ぼくのかんがえたさいきょうのぶんかしせつ

佐々木秀彦『文化的コモンズ―文化施設がつくる交響圏』(みすず書房、2024年)

はじめに

 「文化的コモンズ」という概念は、近年、文化施設に期待される役割として使われているタームである。一般財団法人地域創造が刊行した報告書の中で提言したのがこの概念である。

 本書では、この「文化的コモンズ」をキーワードとして、博物館、図書館、公民館、劇場・ホールという4つの施設を総合的に取り扱い、日本の文化行政にとってこれらの施設が果たすべき役割、望まれる法的制度、施設のマネージメントやガバナンスのあり方を論じている。 
 
 以下、本稿では本書の構成に沿って概要を論述した後、興味深かった論点についてコメントしたい。

1 本書の概要

 本書は本文だけでも590ページを超える大著であり、そのすべてをここで紹介すると冗長になってしまうため、概要を述べるに留めたい。
 本書は大きく、導入である「はじめに」と第Ⅰ部と第Ⅱ部、そして「おわりに」から構成されている。本書中でも、構成について触れられているので、著者の意図に沿って構成について概要を以下に示す。
 序に当たる「はじめに」では、文化芸術が持つ意義、文化的コモンズとは何かについて触れられており、これから始まる大著のエントランスとも言える記述になっている。「文化施設は、社会的共通資本である」(p.15)という、経済学者宇沢弘文の考えを引用した定義のもと、文化施設の社会における重要性が述べられている。
 第1章から第5章までが「第Ⅰ部 その連なり」としてまとめられている。第Ⅰ部においては、本書が横断的に論述する博物館、図書館、公民館、劇場・ホールの歴史がたどった歴史が整理されている。
 各施設についての歴史を述べるだけでも、一冊の本ができるほどの部分であるし、これまで研究で語られているところである。本書においては、「各分野の、その人抜きには語れない「創設者」、「中興の祖」といった人たちに着目し」(p.20)て論述しているところに本書の特色がある。
 この第Ⅰ部全体が、本書全体の議論の前提として提示される壮大な伏線のような役割がある。それぞれの施設の歴史的営為から何を学ぶか、今に活かせるヒントはないか、読者は文化的コモンズのいわば「英雄たち」の事績をたどりつつ、自身の現代的課題意識を投影しながら第Ⅰ部を読むことになるのではないか。
 
