ハウスワイフはライター志望(13)もう少し続けたい! だけど、もう……
「ライターになりたい!」
熱い思いひとつを胸に抱えてライターの階段を駆け上がったもり塾塾長・森恵子の再就職奮闘記「ハウスワイフはライター志望」(社会思想社 1992年)を一部編集して連載します。
今回は第13回。編集者の放った「こんな失敗をした人はいない」の言葉が頭から離れない。すっかり萎縮してしまった恵子は、次の仕事を最後に雑誌社を辞めると決意して……。
あと半年続けてから決めることね
七五三が終わった。
この雑誌の最後の仕事がまた始まる。
「気合い、いれなきゃ」って言いきかせながら、私の足どりは重い。
雑誌社に行くため電車に乗ると、一駅ごとに私は「気弱なライター」になる。
公民館活動や幼稚園の役員会や業界誌の取材でやっと取り戻したイキイキした私が、ペシャンコになっていく。
駅を降ると、私がほんとはくるっと回れ右して家に帰りたいらしいことに気づく。
うつむいて足早に歩きながら、
「そんなことできるわけないじゃないのッ」。
顔をあげてぼんやり前を眺め、
「今日はどんなことになるのやら……」。
編集部が近づくとようやく私は決心する。
今度の企画は私好みなんだから。
今度私と組む編集者は、この前の彼女みたいに四角四面じゃなさそうな人だから。ネッ、がんばろっ!
今度の担当編集者は、あの締切りの夜、廊下で一緒になった人。
「この仕事は、私に向いていないかもしれない」と騒ぎたてたとき、こんなことを言った人だ。
「この仕事に向いているかいないかは、あと半年続けてから決めることね」と。
事実を事実として伝えるまで、という口調に、私は自分が世の中に初めて出たオンナのように思えたものだ。
編集部に入る。
あんな失敗をしておきながらと思われない程度の、かといってネクラな奴に見えない程度の(ほんとに私はよけいなことばかり気にしていた)笑みを浮かべて、編集部に入る。
彼女との打ち合わせで、私はオズオズと私なりの構成を言う。
「それ、いいかもしれないわね。その手で行きましょう」
彼女は言った。それから、
「よくある構成かもしれないとあなたは言うけど、ウチではあまりやっていないことなのよ。そういうふうに自信なさそうに言わないことね」
そう私に釘をさした。
私がひきずっている自身喪失なんて、何をグダグダ言ってるの、という調子だった。
私に4日間の猶予で宿題が与えられた。
この記事にふさわしいコメントが得られる学識経験者を探すこと。
ユミを連れてあちらの図書館、こちらの図書館に出かけた。
学会誌をひっくり返し、ふたつの論文のコピーと、いくつかの論文タイトルをメモして編集部に出かける。
また、ダメだったら、どうしよう——。
彼女は論文に目を通す。
私は息を詰めて、彼女の様子をうかがう。
「この人がよさそうね」
ふたりの候補者の中から、ひとりを選んだ。
「ずいぶん、あちこち探してくれたみたいね」
そうねぎらってくれた。
「では、この先生に取材依頼の手紙を書いてください」
手紙? こんなざわざわした編集部で?
手紙というものは、夜更け、心を落ち着けて書くものだと思っていたのに。
それにビジネス文書なんてのを書いたことがない。
今ここで、ちゃんとした手紙が書けるとは思わないけど、書くほかない。
「こういうつっけんどんな手紙では、困るでしょう」
彼女はそう言ってさらさらと、書き直した。
横からのぞいてわかった。
へりくだりすぎず、横柄にならず、誠意を持って、丁寧に用件を伝える。
ビジネス文書だからって、特別ってことはないんだって。
当たり前のことがわからなくなっている。
彼女はそれを私に逐一教えなければならない。こういうヤツと組むのは大変だろうなって、またメゲル。
すると私の口調はもごもごして、彼女はいらだつ。
役たたずの私を私が呪う。
繰り返し、バカやっている。
私は「ゆっくりさん」?
