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大教会からの通信を読んで

 今年も残すところ、あと二日となった。仕事も休みに入り、家の用事ばかりしているが、郵便配達のバイクが止まったので、郵便ポストを覗いてみると大教会からの通信が入っていた。巻頭には「年祭活動の~」とか「教祖の道具衆として~」とか「実働を~」とか、全く年祭前ごとの定型文のような文言が綴られている。
 初めて読んだ人や信仰の浅い人にとっては、心に響くところがあるのかもしれないが、歳を取り何回も年祭を迎えたことのある人には「またか…」というような気持になってしまう文面が多いように感じる。言い換えれば自分の言葉で思いを伝えるのではなく、定型文を織り交ぜながら、文体を整え、当たり障りのないように整えただけのような気がする。
いっそのことAIに任せて書いてもらった方が訴える力があるのではないだろうか。

数値化された教勢

 初席者の数や修養科、教会長資格検定の受講者数などの統計も出ているが、本当に少ない。「0」あるいは一桁の数字が並んでいるだけである。驚きなのは教会の名称を返して解消した教会の数である。累計で二桁の数が載っている。恐らく後継者がおらず、会長も高齢化し、続けられないと判断したのかと想像している。そんな話はあちらこちらで聞くから、数字となって出て来ても誰も驚かないのかもしれない。
 友人の末端教会長が言っていたが、親の代の信者さんが皆、高齢になり、参拝にも来れなくなって、その子供たちには信仰が伝わっていないから、参拝者がおらず、会長の兄弟やその子供たちだけで月次祭も何とかやっているそうだ。もちろんお手ふり、鳴り物の手は足りていないとのことだ。

上納制度は今も変わらない

 会計報告なども載っていたが、本部への心定め〇千〇〇百万円には届かなかったとのことだ。これだけ部内教会数が減り、信者も激減しているのに、そんな額を集めて送っているのかと思うと、やはり「宗教と金」というのは切っても切れない関係なのかとも感じてしまう。政治家と似ているようにも思うが、「世の中、金」なのかとも感じてしまう。「更に丹誠をお願いする」というようなことも書いてあるが、信者も減少する一方で、ほとんど家族だけでやっているような末端教会の会長さんなどはどのような気持ちで、こういった通信を読んでいるのだろうか。
 もっと「がんばらねば」と勇んだ気持ちになるのだろうか。それとも「もう勘弁してくれ」と自分の代で終わらせたいと思っている人もいるのじゃないかと想像している。

新興宗教の宗教二世問題

 今年は安倍首相の銃撃事件から、大きく宗教二世問題が取り上げられたようにも思う。昔からあったのだろうが、マスコミも宗教問題となると及び腰だろうし、政治家にしても献金という形でお金をもらっていれば尚更のことである。安倍首相を撃ったあの青年が不憫でならない。一国の首相を狙ったのだから罪は軽くはないのかもしれない。それでも覚悟を決めて実行したのかと思うと、宗教団体と政治家のつながりというものに一石を投じて社会にも訴えてくれたのかとも思う。罪が軽くなることを祈るばかりである。
 あれほど大きな事件でもあったのに、その後すっかりニュースにも取り上げられないような気がする。それにしても統一教会やエホバなど、親が完全に洗脳されて虐待なども許されていたのかと思うと狂っているとしか思えない。けっこう多くの二世がSNSなどのネットを使い、声をあげるようになったのかもしれないが、これも自然な流れなのかとも思える。今まで身内のことだから、特殊なことだと思いはしても声をあげることもできなかったのかと思う。

無信仰がいいのだろうか

 宗教に関する問題が噴き出せば、それだけ宗教は危険だとか関わらない方がいいといったことが言われそうだが、筆者はそうは思わない。むしろ社会的な常識や道徳観、他社への思いやりなどを育むのに必要なのではないかとも思う。しかし、どの宗教も当たり前のことを当たり前に言っていながら、裏ではやっぱり「お金」ということが多い。人間が宗教をもとに組織を作り上げると、どうしてもそうなってしまうものなのかもしれない。

 どんなに清廉潔白な人であっても、組織の中で上になればなるほど、清廉潔白ではいられなくなるのかもしれない。それだけにやはり重要になってくるのは「教育」であると思う。学校教育で他者への思いやり、道徳観念、モラルやマナーなどもしっかり教育していくべきだと思う。教科だけを教えていればいいのではないようにも思う。
 モンスターのような親が生まれるのも、そもそも教科だけを重要視し、高得点を取れば優秀と言われ、道徳心など眼中になく、競争ばかりで勝てばいいという妄想にはまりこんでいるからのように思う。もっと国民の皆が成熟した国として発展を続けたいのであれば、教育を変えていくべきのように思うがいかがだろう。

来る年はどのようになるのだろう

 ロシアとウクライナの戦争はまだ続いている。こうしている時間にも家を追われ、不自由な生活を余儀なくされている人もいる。イスラエルでは長い歴史の中で宗教がもとで、もはや解決もできないようなレベルに恨み合っている。国境をなくし、世界中の人々が自由に行き来し、同じ人間だとお互いに尊重し、平和に暮らせるようになればとも思うが、遠い遠い、また先の遠い話なのか、それより前に愚かな人間の世界は破滅してしまっているのだろうか。争いのない平和な世界になることを祈るしかない。しかし、ただ祈るだけではなく微力でも実働できることはやっていくべきだとも思う。本当に自分はちっぽけな存在なのかと実感する。しかし、ちっぽけな存在たちが、あちこちで声を上げていけば、やがて大きく変わるようにも思う。今年よりいい年になることを祈りながら、終わることにする。

 よいお年をお迎えください。今年一年、ご訪問くださり、駄文を読んでくださり感謝しております。

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