それは1992年のことだった。
33歳で「宮崎中央新聞」に入社した。
外山建設という土建会社の社長が、ライフワークで始めた週刊新聞だった。
それが30年ほと続いていた。
僕が入社した時の社長は外山清子さんで、他界した創業者の夫人だった。
従業員は2面をつくる60代の男性が一人、
活字を打ってくれる写植職人が一人だった。
僕は1面を取材、編集する担当になった。
そう、1面の2面だけのブランケット版の新聞なのだ。
毎日県庁の広報課に行って、イベントや行事の情報をもらい、取材に行く。
経理は外山建設本社にあるので、発行部数は知らなかった。
会社、つまり編集室は倉庫みたいなところだった。
外観も汚すぎた。お客さんは一人も来ない。
だけど、僕はその会社に不平や不満を持ったことは一度もなかった。
編集したり、取材に行ったりすることが大好きだったのだ。
ひょんなことから外山社長にスナックに呼び出され、
経営を引き継がないかと言われた。
その時、初めて「水割り」というものを飲んだ。
お酒が全く飲めなかったので、半分以上も残して別れた。
翌日、3人しかいない宮崎中央新聞の編集小屋に外山社長が来て、
「6月いっぱいで辞めます」と解散宣言をした。
「あとは水谷さんがやるそうです」と言われ、
当然、親会社からの資金援助はなくなるので、
2人には継続契約はせず、僕1人で事業承継することになった。
その時、思ったことがあった。
「もう事件とか事故のニュースの記事はやめよう」と。
「読んで元気が出るようなところに取材に行こう」と。
経理を引き継いだが、有料購読者は500人くらいしかいなかった。
いや、500人もいた。ゼロからのスタートではない。
これが有難かった。
好きなことが仕事になった。1992年7月のことだった。