漱石の手紙
(前略) 無暗にあせってはいけません。ただ牛のように図々しく進んで行くのが大事です。文壇にもっと心持の好い愉快な空気を輸入したいと思います。それから無暗にカタカナに平伏する癖をやめさせてやりたいと思います。(後略)
夏目漱石は慢性的に胃を悪くしており、まだ連載を抱えている中で49歳で没しました。現代の感覚としては、まだまだ働き盛りですね。
久米・芥川が漱石と交流を持ったのは、漱石の没前1年ほどだそうです。この手紙も漱石の亡くなる半年ほど前のものです。
芥川は漱石の25歳年下なので、このころはちょうど東京帝大のころでしょうか。有名な初期の作品である「鼻」などが絶賛されていたころです。
冒頭の手紙の3日後、漱石はまた手紙を送ります。
(前略) 牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。僕のような老獪なものでも、只今牛と馬がつがって孕める事ある相の子位な程度のものです。
あせってはいけません。頭を悪くしてはいけません。根気づくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。うんうん死ぬ迄押すのです。それだけです。決して相手をこしらえてそれを押しちゃいけません。相手はいくらでも後から後からと出て来ます。そうして吾々を悩ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。
自分は、辛いときや苦しいとき、怒りに任せて何か言ってやりたいときにこの言葉を思い出します。
率直に言うと、自分は漱石の言うような「心持の好い愉快な空気」をとり入れてくれる人が大好きです。
自分一人では目の前にいる人、身近な人を愉快にさせるぐらいが精一杯です。しかし、ごく稀に大勢の人相手に愉快な空気を吹かせることができる人がいます。自分はそういう人を応援することで、自分の本来の願いを昇華させようとしているだけです。
また、「相手をこしらえてそれを押しちゃいけません」という部分にもとても納得させられました。理不尽なことに会うと短絡的に行動したくなります。でもそれでうまくいった試しがないのも自分なりの体験です。
牛になります。そうしてうんうん押していきます。ちょっとでも、自分の周りに流れる空気がより「心持の好いもの」になることを願って。