 そして、続く第Ⅱ部こそ、本書という巨大な宮殿の大ホールといったところだろう。
 
 第6章は「文化施設4・0」と題して、第5章までの「歴史」という視点を受け継ぎつつ、各施設が現代までにどのような転換期を経てきたか、そして、現代においてどのような役割が期待されているのかを述べている。
 第7章「文化的コモンズの意義」、第8章「文化施設のガバナンス」、第9章「当事者の役割」、第10章「文化施設のマネジメント」とつづく一連の章は、宮殿の謁見の間のごときまぶしい理想を描いている。
 まず、第7章では文化権の問題が取り上げられる。日本国憲法第25条の規定から、文化権が導出され、それを保証するための立法措置として文化芸術基本法があるという考え方である。そして、阿部謹也の「世間論」や、網野善彦の「無縁・苦界・楽」、サードプレイスなどの議論を引きながら、文化(や文化的コモンズ)が現代のアジールとして機能することを述べ、本書のサブタイトルにある、文化的コモンズが新しい公共が響き合う舞台となる「交響圏」となり得るのである。
 第8章では、このような交響圏を作り出すための文化的コモンズにおけるガバナンスの理想的なあり方について述べられる。ここでは、施設の利用者である市民、コモンズの設置者、そして、各施設における専門家がそれぞれの頂点を形成する「統治の三角形」という図式を描いている。市民の文化施設への共感(シンパシー)、専門家の職業倫理、施設設置者のポリシーがバランスをとり、各施設の持つ使命を理解してこれを運用していくことが大切である。この理想を具体たらしめるガバナンス手法として、著者は評議会制の導入を提案している。市民や有識者が各施設の評議会を形成し、施設の運営方針や予算などの重要事項を決定するというものである。このような営みを通じて、施設の運営の責任の所在を明確化するとともに、市民討議を通じて、施設の運営そのものを民主主義の実践の場にすることまで著者は見据えているのである。この点についてはまた後段で所見を述べたい。
 第9章では、各施設における当事者-上記の「統治の三角形」の各頂点-の役割が、スタッフ、利用者=市民、設置者それぞれについて、どのような関わり方が求められるかが詳述される。読者の立場によってそれぞれ響く場所が違ってくるかとも思われるが、施設の理想的なガバナンスのためにはそれぞれの立場が、しっかりと自分の役割を認識することが重要であることを改めて感じさせられる。
 第10章では、望ましい文化施設のマネジメントのあり方が述べられる。これまでの評価一辺倒(そもそも、文化施設は数値的な評価が困難という課題を抱え続けている)から、制度運用の振り返りや、J.ジェイコブスの理論を引きながら「市場の倫理」を持ったガバナンスこそが重要であると筆者は説く。そして、理想的にはピラミッド型の組織ではなく、DAO(Decentralized Autnomous Organization;分散型自立組織)こそが施設運営の理想的な施設であると述べる。
 最後の第11章では、実際に行われている各施設の事例紹介が置かれており、ここまでの理論を具体化したショーケースと言ったところであろうか。各施設に関する研究などで取り上げられることも多い取り組みや事例がならぶが、そこでは筆者の論に沿った解釈と紹介がなされている。第11章の最後には「自治体の文化政策-文化資源の「ケア」と「シェア」」というパートが置かれ、そもそもの文化的コモンズの根幹に関わる日本の文化政策の変遷が描かれた後、地域における文化資源の取り扱いをどのように意識し、ケアとシェアしていくかという文化政策の描き方が重要である述べている。

2 そこに未来はあるか

 本書を通読して感じたのは、民主主義への信頼だった。就中、文化施設のガバナンスのあり方の理想として、評議会制度を提案している箇所にそれを強く感じたところである。著者も触れているように、現行制度下でも、施設の運営に「民主主義的」手続きをはめ込んでいるケースは多い。例えば、博物館の運営委員会制度などがそれである。
 著者も実際に博物館で勤務していたので実情は十分熟知していることと推察するが、実際に運営委員会制度が形骸化している館も多い。評議会制度というものを実りあるものにするためには、本書の統治の三角形に描かれているように、施設職員・施設設置者・市民の三者がそれぞれの役割と館のミッションを理解して、同じ土俵で議論できることが重要である。
 文化施設の運営に関してだけではなく、自治体における行政運営の多くの場所で附属機関の設置は行われている。しかし、その運営自体が形骸していることも事実である。特定の学識経験者に複数の附属機関委員への就任以来が殺到し、多忙な研究者は嫌がることも多い。あまつさえ公募委員も同じ人ばかりが応募してきたり、地域代表者も町内会長や連合町内会長がまるで宛て職として引き受けたりしている実情がある。これは特定の地域だけではなく、多くの自治体の、多くの同様の組織で見られる傾向ではないか。
 文化施設のガバナンスは、「市民の意見を反映」し(これもよく自治体運営で叫ばれるスローガンである)、民主主義的な熟議の場で行われることが理想である。しかし、この理想を担うだけの民主主義的土壌が地域にどの程度根付いているのだろうか。文化施設に関心の高い「市民」だけが、施設のガバナンスに参加することになるのではないか。
 一方で、市民に開かれた文化施設のガバナンスの試みが、民主主義を地域社会にフィードバックすることにもつながってくるのだろう。まさに文化施設が民主主義の学校と言われるゆえんはここにあり、著者の理想が実現するような試みが拡大していくと面白いが、いざ実践するとなると、事務局の負担は相当なものだろうとも感じた。
 本書の行論とはいささかずれるが、文化施設に携わる行政スタッフは、文化行政だけではなく、様々な現場を経験してきた職員も多い(本書でも触れられているように、ジェネラリスト養成を指向する、地自治体の人事育成方針の一面である)。福祉の一線にいた職員が配属されることも少なくない。そこでは、文化など遠い世界の話という世界が繰り広げられており、地域社会にはきれい事では済まない世界があることも事実である。
 文化的資本の格差を埋めるためにももちろん文化的コモンズは必要であり、税金を投入する価値がある。それは私も全くの同感である。だが、現実として文化で腹は膨れない。そのシビアすぎる現実の前に、文化行政は沈黙せざるを得ないのである。ジェネラリストの行政職員が文化行政に配属されることはスペシャリスト養成という観点からは問題があるが、他の分野を経験したからこそ、文化行政に活かせるという一面も当然存在する。社会の底辺の実情を知っていることは、文化行政スタッフにも必要な観点かもしれない。
 文化よりパンに手を伸ばす市民がいる。これから日本の経済が悪化し、経済格差が広がり、階層分化が進めば、そのような市民も増える一方になるだろう。そのとき、文化というものが一部の階層のものだけになってしまわないだろうか。

