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民主的という言葉を使わない

中間前に書いたものを上げ忘れていたので。書き途中で時間になってしまったのをそのまま出すので全然終わってない部分もありますがご愛嬌。


民主的という言葉を使わない

今まで民主的という言葉を使って建築を説明しようとしていたが、民主的という言葉の持つ力があまりにも強すぎてうまく伝わらない。純粋にObjectをThingへと変えていくという点に注目したい。

自分が公園の参加者となり公園を改変するという喜びと、それによってObjectがThingへと変わっていくという体験には意味があると思う。それをどのように建築に落とし込むのかというところが一足飛びになってしまったという反省。

民主的という言葉を使わずに説明をしてみると、うまく説明できる気がする。「民主的」には不必要な程のパワーがあるのか。

ゲニウス・ロキ

僕の計画にはゲニウス・ロキの観点が足りなさすぎるという指摘。本当に正しい。

道路を剥がすということ、建物を全部剥がすということ。これらは模型の上では全く簡単なことだが、それを実際に行うことを考えた時には多くの問題が発生する。

建物や道路ではない別の環境が日比谷公園やその周囲にはあると先週言ったが、それについても全く検討ができていない。具体的にどの部分がどのような性質を持っていて、その場所ではどのような行動が繰り広げられるのか。そしてそれがもたらすものとはなんなのか。検討をして説明可能であり、それが共感できるものだとしたら成立するのであろう。

ある側面だけを取り出しすぎている

例えば道路をすべて剥がすという話。これは共感が得られない話である。例として上野公園との比較を出し、上野公園は緑への障壁は少なく距離が近いのに対し、日比谷公園は柵によってあまりにも仕切られすぎていると言った。

しかしこれはちょっと考えれば一面を拡大解釈しすぎていることがわかる。

誰のための建築か

この日比谷公園に作る建築は誰のための建築なのだろうか。

些細な良い空間を最大化させる

日比谷公園の少しでも良いと思った空間を最大化させる。
南側にいくつかあるベンチが丸くなっているだけの空間は心地が良い。内側を向くベンチは、なんとなく周囲の人々の気配を感じさせる。足元には鳩が舞い降りてきて、地面に転がるどんぐりをついばむ。

木々によって取り囲まれた気持ちの良い空間は日比谷公園の中でも南の方に3箇所ほどしか無い。日比谷公園全体にその気持ちの良い空間を巨大化させることで、新たな空間を作ることができるのではないだろうか。
木を切らない

巨大で日比谷公園全体へと広がる建築を作りたいという旨は変わらずに行く。半径120mのドーナツ状のボリュームとした。抽象的な形状としたほうが限られた時間での設計がしやすいからである。リングの幅は30mとし、延床で2万平米ほど取ることができる。

問題は、大量の木が生えているということである。これへの解決法もシンプルで、木が生えている部分のボリュームを欠くということをした。これによってただのリング状の空間から、場所ごとで空間にメリハリが生まれ、豊かな表情を見せる。

ピロティによってエリアを繋げる

そしてボリュームを持ち上げる。またピロティを作る。
特別な意識はしていなかったのだが、どうやらピロティがとても好きらしい。昔から首都高の高架下のような、明らかに人間のスケールから離れ、人間の生活に寄り添わないような無骨な物が好きだった。そこで生まれる空間の有り様には意匠は関与せず、あなたたちで好きなようにやってくださいとでも言わんばかりの設計に喜びを覚えるのだ。

話を戻す。ピロティで行われることは、人間の移動だ。現在の日比谷公園は本多静六が恣意的に引いた線によって作られた。それは本多静六の手という実に具体的な手法によるものだ。それの弊害として、日比谷公園は道によって分離している。その問題に対して抽象的な円という形で道を作ることによって解決するのだ。

今回は5メートル持ち上げたが、その理由は大きな銀杏の木の一番下の葉が大体5メートルくらいだったからである。その程度であればピロティを利用する人にも圧迫感を感じさせず、樹木の光合成にも影響が少ないだろうという判断だ。

Invisible Architecture

見えない建築。見えなくなる建築。
ここに関しては、今回生まれた形から特別な考察を深めることはできなかった。どのような建築にも言えるようなことで言えば、建築の持つ機能に集中する事によって、自分が建築の中にいるということを忘れることができる。
例えば映画を映画館で鑑賞しているときに、建築を意識することは少ないだろう。それはコンテンツによって人間が夢を見ているような状態になるのである。隣の人が座り直したりした時に現実に戻り、目が覚めるわけだ。
そのように夢を見ている状態を作ることができれば、それが建築によって作ることができれば、Invisible Architectureが達成できるのではないか。

100年先を考えるということ

100年先の建築を考えること。これはやはり、その建築が無くても成り立つものを作ることではないのか。つまり、文化である。

例えば図書館は空襲によって焼けてしまっても、日比谷公園に図書館があるということが価値となり、失ってしまった蔵書も寄贈によって再興した。野音も、日比谷公園の野外音楽堂が音楽文化の象徴としての価値があるからこそ、3代目の建物になっても皆に愛され続け、新しく4代目へと引き継がれようとしている。

文化を建築によって作ることこそが、100年という時間を考えるということに繋がるのだ。

(追記) 先日のnoteも参照されたし。
https://note.com/moribetakehito/n/n59cb971c92a2

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