それから日をおいて、また打ち合わせがあった。彼女は私をいたわるように言った。「あなたは今まで、ゆっくりさんだったのね」と。
私が物ごころついたときからこの仕事をするまで、私を「ゆっくりさん」と言った人はいなかった。
スポーツ以外は自分を「ゆっくさん」だと思ったことはなかった。
でも私はやはり、ほんとは「ゆっくりさん」なのかもしれない。
「嫁入り」をした後で夫や子どもに人生を託すことの愚かしさを知ったり、「仕事をしたい」と思い始めてから2年もかかったり。
そう自分を納得させると、私はますます編集部で「ゆっくりさん」になる。
往復に時間がかかる識者の取材のために、実家の母をくどき落とした。
先月のようなハチャメチャがもう一度起きれば、私はずっと立ち直れないかもしれない。そんなこと、母には言えないけれど。
無事、識者のインタビューを終えた。
冷たい風が吹き抜ける大学構内を歩きながら、彼女が私に聞く。
「どこが心に残りましたか」
私はギョッとする。
そして、私はマゴマゴし、モゴモゴと口の中でつぶやく。とても具体的な感想を。
「そういうことじゃ、ないんです!」
彼女はインタビューの余韻をかみしめ、それを共有したかったのに、私がそれをぶっこわした。
先月の担当編集者とまるで反対だ。
(そんなのにいちいち付き合ってられないわ)と思えず、私はうなだれた。
私は落ち込んだまま、特急に乗る。
気まずい雰囲気がふたりの間に標う。
彼女はイライラした気持ちを悟られないように、私を気遣い、私は彼女の気遣いの下でさらに小さくなっていた。
彼女が2歳年下だと聞いて、私はなんていう年を重ねてきたのだろうと思った。
「あのぅ、編集者としてのお仕事のなかで、何が一番お好きですか?」
「そうね……。企画をたてることかな。文章はあまりうまくないのよ、私。だから、そのぶん、遮二無二やっているところがあるわね」
彼女はそう答える。
この人の弱みを知りたいから聞いた質問じゃないのに。私がウジウジやってるから、彼女に言わなくてもいいことまで言わせてしまった…… 。
私が帰宅すると、母は帰り支度をして待っていた。
「こんな仕事してて、シン君たちのこと、どうするの。来月は私も忙しいて来られへんよ。あちらのおかあさんはシン君たちのこと、心配してはるんやから、それであんたの仕事のこと反対してはるんやから、そのことも考えなさい」
「わかってる。今月でこの仕事をやめるつもりやから」
「それ、ほんまやね」
そう言い置いて、帰った。
溺愛した娘を結婚させて子離れした母は、そのころやっと生きがいを見つけ、娘のいない生活を建て直し始めていた。
その夜から、テープ起こしに入った。
アンケートをまとめ、インタビューをまとめて記事を書いた。
彼女の評価は、まずまず、というところらしかった。
この人となら、やっていけそうな気がしたが、それでは彼女が大変だろうな。
2本めの記事を書いて、未練が出た。
もう少し続ければ、もう少し続けられれば。
でも夫との約束がある。
母との約束がある。
それに子どもたち。
私の迎えにほっとした顔をするユミと、家政婦さんが好きになれないシンと。
あと3カ月たてば、ユミは保育困に、シンは小学校に入る。
4月になって、やり直そう。
あの2年間に較べれば、3カ月はなんでもない。
4月になれば、4月になれば——。
もう少し続けたい。だけど、もう……
1988年、正月。
雑誌の編集長から年賀状が届いた。
「良心に恥じない雑誌作りをしたいと思います。あなたの力を貸してください。今年もよろしく」
その文面をしばらく見つめた。
「あなたの力」がどの程度のものか、編集長もあの夜でわかっているだろうに。
フリーのライターヘの均一の文面であったにしても、こんな私にまでこんな文面を書く編集長という人、編集長という職務。
とにかく育ててやろうという親心なのか、それでも育てなければならない職務なのか。
年賀状を見つめて、ためらいが深くなる。
もう少し、続けたい!
