パープル
薄紫色の花は手に届く高さで、木の隙間から垂れ下がっていた。
春にしては暑いくらいの太陽の温かさでふわっとした甘さが交じり、ブンブンというハチの飛び回る音とともに
その存在を主張していた。
ノダフジかな。
探していたものが実はこんな近くにあったのに知らずにいた。はじめからあきらめて今日は別の植物のところにいたのだ。
今年はフジの花を山でよく見かけた。これまでも春になると咲いていたものであるが、例年以上にその紫色に圧倒され、
フジの花のフラワーエッセンスを作りたいと思っていた。
フジの花が以前よりも多くみられるようになったのは、山を手入れする人が少なくなったことが原因するというツイートを見かけたことがある。
近年竹も同じように手入れをする人が少なくなくなってきたので、竹林が荒れ放題にもなっている。
人間の手が入らない自然は勢力を増し、ありとあらゆるところから成長の自由を謳歌し、本来の姿に戻ろうとしている。
フジの紫が山全体を覆いつくし、私はその色にただ癒されていた。
昔から紫はわりと好きな色であった。それも少し薄い紫色。
瞑想するときに自分の呼吸が深くなっていくにつれ、目の裏に紫色が見えてくる。その色は私を穏やかにさせてくれた。
自分自身に戻ることができる色でもあった。
「カラーパープル」という映画を学生の時に見たことがあり、何年も後になって、あれはなぜ「カラーパープル」という題名なのか知りたくてアリス・ウォーカーの原作を手にしたことがある。黒人、女性という2重の差別にあう主人公がその人生を受け入れていたけど、自由に生きる黒人女性に出会い開花していく物語だった。なぜ彼女は自由に生きれるようになったか。当時のアメリカ南部では紫色の花が非常に多かったらしく、その花の紫の美しさに気づくことが自分にもできるということが最初の一歩であった。
自然は分け隔てることなく、与えられている。それは誰もが平等に。
私自身、自分の人生は閉じ込められているようなところがあり、ずっと母に支配されてきた。振り払うことが絶対できない鎖をつけられているように自由に生きることが困難であった。私の中では何度も抵抗し、突き放そうとしてきたものだけど、そうすることができなかった。そしてどこかで自分の人生をあきらめていた。「カラーパープル」の主人公のセリーのように。
深いところでは強い憤りもあり、動悸が早くなるとともに落ち着かない、ただ自分の存在をなくしたいような衝動にかられ、やがてどうにでもなれというような無気力な感覚に襲われることがある。そうやって母の存在は常に私の見えないところでも支配されてきた。
紫というのは自分にとっては自由の象徴かもしれない。ただ清々しくこれまでの私を清め、本来の自分になるような気がするのだ。
フジは蔓性の植物なので、背の高い木に巻き付きながら成長するため、かなり高い位置にあり、見上げたり、遠くから眺めることでしか見ることができないことが多い。どうにか手に届くところで咲いているものはないかいつも訪れる山を歩きながら、探してはいた。
だが、見切りを早くからつけて、その日フラワーエッセンスを作ろうと思う植物を別で見かけて作ることにした。それはそれでよい時間ではあった。
お昼を過ぎて、帰り道、いつもは歩くはずだった道に目を向けてみると、目の高さに薄紫色が見えるではないか。目に飛び込む色に息をのむ。なぜ、この道を行くときは見なかった。方向転換してゆっくりとその花に近づいた。フジの花だった。
おまえはここにいたのか。
石ころだらけの細い坂道の途中にアーチのように木で覆われた場所があり、そこにフジの木は自らおじぎをするようにかぶさっていた。
私は少しためらいつつ、手をのばし、その花に触れた。
※ランディさんのクリエティブ・ライティング講座に提出した課題のひとつです。指導を受けて手直ししたもの。