双極症と診断を受け、4年の空白期間を経て一般就労する話。
どうも、普段は元気に同人オタクをやっている者です!
いつもは気が狂ったオタクの記録を記事にしているのですが、今回はちょっと真面目な話といいますか、私自身の話を某しくじり先生的な感じで記事として綴ろうと思います。
私は約4年前、双極症(双極性障害II型)の診断を受けました。
発症はもう少し前からでして、病院を渡り歩いてやっと病名がついたという経緯でした。当時は不調の原因が分からず、ずっと不安でしたが、病名が分かってホッとしたのを覚えています。
ですが、診断を受けてからが本番。山あり谷ありみたいな日々を過ごしました。
私みたいな苦労をできれば皆さんにはして欲しくないし、かくいう私も先人の発信をたくさん参考にしていたので「今度は私が誰かの役に立てればいいな」と思い至り、記事にする決意を固めました。
また、この4年間で私は身をもって多くのことを学びました。
特に、福祉サービスとの付き合い方、そして一般就労及び社会復帰の難しさには何度も悩みました。
症状のことは本や記事などで学べても、こういった類のことは情報が少なく大変でした。だからこそ、こうして記録として残したいです。
できる限り読みやすいように淡々と書いていますが、4年のことを書いているのでかなり長くなってしまいました。少しずつ読むことをお勧めします。
【注意】
これから綴っていくことは、あくまで※私の場合は※の話なので100%鵜呑みにはしないようにしてください。各種サービスなど詳しいことは役所や病院などで相談してみてください。
つまり「こういうパターンもあるのか〜」みたいな感じでゆるくお付き合いいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いします。
①私について
私は現在、20代後半の独身女性です。
推定発症時期は17,8歳の時。
診断を受けたのは、20代前半でした。
私は高校生の頃から体に不調があり、幾つかの病院で診てもらいましたが中々診断名が出ませんでした。体の不調がずっとある状態で高校・大学・社会人生活を送りますが、勤務中に突然倒れてしまい入院。そのまま休職→退職を経て、心療内科を受診。双極症の診断を受けました。
この話をすると、「発症から診断まで長くて大変だったね」とよく言われます。ですが、これって双極症あるあると思うのですが、躁状態になると「元気になった!治った!」と思って病院にいかなくなるんですよね……。だからこんなに診断に時間がかかったのかな?と個人的には思っています。実際、初診で診断がつくパターンの方が難しいみたいですね。私も、退職後の心療内科の通院3回目で診断が出ました。
②診断を受けてから就労移行に通うまで
診断を受けてからの私はというと、躁転しました。
長年苦しんでいた自分の体の不調についての診断名がついて、テンション上がっちゃったんですよね。それくらい、今まで原因不明で対策すら分からない状態が辛くて、苦しかったんです……。
診断を受けてから「休みましょう」と主治医に促されるまま自宅療養することになりますが、躁転しちゃってるのでもうめちゃくちゃでした。
あまり当時の記憶はないのですが、休めてはなかったですね。
ずっと頭の中がぐるぐるで常に何かしているような、何かしてないと不安というか……。
一日を有意義に過ごさなきゃ…‥みたいな使命感もありました。
そんなこんなで日々を過ごし、あっという間に3ヶ月が経過します。
「休みましょう」と言われた当初は、数ヶ月休めばマシになると思っていたのですが、
全然良くならない!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
体動かないし、むしろ悪くなってない!?!?!?!?!?
