愛情ハカセ
観ました。
ブラックコメディの中でも
作品が批判対象に対して代案を提示しない
ようなものが好きです。
批判には責任が伴って然るべきだと思います。敢えて二分化すると、その責任が、
●「代案の提示」という形で表明されるのがプロパガンダ。
●「笑い」という形で表明されるのがブラックコメディ。
なのではないかと。
気軽に代案が出せないようなことだってあるわけです。例えば大量殺人兵器保有による軍事的抑止力の是非だなんて、自分には考えたくもない問題です。そのような議論とは距離をおきたいとさえ思うことがあります。
距離をおきたくなるようなことが題材としてあったときに、それでも目を背けず、嘘がない形で自分の作品に昇華できる方法。それがブラックコメディなのではないか。という考えに至りました。
私事になりますが、以前「嫌いなことはしたくない」と泣き喚いていたところ、尊敬すべき先輩より「そのようなことではプロフェッショナルとは言い難い」と指摘頂いたことがあります。自分はその言葉に説得力を感じ、「プロとは好きではないことにも直面せざるを得ない、辛い職業なのだ」と解釈しました。好きなことしかしたくなかったため、これは絶望的なことでした。
不躾な仮定になりますが、もしかすると、偉大な先人達にも似たような悩みがあったのではないでしょうか。
すなわち、
その題材は好きではない→同じ土俵で物事を考えることも烏滸がましい→ただし、それがいかに馬鹿げているのかを挙げることであれば、全力で取り組むことができる
––というようなプロセスです。
仮にこのプロセスがブラックコメディのルーツの一部だったとして、ブラックコメディの「笑い」は、製作者から批判対象への最大限の誠意のようにも感じられます。直視することが難しい概念にも、「笑い」という大義に基づいた深い観察を行うことで、作品に偽りの無い純粋さが生じるのだと思います。
ブラックコメディとは、好きではない題材とも誠意を持って向き合う手段なのです。断言してしまいましたが、あくまで妄想の話です。
飛躍気味ですが、「Strange Love」とは、問題に対しコメディを探す、その真摯な眼差しのことを指しているようにも感じてとれました。
「博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」は古い作品ですが、現代の自分にとっても腹をかかえて笑える作品でした。嫌いなものに囲まれた世界で、嫌いなものを嫌いなまま愛し、その結果、素晴らしい作品を産み出すことは可能だと、この笑いが証明しているようにも思えました。
未だに時々泣き喚いている自分にとっては、少しだけ背中を押されるような心地がしたのでした。
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