックレスをいじくっては壊し、よく怒られたことを思い出していた。
「Aさんの体は、さらに小さくなって、お母さんの子宮の中まで戻りました・・・・・暖かく、完全に守られ、とてもリラックスしています」

「さらに前世へと戻り、チベットに生きていた人生へと戻っていきます」
 しばらく指示が途切れ、沈黙が支配した。

「まず、足元に目をやってください。何か履いていますか? それとも裸足ですか?」
「・・・・・・・黒いゴムのサンダルのようなものを履いています」
ハッキリと見えたわけではないが、なんとなくそんな感じがしたので、そう答えた。
「どんな洋服を着ていますか?」
「・・・・・・・・・灰色がかった黒っぽい服です・・・」
思い浮かんだことを即答するようにと言われていたので、頭に浮かんだイメージをそのまま答えた。
「年齢はいくつですか?」
「・・・う~ん、三十代の中頃、・・いや、後半かな」
「目の色は、何色ですか?」
「・・・黒、いや、灰色かな」
「その他に、特徴はありますか?」
「・・・・・ほっそりとして背が高く・・肌はやや黒っぽい・・・頭は剃っているようです」
「年代としては、いつ頃ですか? 思い浮かんだ数字を直感で答えてください」
「・・・3・・3・・・9・・?」
「三百三十九年ですね。それでは、あなたの名前は何というのですか?」

これには少し困った。なんとなく思い浮かんだイメージを答えるのとは訳が違う。私が考え込んでいる間、彼女は、私が寝ている椅子を中心にゆっくりと時計回りに歩きはじめた。しばらくして、『サミー』という名前が浮かんできたが、アメリカ人にはふさわしい気がするが、チベット人には似つかわしいとは思えないので、声に出すのをためらった。

その後、いくら考えても他の名前は浮かんでこない。だんだん聞かれたことに答えなければならないという焦りの気持ちが芽生えてきた。
「あなたの名前は、何というのですか?」
彼女の再度の問いに、何か言わなければという気持ちがさらにつのり、「サミーです」と答えた。
「では、サミーさん、あなたはどんな家に住んでいますか?」
「・・・・・四角い土壁でできた家で・・・、中は真っ暗で、小さな部屋がひとつあるだけです」
窓も入り口の戸も無い天井の低い土間だけの原始的な建物が浮かんだので、そう答えた。
「部屋の中には何がありますか?」
「・・まったく・・何もありません」
「部屋の中には、誰かほかの人がいますか?」
「・・・・・いいえ・・、私一人です」
「サミーさんは、何の仕事をしてるんですか?」

仕事? この質問にも困った。そもそも、これまでの質問に対しても、個々にハッキリとしたイメージや映像が浮かんできたわけではない。どちらかというと、物書きである自分が頭の中で作り上げていっているという印象が強い。仕事といわれても、何も浮かんでこない。私が答えない間も、彼女はゆっくりと寝椅子を中心に歩いて回り、その靴音が、コツ、コツ、コツと部屋に響いた。
「サミーさんは、どんな仕事をしてるんですか?」先程よりも少し強い調子で、彼女が再度質問した。

私は問いに答えられないことに、だんだん息苦しさを感じ始めた。このセラピーを受けに来たのも、特に深い悩みがあったからではなく比叡山に関わる前世が本当かどうかの確認と、ハワイの地で自然を生かしたセラピーができるかどうかの参考にしようと思って、軽い気持ちでセッションを申し込んだのだ。もう一つの前世を知ることができれば、それに越したことはないが、是が非でもという訳ではない。

コツ、コツと響く靴音と、窓に吹き付ける強風の音だけが耳につく。答えられないことによる息苦しさは増していくばかりで、私はもがくように顔を左右に振った。立ち上がって、『先生もうやめよう!』と叫び出したい衝動に幾度も駆られた。

見かねた彼女が、私のおでこを指先でトントンと叩きながら「ここではなく」、次に胸の中心部を同じように叩き「ここで答えてください」とやや強い口調で指示した。

頭で考えるのではなく直感や魂で答えるようにとのことだろう。答えられないことに対する息苦しさは相変わらずだったが、少し開き直りの気持ちが芽生えてきた。『私も物書きだ。ここまでストーリーを作ってきたのだから、気楽に続けてみよう』と。