もうめちゃくちゃに焦りました。
「このまま休んでいて大丈夫なのかな?」
「これ以上空白期間が増えたらどうなってしまうんだろう?」
「一生社会復帰できなかったらどうしよう」
様々な不安が私を襲います。だんだん涙が溢れてきて、自分の未来が不安で仕方がない。
自分でも「今はまだ万全の状態じゃない」「今働くのは無理」だということには気づいていました。
でも、どうしても今すぐに働ける状態になりたくてたまりませんでした。
この「働きたい」という気持ちは決して、「仕事が大好き!」という訳ではなく、働かないと・社会の歯車にならないと自分に価値がないと思っていたからです。価値がないということは両親や友達、みんなに捨てられてしまう。そう本気で思っていました。
今思えば、この考えがかなり間違っているんですよね。でもこの時の私はそんなことに気づいていませんでした。
それに、躁状態の時って何か動いていないと気が済まないというか……じっとしていられないと言うか……でも突然泣き出しちゃったり心は不安定。なのに一刻も早く働きたくてしょうがなかった。
今思えば混合状態だったのかもしれませんね。
そして焦った私は、インターネットを徘徊して情報を得ようと考えました。「私みたいなどうしようもない人ってどうすればいいんだろう?」と藁にもすがる思いで……。
その結果、”就労移行支援”という福祉サービスの存在を知りました。
就労移行支援とは、ざっくり言うと障害者の就労をサポートしてくれる事業所です。就労までの準備、就職活動、就労した後の継続支援などを手助けしてくれます。
正直、ええやん!と思いました。
この頃の私は障害者手帳を取得していなかったのですが、自立支援医療制度を使っていれば利用できるとのことで、早速、通院していた病院に常駐している精神保健福祉士さんに相談しました。(行動力の鬼)
すると、とある就労移行支援を紹介されました。
考える余裕がなかった私は、安直にそこに通うことに決めました。
ですか、まぁそこでは色んなことがあり……。私の認識していた移行支援とはちょっと実情が違いました。
③就労移行を半年ほど通ってから辞めるまで
就労移行について、りたりこさんはこのように説明しています。
「就労移行支援は、障害者総合支援法に基づいて定められた障害福祉サービスのひとつです。障害や難病のある人が一般就労を目指す際に利用できます。
就労移行支援事業所では、その人に合わせた個別の支援計画に沿って、働くための知識やスキルを身につけることができます。また、これまでの経験を支援スタッフと一緒に分析したり、さまざまな職場での見学や実習を経験したりしながら、自分に合った業務や職場環境を探すこともできます。就職後には、職場にスムーズに慣れるための支援を受けることもできます。」
↑継続支援との違いについてわかりやすい図など載っているので、詳しく知りたい方はURL先をどうぞ
ざっくり言うと、働く気がある人が就労できるようにサポートしてもらう場所です。(少なくとも私はその認識でいました)
ですが、私の通っていた移行支援はなかなか就労への準備をさせてもらえませんでした。
私が「就労の準備がしたいです」と言うと、「まだその時ではない」「もっと体を慣らしましょう」と支援員の方に言われ、通所の継続を勧められました。通所してやることといえば、PCを使ったMOSの資格勉強。(当時MOSを取る気はなかったのですが、他にやることがなかったので渋々やってました)
りたりこのURL先でも書いてある通り、移行支援は利用期間が2年と決まっています。
いつか就労の準備ができると信じて通所をしていました。しかし、そんなこんなしている間に気付けば半年が経っていました。
利用まであと一年半しかない状況に私はものすごく焦りました。
確かに、当時の私はとても就労できる状況じゃなかったと思います。体調も安定していませんでしたし、精神面もかなり不安定でした。今振り返っても、とても就労に移行できる状態じゃなかったです。
ですが、じゃあどうすればいいかを一緒に考えて欲しかったのに、そういう時間はなく、ただただ日々通所して作業して。就労の準備について話すと就労することを否定される。
私は就労したいから移行支援に来たのに……2年の期限があるのに……という不安から始まり、やがて自分の将来についての不安でいっぱいになって、事業所内で何度も泣きました。
「エ…事業所で泣いてるの?ヤバ……」となったそこのあなた!
我が事業所では、いつも誰かしらが泣いていました。なので私が泣いてるのは珍しい光景ではなく、ノーーープロブレムでした!!!!!!!!!(謎のドヤ顔)
ですが今思えば、就労したい!と思って通っている人がいる移行支援でみんなが泣き出すこの光景って異常ですよね…。私含めた全員がとても就労できる状況ではなくないか……?(それって就労移行としてどうなんだ…?)