あの日、あの編集者が言ったように、半年は続けたい。だけど、もう……。
6日、編集長に電話した。
「たいへん勉強になりましたし、続けたいという気持ちもあるのですが、子どもが幼稚園に行っているものですから、どうしても無理が続いて……。本当に申し訳ありません」
編集長が面接のときに念を押した子どものことを持ち出して、私は続けられないと言った。
本当のことだけど、続けられない理由はもっとほかにあった。
編集部に入るとあの夜を思い出して、わずかな私の能力さえ発揮できなくなるんです。
この仕事を続けているうちは、あの失敗から逃れられず、ライターという仕事が続けられなくなってしまいそうな気がするんです。
心の中で大マジメにそれが理由だという私は、世間を知らず、仕事を知らない。
子どものことを持ち出す私は、恥知らず。
そんな私に編集長は最後まで、丁寧で柔らかい口調だった。
「そうですか……。お子さんが春、保育園に入られたら、またよろしく」と。
ホントに主婦の相手は大変。
編集長がそうため息をついているような気がした。
「申し訳ありません」
私の最後の言葉は、受話器を置いても、次の日も、次の日も、その次の日も続いた。
社会と関わりたい、もうひとつの理由
私が家の中にじっと引きこもれば、編集長に向かって心の中で「申し訳ありません」と繰り返すばかりだということがわかっていた。
そしてそれが遠ざかれば、私はシンのことばかり考えてしまうに違いない。
私がどれほど望んでも努力しても変えようのないシンの小さい背や幼さのことを。
小学校入学を目の前にして、文字にも数字にもてんで興味がないシンのことを。
普通に生まれた子なら、親が笑ってすませそうなこんなバカバカしいことを、シンを小さく生んでしまったという自責の念から、夫の両親の目から逃れられずに、私は心配してした。
「シンが小学校に入って、やっていけるかどうか、それを思うと心配なのよ」
「ほんとに君は心配性だねぇ。大丈夫だよ」夫は笑って取り合わない。
友人はエーッとのけぞり、
「しっかりしてるじゃない、シン君。な~に、寝言言ってるのよ」
障害者運動、教育問題に関わる「いっつ みぃ」の友人は言う。
「あなたがシン君の小学校入学にあたって、そういう心配しなきゃいけないってところに教育の問題があるのよ」
全部、わかる。わかってるつもり。
だけど、どうにもならないところで、私はよじれている。
本当にシンのことを心配しているのか、嫁という立場で苦しがっているのか、それを立ち止まって考えると、ほんの少しの時間私にやすらぎがやってくる。
シンはシン。それでいいんだって。
ある日、私が心の底で心配しているのは、シンが学校で成績優秀な生徒、あるいは個性的な生徒としてやっていけるかどうかだということに気づく。
私の中に学究の徒に憧れる気持ちがあることは知っている。
それが小学校入学前のシンに「優等生」を望むことにつながるのだろうか。
夫の両親だけではなく、私自身もまたそれを望んでいるのだろうか。
私がもし、シンを連れてこの家を出たら、もっと自由にシンを育てられるだろうか。
たぶんきっと、私はもっとおおらかにシンを育てられる。
そんな夢想をすることで、シンヘの優等生願望が私自身の願望ではないと思おうとする。
私の心の底にどんな思いがあっても、シンにそれを強要するほど愚かな母親ではないつもりだ、と私は自分に言い聞かせる。
「子どもとともに生きる」「子どもの目の高さで話す」——そんなことができる母親ならどんなにいいだろう。
ほんとの大人でなければできないこのことを、やれる母親になりたいと思う。私が閉塞した家庭の中で過ごしていたらとうていできないこのことも、社会参加の中で私が育てば、できるような気がしていた。
宗教の門をたたいたり、アルコールにおぼれたりするかわりに、あるいはテニスやカルチャーセンターで気をまぎらわすかわりに、私は仕事という社会参加を望んだのだ。
子育て専業の母親が、多くの場合「かしずかれて当たり前」の人間を生むとか、「いずれ私が老いたときのための貯金」として子育てをしているとか、そんなことに対する否定の気持ちもとても強かったけれど、私には「仕事」をするほかない現実があった。
私はただ子どもと向かいあうだけの生活から逃げた。だけど逃げきるために仕事に出たのではない。
社会の中で生き、社会に疎外されていないと実感し、安定した私が子どもと過ごすほうが、時間は短くても暖かく濃いものになる——。
誰が言い始めたことか、わからない。だけどそれは私が長い時間をかけて心から納得した、私にとっての「本当」だった。
(次回に続く)