2週間後の祝祭性
つづきです
祝祭性とはどういうものなのか。2週間で考えたことなどを。
祝祭の風景
前回は祝祭性がどのような風景で起こるのかをしっかりと分析していなかったので、それについてしっかり分けながら考えてみる。
1つ目はモノを中心に取り囲むカタチ。
キャンプファイヤーなんかがわかりやすい例。モノを中心にして作られた祝祭的風景には、取り囲んだモノには大きな意味はなく、取り囲んだ人々の振る舞いに重心が置かれる。歌を歌い、踊り、対話をする。モノというコンテンツを拠り所として、人々の空間の共有がこの風景の中心である。
2つ目は一つのモノを観るカタチ。
これはライブや映画がわかりやすい例だろう。多くの人々が同じコンテンツを観ることで空間を共有する。そこには人々の対話は無いながらも、舞台上やスクリーン上のコンテンツを観ることで人々は熱狂し、それによって生まれる空気感を味わう。先程の取り囲むカタチを直接的な空間の共有とするならば、これは間接的に空間を共有していると言えるだろう。
3つめは上の2つとは少し毛色が変わる。入り交じるカタチだ。
これはどちらでも無いという形式を取りながらも、最も重要な祝祭のカタチであるように思える。
シャンパンファイトやスペインのトマティーナ(トマトを投げあう祭)などはその例であろう。卑近な例を出すのであれば、クラブで踊るというのはわかりやすいのだろうか。
この例に見られるのは、普段の世界(ケ)ではタブーとされていることが、祝祭(ハレ)においては推奨されるという、常識と非常識が逆転されるということである。先の例に出したものでも、シャンパンを掛け合うという行為は普段の世界においては絶対に行ってはならないものだし、トマトを投げるというのも同じである。しかし、祝祭という場においてはその禁忌を行うという背徳的行為が人間を興奮させる。
現代日本ではこのような常識と非常識が逆転するという祝祭は全く無いと言えるだろう。シャンパンファイトのようなものはスポーツで優勝したチームがしている映像をテレビで見るというのが精一杯である。長野県の御柱祭という毎回のように死人が出る祭りにおいても、近年では安全面から怪我人が出る程度に収まっている。
倫理観が逆転するようなハレがあるおかげで、ケの世界において人間が文化的な生活を送ることができたのだろう。それをポリティカル・コレクトネスのような誤った過剰な倫理観で止めてしまうことで問題は生まれてしまうのではないか。
性と祝祭
この話は今回の祝祭性を考える際に必要なことだとは思っていたが、文章にはしていなかった。
性と祝祭というのは必ず切り離すことができないと感じる。ブラジルのサンバカーニバルなどを考えれば分かりやすいかもしれない。女性が下着のような格好をして、踊る。その踊りは女体を強調させるような動きであり、性的なものと切り離すことはできないだろう。
更に過激な話をするとしたら、原始時代には祭りの中で大きな焚き火を囲みながら乱交が行われていたという。これは現代にも形骸的に残されており、正月に行われるどんど焼きはそれの名残と言われている。
私はこの2ヶ月ほど、都市の価値、ひいては物理空間の価値について考えてきた。これはインターネットの発達によって都市の価値が減少していく。それは直接的に建築空間の価値も減少していくと言えるからである。
これを性の話に絡めるのならば、セックスは物理空間の価値を最大限に保ち続けるコンテンツであると言える。インターネット上では肌に触れることはできないことであり、なにより人類の種としての継続は不可能である。
これが直接的にキャンパス課題に活きてくるとは全く思っていないが、人間が人間として営みを続ける限りは、都市というもの(少なくとも渋谷)は無くならない。大きな声では言えないし言うつもりもないが、都市の価値の一つの答えであることは確かである。
雑記
今回の祝祭性という言葉は、検索してもらうとわかるが落合陽一氏の言葉を拝借したものである。また、思考や理論の多くは宮台真司氏の言葉から影響をうけたものである。とても胡散臭い。
人間社会がどのようにして自分という内側に閉じこもってきたのか、どのようにしてそれを開けばいいのかというのは、ずっと考えてきたことではある。祝祭性という言葉はそれに対しての一つの解答である。
https://www.10plus1.jp/monthly/2017/09/issue-05.php
先輩にこれを読むといいと勧められた。非常にためになったが、一箇所だけ疑問に思った点があるので、後で覚えていたら更新したい。