毎日泣き喚いている私の荒くれように、支援員の方々も色々考えてくれたようで何故か「障害者手帳と障害年金をとりましょう」という話になりました。なんでそんなことになったのか経緯を全く覚えてなくて「?」なのですが、この時促されていなかったら、私は手帳を取ることも年金をとることもこの先なかったと思うので、結果的にはこの対応にはとても感謝しています。
とはいえ、障害年金を取るために、事業所と面識のある社労士の所へ言われるがまま行かされたり(今思えば業務提携?してるの怖いよね)と、通所だけしていた生活から一気に忙しくなりました。
そして、やることがたくさん増えてヒィヒィ言ってる最中、主治医と支援員さんがバトりました。具体的に何があったかは伏せますが、そこで私はぷつんと糸が切れてしまい、就労移行を辞めました。
結果として、私は思ったように就労移行でサービスを受けることができませんでした。今となってわかったことですが、就労移行にも色々あるみたいで、もっと見学に行ったり吟味していけばよかったなーと後悔しています。一口に就労移行と言っても、各事業所によってやってることも全然違います。それを当時の私は知りませんでした。もし、移行を検討されている方がいらっしゃったら、見学に行ってたくさん質問して、ここなら大丈夫だと思えたところに通所することをお勧めします。
④障害者手帳・障害年金の申請
就労移行を辞めてから、主治医に「障害年金をとってしばらくゆっくり過ごしたら?」と提案されました。
私みたいな軽い症状でも年金取れるのか疑問でしたが、(今思えば全然軽くはない)主治医曰く「移行に通っていなければ、取れると思うよ」とのことだったので申請することにしました。
※この「移行に通っていなければ」というセリフですが、主治医曰く就労移行に通っている=就労できる状態であると認識されるらしく、年金の申請が通らないパターンが多いそうです。ご参考までに。
移行に通っていた頃は、事業所から「社労士に頼まないと年金申請できないよ」的なことを言われていたのですが、なんと社労士を通さなくても自分で申請できました。しかもそんなに難しくない。
※ちなみに社労士に頼むと勿論依頼料が発生してくるので、可能であれば自分でした方がいいと思います。
必要な書類は母に手伝ってもらった部分もありますが、(症状がひどすぎて役所に行けなかった)必要事項は全部自分で書きました。
ここに書いてある通り、申請には色々書類が要るんですけど、厄介なのが病歴・就労状況等申立書でした。
病歴・就労状況等申立書とは、障害の原因となった病気やけがについて現在までの経過を年月順に期間を空けずに記入します。
受診していた期間は、通院期間、受診回数、入院期間、治療経過、医師から指示された事項、転医・受診中止の理由。日常生活の状況、就労状況などを。受診していなかった期間は、その理由、自覚症状の程度、日常生活状況、就労状況について具体的に記入する必要があります。
ハードル高!!!!!!!!!!!!
しかも期間を空けずにって……そんなのいちいち覚えてねぇよ!!!!!!!!
幸いにも、私は紙のスケジュール帳に通院歴など記載していたので(中学生の頃からスケジュール帳を日記のようにつけているのが生かされた)どの時期にどの病院行ったのかとかの記載はどうにかなりましたが、これって要は自分の負の自己PRをしているような感覚でして……。
自分の過去と向き合う、つまり嫌な過去とか嫌な思い出を思い出す作業をしなければならないわけです。
病歴・就労状況等申立書を書くこと=自分の過去と向き合うことは、社労士に年金申請の依頼したとしても自分でしないといけない作業。だって自分のことは自分しか分からないから。
悲しいけど、障害年金を申請するにあたって避けては通れない道です。
後述で私が通う事になる就Bでも障害年金を申請しようとしていた利用者さんがいましたが、その方もこの作業が「嫌なことを思い出して辛い」と言っていました。私も辛かったです。
多分、この書類をまとめるのが一番時間がかかると思います。
そしてよく「どんな風に書いたの?」と聞かれることがあるのですが、役所で「感情を抜いて」「淡々と書くように」と言われたこともあり、当時の状況と症状で困ったことをメインに記載しました。
実際に提出した書類の一部をお見せするので、これから申請される方は参考にしてみてください。
※以下の文章はあくまで参考程度に留めてください。こう書けば通るよ!と100%保証できるものではありません。
大学受験するも結果が振るわず、絶望感から過食、疲労感、不眠の症状が強くなる。大学に進学し、環境が変わったことで気分が高揚し快活になる。しかし、秋頃から友人との間で小さな衝突を繰り返したり、急に連絡を絶つようになる。朝起きることが困難で、長期欠席が続いた。(中略)再び興奮状態になって快活になったり、突然全身の倦怠感や無気力になり、寝込むことを繰り返した。気分の変動が激しく、悩んだ末大学の学生相談室を訪ねた。