「サミーさんは、どんな仕事をしていますか? 仕事をしてないわけじゃありませんよね?」彼女が、やや強い調子で再び質問した。
実はこの質問を最初にされたときから、私の中に朧げながらも、かすかに感じられるものがあった。まず第一に、物を売って暮らしているのではないという印象だ。そして、人々から食べ物をもらってはいるが、物乞いではないということ。今でいう、何らかのソフト的なものを提供することによって、それと引き換えに食べ物を頂いているのではないかという漠然としたイメージがあった。チベットという場所柄を考えると、それは僧侶であろう。頭で考えるなという指示であったが、私は自身の感覚をベースに、そのように類推した。

「たぶん、僧侶で、人々に教えを説きながら、その見返りに食べ物をもらっているんだと思います」
「分かりました。それでは、サミーさんの両親はどんな人たちですか?」
「・・・・・裕福な家庭を築いていたと思います」
父母のそれぞれの詳細は浮かんでこなかったので、漠然とした答えをした。
「それでは、サミーさんは家を出られたということですね?」
「・・・はい、たぶん・・」
「家を出たのは何歳のことですか?」
「・・・二十八・・」
私は思いつくままに、直感で答えた。彼女は変わらず、寝椅子の回りをゆっくりと歩き、ときどき咳き込んだ。
「なぜ家を出たんですか?」
「・・・たぶん、成人したからだと思います」
そんなことしか、思い浮かばなかった。
「成人すると、家を出なければならなかったんですね。それでは、その時に僧侶になったんですか?」

質問に対して、そうなのかと考えたが、どうもしっくりこなかった。サミーが住んでいる住居は下町のような所にあり、僧院は離れた高台の方にあるように感じたので、
「僧侶になるには、歳を取り過ぎていたようです。正式な僧侶になるには、年齢制限があった・・・・正式な僧に成れなかったので、個人街中布教していたようです。そして、最低限食べていけるだけのお布施をもらって暮らしていた・・」と答えた。
ここまで来ると、ほぼ小説を書く作業と同じである。閃きをベースに、ストーリーを構築していけばよいのだ。
「サミーさんは、ずっとその土地で布教していたんですか?」
「・・・・・いえ・・正式な仏教から非難を受けて、町を出ました・・・それを黙って受け入れました」
「それから、サミーさんはどうしたんですか?」
「・・・各地歩き回り布教を続けました・・・」
私の意識は、相変わらず明瞭なままである。ただ、あるイメージが浮かんだので、答えを続けた。
他の町に辿り着き・・・大きな木のある・・ブッダガヤのような・・周りに花が咲き誇る・・美しい町です・・・そこで、裕福な人から庇護を受けたようです」

ブッダガヤとは、釈尊菩提樹の下悟りを開いた場所だ。
そして、王様が座るような立派な椅子に腰かけた人物が、イメージの中に浮かんできたのだ。かなり豊かで大きな街の長(おさ)のようである。

その人物は、誰ですか?」
 突飛な質問であったが、なぜか次の瞬間それが誰であるか分かったのだ。
Kの親父さん!」同時に、頭の方から痺れるような感覚が起こり、それが全身へと広がっていった。それは、痺れというより、歓びの波動のようなもので、その人物からの『そうだよ、その通りだよ!』というメッセージでもあることが、にはハッキリ了解できた。

その人物は、私の小学校時代の親友の父親で、すでに亡くなられていたが、今生で大変お世話になった大恩人である。全身が歓喜で熱くなり私の目には歓びの涙が滲んだ

「大丈夫ですか?」
目を開けて涙をぬぐおうとすると、U先生が、『多くのクライアントがそうなるんですよ』というような優しげな微笑みを浮かべて、ティッシュを渡してくれた。
そして、「面白いですねー」と続けた。その言葉の前に『人生って』というひと言が含まれていることは、その時の私には実感として、充分すぎるほど納得できるものだった。

涙を拭き、少し落ち着くと、またセッションの続きが始まった。
「その後、サミーさんは、ずっとその街に居続けたんですか?」
「・・・いえ、居心地は良かったんですが、この街に花が咲いた・・つまり、私が伝えようとしたことが根付いたので、また他の町へと旅立ちました」
「その後はどうなりましたか?」
「・・・・・・・・」
 私のイメージには、何も浮かばず、ブランクのままだった。