3 シュヴァルの理想宮

 本稿のタイトルにも冠したが、ネットスラングで「ぼくのかんがえたさいきょうの○○」という表現がある。考案した本人の対象に対する愛と本気を、第三者が多少の皮肉を込めて評する際に使われる表現と言っていい。
 本稿ではキャッチーにこの表現を使用したが、そこに込めたのは本書への皮肉では決してないことを明言しておく。
 
 作者の文化施設への愛と、将来を憂えることの本気度の愚直さへの尊敬である。
 
 本書に描かれる文化施設の理想像は、現状を鑑みればまさに「ぼくのかんがえたさいきょうのぶんかしせつ」なのだ。そんなことできるわけないだろう、と訳知り顔の専門家や実務家からの批判が起こることは想像に難くない。しかし、それでもなお本書を世に問うた作者の問題意識は、文化施設に関わる人々が共有するべき関心である。
 本書の「おわりに」のなかで、作者はこの本の執筆を「シュヴァルの理想宮」に喩えていた。一つの石との出会いから、たった一人で黙々と石を集め続け、巨大な宮殿を作り上げたシュヴァルの営みと、本書という巨大な知的営為を一人で成し遂げた作者の業績は見事に重なっている。
 現在の文化施設が置かれた状況はまだまだ「ぼくのかんがえたさいきょうのぶんかしせつ」には遠い。しかし、作者と同じようにひとつひとつ石を拾い集め、理想の宮殿を作ろうとする営みは、文化施設や文化行政に関わる人たちがそれぞれに行っている。本書に取り上げられた多くの事例がそれを示している。
 理想は理想と嘆いていても何も始まらない。目の前の石を拾う、それを積む。多くの関係者がその営みを続けることで、「私たちの考えた最強の文化施設」が文化的コモンズとなり完成する。シュヴァルとは異なり、私たちは一人ではない。
 そして、本書にもさまざまな取り組みが実例として挙げられていたが、すでに多くの石を積む動きが現れていることに希望を感じることができる。
 
 文化行政は、兎角に世の経済動向に左右される。経済のパイがシュリンクしていく中、税金の使途が制限され、直接的なパンにならないものが排除されがちである。
 確かに、文化というものは多くの市民の腹を膨らませることはない。しかし、それは長期的にまちづくりや市民生活の土台となるのだ。文化とは、直接に病を治癒する西洋医学的な薬ではなく、ゆっくりと体を整える東洋医学の漢方薬に似ている。
 短期的な成果が見えないものに投資することへのハードルが非常に高くなっている時代だからこそ、文化への投資の必要性が理解されなければならない。その営みは市民を巻き込んで、本書が謳う「統治の三角形」を形成する、施設の設置者(=行政)、施設の利用者(=市民)、施設の専門家がそれぞれの立場で行わねばならないものなのだろう。

 本書は多くの文化施設に関する議論のこれからの参照点となる巨大な一冊であり、荘厳な理想宮である。

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