スクールカウンセラーの紹介で受診。漢方を処方され、一時的に落ち着くが、アルバイト先での人間関係による衝突で心身に負荷がかかり、嘔吐や眩暈、食欲不振など症状が著しく悪化。
治ったと思い込み薬を飲まなかったり、金銭管理ができず借金をしてしまったり、突発的に外出をしては反動でひきこもる生活を繰り返した。
涙が止まらない日々が続き受診。
炭酸リチウム、睡眠導入剤を処方されしばらく症状が落ち着いていた。無職である焦燥感から10月から就労移行支援を利用する。徐々に心身が不安定になり、倦怠感や疲労により動けなくなってしまった。不安、無力感から再び「消えたい」と思うようになり、訓練ができない日々が続き、就労移行支援を退所。
以降、外出する意欲・体力は極めて低く、食欲もない。
(読み返してて思ったけど、躁状態の時の人との衝突具合が酷すぎる……。今でも友達でいてくれている友人たちには感謝しかないです)
(今見るとだいぶ症状が重かったですね……)
あとは、受診状況等証明書を取るのがめちゃくちゃ大変でした。初診の病院で貰わないといけないのですが、私の場合、初診が高校生の時且つその病院が書類をなかなか用意してくれないクソ事務だった………。症状的にも辛くてこちらも強く言うことができず、最終的に母に相談してクレーム入れてくれたのですが、めちゃくちゃ対応悪かったらしい……。そういう病院もあるってことだけは頭の片隅に入れておいてください。
年金については以上かな。
障害者雇用も視野に入れているなら障害者手帳も取ろう!というわけで手帳同じ時期に取得しました。
こっちは診断書があればすぐ申請できたはず。めちゃくちゃ楽でしたね……。
こうして無事、年金と手帳を申請した私は約1年ほど人生の休息を過ごす事になりました。
⑤一年に渡る人生の休息
正直、記憶が殆どありません。
最初の半年は1日の大半が睡眠時間で、夕方6時くらいに起きて夕飯とお風呂だけ入って22時には寝る、という生活を送っていました。
そんな感じなので友人は勿論、同居している家族とも話していないので発声ができなくなってしまいました。発声できたとしても今度は話し方を忘れてしまって、コミュニケーションの取り方が全く分からなかったです。
そして、寝て過ごしているせいで、体が本格的に動かなくなりました。ただ、自室からトイレが近かったのでなんとか生活はできていた感じです。
他にも色々あったはずですが、記憶としてはひたすら寝ていたことしか覚えていません。
ですが、それじゃいけないと思ったのか、半年が経ったくらいに、趣味のゲームをする意欲が出てきます。
試しに、積みゲーだったファイアーエムブレム 風花雪月のDLCをプレイすることにしました。「ゲームをする」という目的が生まれたお陰で、少しずつ日中に起き上がれるようになり、自然と朝日に浴びれるようになりました。
そこから少しずつ起き上がって、廊下を歩いたりできるようになった記憶がありますが、詳しいことは何も覚えていなくて、この期間具体的にどんな風に過ごしていたか説明ができません。ここら辺の話を参考にしようとしていた方がいたら申し訳ないです。
ですが、もう少し日が経って外に出る元気が出てきた時、市民プールへ通うようになりました。障害者手帳を使うと少し安くなりますし、前述した通り私は毎日お風呂に入るのが好きなくらい水に浸かることが好きでした。
プールでひたすら歩行して、運動とリラックスを兼ねて週に1,2回ほど通っていました。
さらに元気になると、ファイアーエムブレム風花雪月で同人活動がしたくなり、有志の方が主催されているwebオンリーイベントに参加しました。
元々、同人活動は大学生の頃にしていましたが、社会人になってめっきりしていませんでした。ですが、改めてやってみるとやっぱり楽しくて。全てweb上で簡潔してしまうのも人とうまく話せなかった私にとってはハードルが低くてすごく良かったですし、楽しかったです。
そんなこんなしているうちに、友人に会ったり両親と喋る余裕も生まれてきます。(それでも、1日のうち寝ている時間の方が多かったですが……)
そんな生活の中、転機が訪れます。
「ファイアーエムブレム無双 風花雪月」 から得た勇気
「ファイアーエムブレム無双 風花雪月」という、前作「風花雪月」の外伝的な、乙女ゲームでいうところのファンディスク的なものが発売されました。
すごくすごく楽しみにしていたので、私は限定版を予約してプレイしました。
気が狂いました。
症状が悪化して以来、オタクとしてのパワーを完全に失っていたのですが、無双をプレイしたことによって息を吹き返しました。
怒涛のストーリー展開に胸打たれ、キャラクターの心情に突き動かされる、そんな熱い気持ちが沸々と湧いてきます。この時、私は感情を取り戻したのかもしれません。
