緑色の世界
階段の形の段々が自動的にあらわれ、その段々に乗っていると上に運ばれ、到着して段々が平らになったところで上の階に乗り移る、というしくみの乗り物、エスカレーターというものに初めて乗ったのはずいぶん幼い頃で、幼い頃はおそらく「乗りこみ」が怖かったり「乗り移り」の時にうまくいくかどうか不安だったりしたのだろうと思うけれど、大人になってずいぶん経つのでその時のことは記憶にない。ただエスカレーターの「下り」の段に足を乗せるとき「ちょっと怖いな」と思うことはある。その頃のなごりなのかもしれない。
当たり前のように毎日乗り降りに利用しているけれど、少し前に古いデパートに行ったとき、エスカレーターの段と段の間に、緑色の光がちらっと見えて「あれっ」と思った。あれっと思う気持ちのどこかには、背筋に冷たい線が走ったような「ぞっとする感じ」が混ざっていて、その感覚とともに、幼い頃に考えていたことを思い出した。
エスカレーターの乗り降りに少し慣れたとはいえ、乗り降りのときにはつまづかないように、足元をじっと見ていなければならない。とりわけ「上の階」に乗り移るとき、注意していないと、転んでしまうかもしれない。足元を見ていると、段と段の間に緑色の光が見える。段ができる時には大きく、平らになるときは小さくになる。幼いわたしはエスカレーターの階段の下には、わたしが今いる世界とは別に、緑色の世界があるのだという気がしていた。光が当たって、きれいな空気に満ちた「こちら側」に、決して出てこれない「下の世界」があり、エスカレーターの緑色の光はその世界から漏れでる光、そして、その光の中「下の世界」だけでしか生きていけない人たちがいる。その人たちが、休む間もなくエスカレーターを動かして、段々をたたんだり元に戻したりひたすらに働いている。緑色の世界の住人は、「こちら側」の人に強いうらみがあり、用心していないとエスカレーターの隙間から、「下の世界」に引きずり込まれてしまう。そしてもう「こちら側」には帰ってこられない。
そんなふうに考えていた。
幼い頃の想像や「考え」はたいてい突拍子もないものだけど、眠っているときの悪夢がなまなましいのと同様に、考えにとらわれると恐ろしくて落ちついていられない。わたしは緑色の世界にいる人のことを時々エスカレーターに乗っているときだけ思い出し、降りるとすぐ忘れて、今ではすっかり忘れている。エスカレーターは機械が作動しているだけで、緑色の世界は存在していないこともわかった。そして、段と段の間に見える緑色も、この頃ではあまり見かけなくなってしまった。
でも、アンナ・カヴァンの「母斑」という小説を読んだとき、緑色の世界のことを思い出した。同時に「しまった」という気分にもなった。すっかり忘れていた恐怖を思い出したからだ。このまま緑色の世界のことは考えずに生きていけるはずだったのに……。
大人になって何食わぬ顔でぼんやり生きていけるのは、知らないものについて感じていた違和感や恐怖の理由を知って「怖くない」と認識したからだと思っている。成長するにつれ、いろんな物や機械、乗り物の仕組みを知り、単純に慣れただけなのかもしれない。ひょっとしたら怖さを克服するため「仕組み」の理由を知りたかったのかもしれない。
けれど、エスカレーターの下の緑色の世界にいる人は、アンナ・カヴァンの小説のようにわたしの世界に一緒にいて、いつか、身近にある「下の世界」に行ってしまって戻って来られないかもしれない……。そんなふうに考えることも止められない。そしてエスカレーターの「下り」の段に足を乗せるとき「ちょっと怖いな」と思うのもやっぱり変わらない。