金木犀の匂いを知る21歳
なにもまとまっていない文章が出来上がってしまった。うんうん言いながら書き起こす文章は辛い。少しばかり日記でも書こう。
金木犀の匂い。金木犀の匂いという概念があり、それが良いものとして扱われているという事実は知っていたけれど、金木犀の匂いがよくわからなかった。
金木犀がオレンジ色の小さな花だということは理解しているけど、それが匂いを発しているという事実があまり受け入れられないのかもしれない。強い匂いを発する花なんていうのはドクダミくらいなもので。
みんなはいつこの匂いがこの花が発している匂いなのだと理解したのだろう。義務教育でも教わらなかったし、誰もこの匂いが金木犀なんだよと教えてくれなかった。21になって金木犀の匂いを知る人間もいる。
一度もの派をすてよう。
日比谷公園の嫌なところは確実に道路の存在である。
日比谷公園の道路は人が通る道として設計されたものではなく、ただエリアを区切るために発生したニッチでしかない。しかもそのニッチは人間とクルマが通るということに利用されるのみで、道路と公園の緑化部分にも大きな隔たりを産んでいる。
人間は日比谷公園の木々から力を得るというヒエラルキーの下に成り下がっている。これは人間が道路に立って、もしくはベンチに座って緑を見るというだけの、言うならば動物園となんら変わりのない状況を生んでいるのだ。人間は日比谷公園の傍観者でしかない。
動物園で人間が動物を見るとき、人間は檻やガラスを隔てて見る。これは動物が人間に危害を与える可能性があるから、それを制御する必要が生まれているのだ。それに対して自然には人間に危害を与えようとする能力がなく、また人間もそれに怯えることはないだろう(あくまでも都市公園のスケールの話だが)。
日比谷公園をどのように変えていくのかについて考える時にこのことを踏まえると、道路を無くすことによってスタートラインに立てるというのは明確である。
まず日比谷公園の道路にあるものをすべて無くす。アスファルトの舗装はもちろん、道路の真ん中にある花壇や、端の方にある縁石も。道路が道路としての機能を失ったとき、そこには人が通った跡だけが残る。土は踏み固められ、草は生えない。人間が通る場所を誰か一人ではない人間の手によって作ることができる。
言うならば今の日比谷公園は本多静六という独裁者によって恣意的に生まれた道路を100年以上歩かされているわけであり、道路をなくした時には民主的に作られた道路を人々が選択して進むという、公共に存在し人民のためにある公園としてのあるべき姿と手法を一致させることができるのではないか。
真ん中に大きな施設を作る。音楽堂、図書館、博物館、なんでもいい。そこにめがけて来る人間によって民主的な操作が生まれる。今ある人間側へと漂白された日比谷公園が人間側でも自然側でもないニュートラルな存在となったとき、それが野生化していこうとする姿と食い止めようとする人間の折衷された場所には新たな価値が生まれる。
日比谷公園の傍観者にならないために
傍観者であることの何がいけないのだろう。この社会に産み落とされ、そこに意思は介さない。傍観者であり続けるという選択をした者を、肯定することしかできないのだろうか。傍観者であり続けようという人に対して否定をすることは正しいとは思えない。人間に自由意志があるとするならば、それは個人に選択権が生まれるのは当然の帰結である。
しかし、傍観者にならないことによる喜びがあることは認められる。人間の究極の喜びは、世界を自分の意思によって改変することである。それは棒を持って地面に線を引く、地面を掘って家を作る、他人に害を与える。それがあるからこそ人間は本能から離れ、理性を持つことを選べたのである。
日比谷公園をObjectだとするならば、それをThingとする
日比谷公園の現在は人間に見られるためのObjectでしかない。しかし、人間に公園を改変できる能力を与えた瞬間からそれはThingへと豹変する。
道具は手に触れた瞬間から道具としての機能を持つ。包丁は机に置いてある時には、薄い鋼と木でできたObjectにすぎない。しかし、手に持った瞬間にそれは食材を切ることができるThingとなり、人を刺すことのできるThingとなる。つまり、人間が積極的に関わろうとする行為が、ObjectをThingへと世界を改変させる行為なのである。
建築はそれ自体がもの派であるという主張
ある意味において、建築という手法はそれ自体がもの派の文脈に沿っているということができるかもしれない。
前回、私はもの派という芸術潮流は、ObjectをThingに変えることによって作られたものだという結論に至った。それは、もの派において使われているモノは一般的に人間が創生していないものや、人間が創生したがごくありふれたナチュラルなものであり、普段の生活の中においてはそれを特別視していることはないことにある。このObjectはもの派の芸術家によってなにか特別な意義のあるものに昇華される。ObjectをThingにする。これがもの派の究極の行為であると捉えられる。
それを考えると、例えば一般的な民家を作る時に、丸太から木材を切り出して柱や梁へと姿を変えさせる行為は、人間が自然物を組み替えることによって特別意味のもったものへと変換させる行為なのである。つまり、木材というObjectから、柱や梁といったThingへと変わっていく。
これは論理の抽象化から具体化させる際の変換に問題があるかもしれないが、少なくともその文脈を読み取ることは不可能ではない。
主張と手法を一致させる
ライプニッツは目的に対して手法を一致させるための普遍的な記号を求め続けた。目的に対して手法が一致していれば、求める結果への道筋が明快になるのだ。(下のリンクのはじめにがわかりやすいかも)
https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/5681/files/3.pdf
ObjectをThingに変えるという根底にある概念に基づき、人々のための公園は民主的である必要があるという主張のために、人々のふるまいによって形成される公園という手法を用いている。私の中では一つの筋が通っていると思うが、どうだろうか……