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愛すべき甥と母のお茶碗

私には甥がいる。身長182cm、スラリと伸びた長い手足と大きな瞳。大学卒業後は銀行員をしている、なかなかのハイスペック男子だ。幼い頃から真面目にサッカーを続け、チームプレーで培った協調性もある。性格もすこぶる良い。

だが、それらの特徴を打ち消して余りある、天性のものを彼は持っているのだ。人を笑わせる(に笑われる)能力が尋常なく高いのである。

子供の頃は、4歳上の姉のパンツを履いてサッカーの練習に行ったり、(それも、太ももを通す部分から履いて、いわゆるクロッチの部分が腰にきていたのを見て、彼の姉は悲鳴をあげたらしい)また、何度、誰が教えても、学校から帰った時に「おかえり」と声を掛けられると、「ただいま」ではなく、つられて「おかえり」と答えてしまうなど、挙げるとキリがない。

そんな彼の才能が遺憾無く発揮された出来事が、昨年末、彼の祖母でもある、私の母の葬儀で起こった。お通夜の寝ずの番で、彼と彼の父、つまり私の兄が、葬儀会場の控室で一晩過ごした翌朝のことだ。

兄たちが一旦、自宅に戻るとのことで、私は線香の番をするために、控室を訪ねた。最近の葬儀会場の控室は立派なもので、キッチン、お風呂、寝室と、終の住処にしたくなるような、過ごしやすい設備が整っている。玄関を開けると、正面の襖の向こうがダイニングスペース、右手の引き戸は、遺体を安置する祭壇がある広間へ、左手の引き戸は、キッチン、お風呂、寝室などへと続いていた。

「おはよう。」と声を掛けて玄関を開けると、兄と甥は、バタバタと朝の身支度を整えている最中のようだった。私は右手の引き戸を開け、広間に入った。眠る母の口元をしきみで湿らせ、線香を灯し、ダイニングの襖を開けた。ダイニングテーブルの上には、朝食として食べたのであろうパンの残りと、葬儀に関する打ち合わせのための書類、そして、その隣にお茶碗が一つ。それは、出棺の際に割って、母をあちらの世へ送り出すという儀式に使うために用意したものだった。お茶碗は、その上に箸をきれいに揃えた状態で置かれてあった。

「もしや?」と思った。手に取ると、明らかに使った形跡があった。甥に違いない。他にも器はあったろうに、儀式用にと家から持ってきた母のお茶碗をまさか使ったとは。彼も葬儀は何度も経験しているはず、お茶碗の儀式を忘れてはなかろうに。私は大爆笑で、「これ、使うたん?」と尋ねた。兄も「さすがやろ。」と笑っていた。甥は「あ、いや、片付けるつもりはあったんやけど。」と照れ笑いした。彼は、いい歳をして、食べた後の食器を自分で片付けなかったことを笑われたと思ったようだった。その、お門違いの恥じらいを見せる姿に、兄と私はまた吹き出した。

母を見送るという、大きくて重くて悲しくて寂しい出来事の思い出が、また一つ笑える話になった。愛すべき甥のおかげである。


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