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都市の価値の居場所

検索性


少し先の未来を考えてみても、いままで人間が都市で行ってきた行動の大半はインターネットによって置き換えられるだろうというのは想像できる。買い物は10年以上前にインターネットで代替可能になり、生活する上では事足りるようになった。


都市の価値を考えるとき、物理空間で人間が生きるときに起こる出来事に注目する。インターネット空間で自分が欲しい物にアクセスするときには質量の移動はなく、情報のみが一瞬で移動する。それに対し都市という空間においては、物理空間で人体を時間をかけて移動させるというプロセスが必須になる。インターネットで一瞬で情報にアクセスできるということを「検索性が高い」と定義するならば、時間をかけて移動するということは「検索性が低い」ということとなる。


検索性が高いことが示すものは、人間が余分な情報を得るということがなくなる。しかし、人間が生きていく上ではそれだけではつまらなくなってしまうのだ。検索性の低い世界で人間が体を移動させながら得る情報にはインターネットで得る以上の質と量のモノがある。それは匂い、風、音、視覚、感覚。人間は物理空間にいるときには五感をフルに働かせて世界と繋がる。インターネットには目と耳からのみ情報を得ることができる。これが貧しい情報だというのは明らかだろう。


そのような検索性の低い物理空間では、検索性と引き換えに様々な感性によって情報を摂取し、選び取ることができる。そこにはたくさんの出会いがあり、しばらくの間にはインターネットには替えようのないものである。


祝祭性

人間が物理空間で同じ飯を食い、同じ酒を飲み、同じ火を囲い、同じ歌を歌うという行為は、人間の文化を形作る上での根幹にあるものだと言える。例えば、歌を歌うという行為はどのような文化においても見ることができる。このような行為は人間を人間たらしめるものだと捉えることができるだろう。


現代人は、どのような行為でこのようなことを代用できているのだろうか。一つの火を囲むという行為はキャンプでのみしか行われなくなった。同じ歌を歌うという行為はなんとなく自然発生的に起きることやカラオケに行けば起きるが、稀になった。


ライブを見に行く、スポーツを見に行く、映画を見に行く。これらは昔よりもその場に行くことの価値が高まり、その場にいる人間はそれに熱くなれるのだ。その背景には、それらが安く消費されてしまうという現実がある。ライブもYouTubeを開けばスマホの小さな画面で見ることができる。スポーツはスーパープレイだけをスクラップしたものを見て手を叩き、映画は2倍速で見るなどはまだ良くて、誰かが5分にまとめた合成音声とスクリーンショットによってストーリーを叩き込まれる。

人々が空間を共有するということには確かな価値がある。それを否定してしまえば、都市の否定。ひいては建築への否定となってしまう。


現代の人々は空間を共有しているのだろうか。その議論をするにはまず、空間を共有するということが何なのかを定義しなくてはならない。


空間の共有には段階がある。例えば同じ地球、宇宙にいるというだけで空間を共有しているとも言えるだろう。しかし、この課題の中では「人と人との心が共有されている状態」と定義したい。具体的に述べていく。

現代は人と人の心が共有されていないのだろうか。私はYESと言いたい。渋谷を見たとしても、誰もがスマホを見て街の誰もを感知しようとしない。カフェに入って眼の前に彼氏、彼女がいるのに、スマホで空虚な文字の配列を目で追っている。そんな世の中は心が共有されている状態だとは到底思えない。

そんなことを言ったって、全員がそうじゃないと言えるだろう。ではもう少し広い視点で見てみることとしよう。例えば誰かが道を聞いてきたとしたらどうだろうか。なんのためらいもなく返事ができると胸を張って言える人はごく僅かだろう。現代人である我々はスマートフォンを通じて円滑にコミュニケーションを取ることができるが、それと引き換えに自分のコミュニティの外にいる人々と空間を共有するということを失ってしまったのだ。それはそれぞれが都市という物理空間に開かずに自分の内側に閉じこもっているということの証左である。

そのような社会での都市の価値というものを再考しなくてはならない。それは渋谷という都市に存在することとなる東京都市大学大学院キャンパスは、誰かがそこに住むわけではなく、家からそこへ通って学ぶ場所である。それにはその場所に建っているという必然性はないため、価値を作り出す必要がある。