「それでは、その人生の最後に行ってみましょう」
先程の感動体験があるので、もう終わってしまうのかと、少し残念に感じたが、イメージを膨らませてみた。相変わらず意識はクリアなままだが、もうイメージを浮かべて、それを口に出すことに対する抵抗感は無くなっていた。
「・・・一人砂漠に座ったまま充足感を感じています・・・・そして頭の上へと昇っていきます・・・下には自身の頭部と黒い髪が見えます・・・・昇るにつれて、広がった砂漠の向こうに、美しい調和のとれた街が見えます・・砂漠の中のオアシスのようです」
「それが、サミーさんの人生の最後なんですね?」
「はい・・・・最後は黒いトンネルを抜けて・・前方がひらけた感じになりました」
「それでは、サミーさんの人生で学んだことは何ですか?」
「・・既存の宗教にとらわれることなく・・真理の花を咲かせることができる、ということです」
「ありがとうございます」

そして、昨日と同様の覚醒のプロセスへと入っていく。
「サミーさんとしての過去生が素晴らしくなる・・・そして、現在のAさんの人生も素晴らしくなる・・・・・これから三つ数えると、Aさんの意識が今へと戻ります・・一・・、二・・、三・・。それでは、ゆっくりと目を開けてください」

退行催眠を終え、ソファの方に戻り、ハーブティーを頂いた。
「ヒプノセラピーを受けられて、如何でしたか?」
「まったく、意識はハッキリしたまんまなんですね。もっと催眠状態に入るのかと思ってました」
「そうです。クライアントによって多少個人差はありますが、ほとんどの場合は、周りの状況は知覚できて、意識はクリアなままです」
「ずっと、自分でストーリーを作ってると感じてたんですけど、Kの親父さんのところで間違いなく退行してるんだと分かりました

逆に、その部分がなければ、ずっと意識がハッキリしていたので、退行催眠をしたとは思えなかっただろう。その時の全身が痺れるような感覚は、大天神社でのデジャヴュで、『回峰行』と浮かんだ時とまったく同質のものだった。
それは、思考を超えたバイブレーションのような感覚的なもので、私の中にある何か・・、それはと呼んでも良いと思うが、その部分が直感的真実であると了解したのだ。
と言うよりは、その魂の中蓄積されていた記憶が、浮かび上がって来たのかもしれない。

「Kさんというのは、どういう方ですか?」
「小学校時代の友達のお父さんです。たぶん日本で初めてロビー活動を仕事にされた方だと思うんですが、働きながらハーバードビジネススクールを卒業され、事業でも非常に成功されていました。私のことをいつも、ファーストネームで呼んで、とても可愛がってくれたんです。
私は、四年生の時に些細なことがきっかけで、拒食症になってしまったんです。お盆休みに高原にある叔父の山荘に家族で出かけ、帰ってきた頃からです。食べ物を前にすると、吐き気がするようになったんです。それを心配したKさんは、毎週日曜に、息子の友だち数人に声をかけて、一緒にランニングをし、そのあと高輪や品川のプリンスホテルで、皆に朝食ごちそうしてくれたんです。そして『食べろ食べろ!』ってね。言われると余計に食べづらくなって、つらかったんですけど・・。もう、三十年以上も前のことです」
私は思い出し、感謝の念を抱きつつ苦笑した。「Kさんは、息子の友達の中でも、特に私を気に掛けてくれたんです。今回その理由が分ったような気がします。シチュエーションが似てますから・・」
「そうですね」

U先生も、すぐに理解してくれたようだが、私は話しつづけた。
サミーがブッダガヤのような街に辿り着いたとき、彼はほとんど飲まず食わずだったと思うんです。そして、Kさんの過去生であるその街の長が、サミーを庇護し、食べ物を心配してくれた・・・」
時代世・生(せい)をまたいで恩を頂いたその人その魂に対して、尽きることのない感謝の念が湧きおこった