やがて、こんな風に考えるようになりました。
「ゲームのキャラクターたちだってみんな頑張ってる!私も彼らを見習って社会復帰したい!」
でもいきなりあれこれするのは、私の悪い癖で、そうやって今まで何度も失敗してきました。もう同じ過ちを繰り返したくありません。
そこで、まずは継続して外から出ることを目標に、就労継続支援B型に通う決意を固めました。
⑥就労継続支援B型の見学にいく
人と喋れない、規則正しい生活ができない私は、まず体調を整えて社会復帰できる状態まで戻すことが先決だと思いました。
それには、就労継続支援B型が適しているのでは?と主治医からの打診もあり、まずは幾つか見学に行くことにしました。
就労継続支援B型とは?(以下、就B)
まず、就Bとはなんぞや?って話なんですが、こちらもりたりこのサイトが分かりやすいかなと思い、載せておきます。
ざっくり言えば、働けない人が働く訓練をする場所。みたいな感じです。
ですが、移行支援と同じで、就Bにも事業所によってやっている作業内容やカラーが全然違います。なので、絶対に見学に行った方がいいです。できるなら体験も2日以上試してみてください。作業内容・支援者・利用者の雰囲気を見て総合的に判断しましょう。
私は「就Bに通う!」と決めてから実際に通うまで4,5ヶ月くらいかけました。まぁもし、通所し始めて「合わない!」と感じたらすぐ辞めればいいです。ちなみに就Bには利用期限はないので、利用期間が短かろうが長かろうが自由です。
多種多様の作業内容
事業所と聞くと、軽作業を思いつく方も多いんじゃないでしょうか。
障害の程度にもよりますが、私は双極症以外の診断はなかったので(実は境界知能の診断は受けていますが、障害認定ではないのでここでは除外します)、作業内容の選択肢が広かったように思います。
私が探していた頃も色んな作業内容がありましたが、最近はeスポーツに力を入れている事業所も多いみたいですね。(今もし通うなら見学行ってたかもしれない)
あと、オシャレな事業所も多くなっています。スタバみたいなカフェっぽい事業所。
まぁ、後述しますが私はオシャレ系の内装の事業所に行っておりました。しかし、内装が良いからといってイコール内情が良いわけではないです。(バッサリ)
かと言って、全てが100点満点の事業所もないと思うので、何をどのくらい妥協できるかで決めるといいと思います。例えば、内装は汚いけど、事業所の全体の雰囲気が良い。とか。内装が綺麗で立地もいいけど、作業内容が少し合わない。でもこれくらいなら許せるかな。とか。
かくいう私は、何を優先したかというと、
・家から通える範囲
・自分の好きなこと/興味のあることができるかどうか
ということでした。
私は新卒で入った会社の事業が決して自分が好きなことではありませんでした。職種は営業でしたが、自分が好きじゃないものを売るというのはかなり精神的にキツかったです。その経験から、今度は好きなことがしたい。好きなことをするために外に出るきっかけを作りたい(要は、外に出るモチベーションを上げたかった)と思うようになりました。
そして、私が好きなこと/興味があることと言えば、同人活動!
つまり、デザインの勉強がしたい!と思い至ったのです。
とは言っても、私はデザインに関しては未経験。アドビも大学の時に少しだけ触っただけで、ほとんど覚えていません。
ですが幸いにも、私が住んでいるエリアにいくつかデザインを基礎から教えてくれる事業所がありました。私の頃はかなり少なかったですが、今だとデザイン系の事業所はもっと多いみたいですね。私が通っていたところよりも立地のいいデザイン系の事業所がたくさんあってびっくりしました。
他にも、ものづくり系の事業所の見学に行ったり、とにかく色んな事業所に見学に行きました。もちろん、体験も数回させてもらいました。
そして、最終的にはデザインの基礎が学べる事業所でお世話になることになりました。
⑦就Bに通い始める
就Bに通うには、受給者証を発行したり、相談支援をつけたりしないといけないのですが、私の場合、事業所がかなり手伝ってくれてなんとかスムーズに事が進みました。市役所に何度か行く必要があって大変でしたが、最終的にとても素敵な相談支援員に巡り会えて、私が事業所を辞める最後の最後までお世話になりっぱなしでした。今でも本当に感謝しています。
事業所選びも大変ですが、相談支援員に関しても妥協しないのがおすすめです。中には、事業所を辞めたいけど相談支援員と揉めて中々辞めれなかった利用者もいました。
さて、書類が整ったらいよいよ利用開始!となる訳ですが、ま〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜じで喋れんかった!!!!!!