人々が自分の中に閉じてしまった現代社会においては、なにが都市の空間としての価値になるのだろうか。私はその一つに祝祭性を掲げたい。

祝祭性とは、人間が一つの空間を共有し、動物的な喜びを感じることである。具体的に言えば、冒頭で述べたような同じ飯を食い、同じ酒を飲み、同じ火を囲い、同じ歌を歌うといったような行為だ。更に現代ではライブを、映画を、スポーツを観に行くといった行為もそれに含まれると言える。これらは自分の中に閉じこもること無く、自分と他人の境目を感じること無く喜びを分かち合うことができるのだ。例えば、酒を飲めば知らない隣席の人と話が弾む事もある。スポーツで贔屓のチームが得点を取れば隣の人とハイタッチをして共に喜ぶことがある。こういった自分を自分の中に閉じること無く、同じ空間を共有し動物的に喜ぶような祝祭性にこそ物理空間の価値、都市の価値というものは残るのでは無いだろうか。

おまけ

Chat GPTに反論を考えさせました。日本語と英語でかなり差が出たな。

日本語

技術とデジタルコミュニケーションの進歩によって、現代の人々は実際の物理的な場所に存在しなくても、豊かなコミュニケーションや文化の共有を可能にしている。オンライン上でのソーシャルメディアやコラボレーションツールを通じて、人々は世界中の他の人と交流し、情報やアイデアを共有することができます。これにより、物理的な場所に存在しない状況でも、人々の心が共有される可能性があります。

現代の都市では、異なる文化やバックグラウンドを持つ人々が集まり、多様性と交流が生まれています。都市の魅力は、異なる意見や経験を持つ人々が出会い、相互に学び合う場所であることも含まれます。このような異なるバックグラウンドの人々との交流は、物理的な共有空間だけでなく、オンラインや仮想空間においても発生しています。

文化やコミュニケーションの形態は時代とともに変化してきました。歴史的に見ても、人々は常に新しい方法でコミュニケーションし、文化を形作ってきました。現代のデジタルテクノロジーを活用したコミュニケーションやエンターテイメントは、新たな形の共有体験を提供しています。例えば、オンラインでのライブコンサートや仮想現実の体験は、人々が新たな感覚や喜びを共有する手段となっています。


これらの意見は、物理空間での共有や祝祭性の重要性に対して一定の反論を示しています。それぞれの意見は、技術の進歩や都市の多様性、変化する文化の側面を強調しており、現代社会におけるコミュニケーションと共有の形態を考慮しています。

英語

文化の多様性: 説明されているように、祝祭は画一性と共有された経験を強調しているように見える。しかし、文化の多様性や個性は、画一性よりも重視されるべきだという反論もある。異なる文化的慣習、言語、喜びの表現を受け入れることは、社会を豊かにし、人間の経験に対するより包括的な理解を促進する。

技術的コネクティビティ: この議論では、スマートフォンが人間同士の交流や共有スペースの喪失に与える悪影響が強調されている。反論は、テクノロジーは実際につながりを強化し、新しい形の共有体験を生み出してきたとするものだ。バーチャル・コミュニティ、ソーシャル・メディア・プラットフォーム、オンライン・イベントは、物理的な距離がなくても人々がつながり、喜びを分かち合い、共同活動に参加できる手段を提供してきた。

個人の嗜好と自律性: 共有体験や動物的な喜びを強調するあまり、個人の嗜好や自主性の価値が見落とされている可能性がある。自分独自の興味や活動を追求することに喜びや充実感を見出す人もいるだろう。個人的な体験を選択し、個々にそれに取り組む自由は、祝祭の共有体験と同等の価値があると主張するかもしれない。

おまけ2

タイトルも考えさせた。

人と人とのつながりを再発見する: 祝祭の価値
共有された伝統の現代的な代用品: デジタル時代の祝祭
共有の空間、共有の喜び: 祝祭の力
地域の絆の復活: 現代社会における祝祭性
一体感を解き放つ: 祝祭と都市体験


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