もう一点腑に落ちたというか、納得できたことがあるんです」
「腑に落ちたとは?」
は、大学生の頃を中心に、無性に全国を旅して歩き回っていたことがあるんです。その頃の国鉄の周遊券を使ってまわり、降りた駅では何をするという決まった目的があったわけじゃないんですけど、とにかく興味の赴くままに町じゅうをひたすら歩き回ったんです・・自分でも、『どうしてなんだろう?』と思ってたんですけど、今、その理由が分かったような気がします」
私は、過去生の習慣が、はるか現在にまで影響するのかと思い、苦笑いを浮かべずにはいられなかった。
「面白いですねー!」
彼女の決めフレーズに、得心した。
『人生は面白く、不思議だ! そして、現実は小説よりも奇なのである』
今回の体験を、ノンフィクションで書かれたらいかがですか多くの人の参考になると思いますよ!」彼女からのアドバイスだった。

壁一面の大きな窓ガラスに目をやると、青空に浮かぶうろこ雲を、夕陽が紅く染めていた。 

『胡蝶の夢』

中国の戦国時代の思想家である荘子に『胡蝶の夢』という説話がある。

『むかし、荘周は自分が胡蝶になった夢を見た。楽しく飛びまわる胡蝶になりきって、のびのびと快適であったからであろう。自分が荘周であることを自覚しなかった。ところが、ふと目がさめてみると、まぎれもなく荘周である。
いったい荘周が胡蝶となった夢を見たのだろうか、それとも胡蝶が荘周になった夢を見ているのだろうか。荘周と胡蝶とは、きっと形の上では区別があるのだろう。しかし主体としての自分には変わりはなく、これが万物の変化というものである。』

荘周』が、『この世』を表し、『胡蝶』が『あの世』を表す。

この『胡蝶の夢』という説話をモチーフに、私は小説を書いた。

比叡山横川の恵心堂や、恵心廟には、何度か訪れた。
2008年には、毎年6月11日に横川で行われている『恵心講』に参加・取材もした。

今では、私の中では、恵心僧都が前生であったと確信に近いものを感じている。

だからと言って、自身の前生が高僧であったことを誇る気持ちは1ミリもない。前世は、前世。今生は、今生だからである。

前世は立派でも、今生は最低という場合も、無数にあることだろう。

本文の最初に書いたように、自身の魂の過去生の全ての因果の調整を経て、今生は新たなスタートを切っているのである。今生の未来は、すべて白紙であり、過去生の栄光など全く関係なく、今生での努力のみが、未来を切り開く黄金の鍵となる。

また、霊的な真相として、100%の転生はありません。今生の魂は、過去の幾つかの魂の混ざりあったものであり、かつ新規幅が6割以上もあるようだ。

だから、恵心僧都は、私の今生の魂とは縁はあるものの、私の前世であるとも言えるし、そうでないとも言える
(この辺りの霊的実相は、ちょっと言葉にすると理解しづらいかも)

私が、恵心廟(恵心僧都のお墓)をお参りすると、なんだか複雑な思いを抱くのだか、実感としては、上記の事が良く了解できる。

そうそう、2008年の恵心忌の帰りに、白山の山深い山麓にある白峰温泉に1泊した。翌日、本地堂という、明治の神仏分離令がでるまで、白山の峰々に安置されていた諸仏を、一堂にお祀りしている御堂があるのだが、そこに縁あって参りに行くこととなった。

御堂に入ると、まず、真新しい畳が目に入り、イグサの青くフレッシュな香りが鼻孔に広がった。
案内してくれた女性が、「今年はちょうど、泰澄大師が白山を開山されてから1300年で、来月にはここで記念行事が行われるんです。それに合わせて昨日、畳を替えたばかりなんです」と説明してくれた。どうやら参拝客としてその新しい畳を踏むのは、私が第一号であったらしい。

お堂の正面には、泰澄大師坐像、御前崎奥宮の十一面観世音菩薩坐像、別山山頂の聖観世音菩薩座像など八体の仏像が、整然と横一列に並んでいて壮観である。そして、ふと、左側の壁の方を見ると、立派な額に入った一枚の写真が、目に飛び込んできた。私は驚きで、釘付けになってしまった。
「不思議な写真ですよね。ある方から、寄贈されたものらしいです」と、私の驚く様子を見て、案内の女性が説明してくれた。

それは、大天神社で、『回峰行』という言葉が浮かんだあの夜、K先生から頂いた『白山御来光神』の写真であった。

『(人生って)面白いですね !』というハワイヒプノセラピストUさんの決めゼリフが、頭に思い浮かんだ。

最後まで読んで頂き、ありがとうございます!