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構デの椅子、100年後の設計論、生活の垢。

構デの椅子

構デの作った椅子を貰った。自分もエスキスしたチームの作った作品だったし、特にそのチームのやりたいことが面白そうだと思っていたのでそれが形になったのはとても嬉しい。

合板2枚を丁番で開くように張り合わせ、座面は三角形のアクリルとなっている。折りたたむと厚みは3センチくらいになり、重量は1キロくらいで少し持ち運ぶ分には問題ない。

この椅子の何が良いかといえば、カスタム性が非常に良いという点だ。合板とアクリルという素朴な素材でできており、例えば合板を塗装できたり、穴を開けるということもできる。これは木という素材の特性を活かした上手な設計だ。

アクリルにもその素材を邪魔しない良さがある。座面を乗せた状態でも合板の内側を上から見ることができるのはカスタマイズする楽しさが増える。
僕がカスタマイズするとしたら、まず全体にヤスリをかけ、バリを取り除く。木材に穴を開け、指を入れて持ち運びがしやすいようにする。現在の椅子は持ち運ぶ時に手を引っ掛けるところが無く、手に力を入れなくてはいけない。

そして合板にニスを塗る。僕が貰った椅子は外側にはきれいな木目があり、内側には節がある。木材ならではの表情を見せることができる。

時間ができたらゆっくりとカスタムしていこうと思う。楽しみだな。

100年後を考えるということ

日比谷公園の設計では100年後を考えさせられている。これがどういうことなのか。

なぜ建築をしようと思うのか、なぜ設計をしようと思うのか、なぜ創作をしようと思うのか。

手塚先生はいつも100年後、1000年後を考えているように思う。しかし、それと同時に、100年前、1000年前も考えている。

何かをつくるということは、自分の生きている証を残すということである。知識を蓄え続けるということに意味はない。それを自分の言葉で解釈し、表現することに意義がある。その意義というのは、他人に自己が認められ、自己が他人の知識となる。その知識が再解釈されることで、他人の作品へと昇華されること。

手塚先生が30年近く教育を続けるということは、正にそういうことなのではないだろうか。自分の作品、思想を見た学生が自分の元で学びたいと志し、学んだものを自分の言葉で表現し、発表する。自分の思考の遺伝子が脈々と受け継がれ、それは日本や世界の建築として僅かながらに残り広がっていく。自分の生きた証を、建築というもののみならず学生という媒体を使うことによって未来永劫広がらせ続けようとしているのが、彼の行いたいことなのではないだろうか。

100年後を考えるということは、自分が死んだ後の世界を想像、創造するということである。そして1000年後を考えるということは、自分が死に、自分の教え子たちも死に、しかし残っている自分の遺伝子が何かをすることを祈り続けることである。

そのために1000年前にあったものはなんなのか、知恵、記憶、先人が遺したもの、それらの遺伝子を理解し、自分の言葉で再解釈し、表現する。それは自分の遺伝子を受け継がせるための準備的な行為である。自分が行なっていることを見せ、後世の人間が模倣すれば遺伝子が受け継がれ続けるからである。

生活の垢

池袋の外れの喫茶店。アールデコな雰囲気のここは、綺麗な椅子とテーブル、色温度の低い整った空間だ。オルゴールのBGMが流れ、ただあるカフェとしては申し分ない。タバコも吸える。

しかし、どこか落ち着かない。本を読んでいてもソワソワしてしまい、何度も椅子に座り直し、コーヒーカップを持ち上げる手もいつもよりも多くなる。

上板橋の喫茶店を思い出す。あそこはとても良かった。ほとんど灯りの意味のない昼白色の蛍光灯に、太陽光。壁は灰色で薄汚く、空調は黄ばんでいる。椅子は低く、座っていても薄いスポンジの下にはスプリングを感じる。店員のおばさんは気怠そうにしており、近所のおばさんがくればタバコを吸いながら雑談をする。初めて入る喫茶店のどこか緊張感のある空気に、あなたを認めているわけではないけど勝手にしてなと言うかのように昆布茶を出してくる。

そういう無理に作られていない、人間の手の垢が蓄積された空間には、それにしかない喜びがある。やけに整頓された空間では人間はそこを汚すことを躊躇う。むしろ、少し汚れた空間の方が手に馴染み、そこに自分の垢を置いていても許される。

人間は漂白された都市に立つ鳥跡を濁さずと言ったように自分の痕跡を残さなくなる。そこに愛着が湧くのだろうか。その空間に置いておけるものはなく、自分の記憶にだけ埋められる。

自分の垢を残すということは、自分がその空間に対しての行動がその空間自身も認め、それを私達もが認めるという双方向の関係となる。その行動こそが愛着をより強くするのではないか。

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