びっくりするくらい!!!!!!!本当に!!!!!!!
利用者とも支援員とも一言も喋れませんでした。事業所には無料のコーヒーメーカーがあったんですけど、「私ごときが使っていいのだろうか……」とか考えちゃって、入所して3ヶ月後くらいに支援員に「コーヒー飲んでみますか?」って声かけられて初めて使った……。
喋れるようになったのは、入所して4ヶ月くらい経ってからかな……。
利用者からは「タメ口でいいよ」って言われてたけど、ずっと敬語使っていました……。
でも裏を返せば、それくらいみんなフレンドリーで、気さくで、優しい人が多かったです。ただ、利用者にはそれぞれ抱えてるものが違って時には衝突したりしている利用者同士を見たりもしました。ですが、問題が起きたらすぐ対応してくれるスタッフもいて、居心地は良く、結果的に自分に合っていたと思います。根本はみんな優しくて、親身になってくれる利用者もたくさんいました。
ですが、勘違いする利用者もいたりして、ちょっとそこが怖かったです。
仕事のことで話したいだけなのに「俺に話しかけてくれた!気があるんだ!」みたいな感じで、酷い人だとストーカーにまで発展していました。(そういう場合は、すぐに支援員・スタッフに相談しましょう)
デザイン業務については、最初はIllustratorの機能を覚えることからスタートしました。
私が通っていた事業所は実際のデザイン業務も請け負っている(これに関してはほぼデザイン会社と同じような感じです)のですが、私は入所して半年くらいで事業所に依頼されるデザイン業務を任せてもらえるところまで成長しました。
「へ〜!未経験なのに半年くらいでお仕事できちゃうんだ!」と思った方、いるかと思います。ですが、これは非常に稀なケースらしく、つまり私の習熟スピードが凄まじく早かったそうです。
とはいえど、デザイン業務に関する経験値が少ないので、付け焼き刃的な感じで仕事をしていました。今思うとクライアントには非常に申し訳ない気持ちでいっぱいです。少しでもより良いものを提供できていることを祈っております……。
習熟が早かった理由としては、私の興味分野に関しての集中力が凄まじかったというのもあると思いますが、
・インプットしたものをすぐに同人活動でアウトプットしていた
・自主的にデザインの本を買って勉強していた(自己負担)
のも大きかったかもしれません。
私は元来、小さい頃から習熟が遅く、人の数十倍やってやっと追いつけている状態でした。故に、当時の私は仕事を回している先輩利用者たちに早く追いつきたくてしょうがなくて、毎日必死でスキルを吸収していた記憶があります。
あと、純粋にデザインの勉強が楽しかったです。
習得したことを、同人で落とし込めるのもモチベーションが上がりました。
そして、ここは私のずるいところですが、通所以外で自主的に勉強していることを絶対に周りにバレたくありませんでした。
なぜなら「努力しているというのは他人に言うべきではない」と思っている節が私にはあって、要は涼しい顔で、出来る女でいたかったんですよね……。
実際、そういう優秀なイメージが事業所内ではついていたみたいで、「飲み込みが早くてすごい!」みたいに噂されていたみたいです。(実際は飲み込みが遅いから裏で勉強しているのに、なんだか皮肉ですね……)
この頃の私はデザイン職で食べていく気はなかった(そもそも動機が同人活動からきているので趣味としか考えていない)のですが、施設長からデザイン業務での就職を勧められるようになります。
「あなたはデザイン業界が向いてる!」なんて言われましたが、施設長は私が通所時間外に勉強しているなんて1ミリも知らないし、向いてないからこそ人一倍勉強してみんなに追いつきたいと思っていたので、自分では「向いてる」とは到底思えなかったです。特に、事業所でデザインの業務をするようになってからは余計に「向いてないな」と思う日々でした。
仕事としてのデザインの難しさを勉強すればするほど痛感していました。
ただ、デザインの勉強自体はすごく楽しかったので、ある意味そういう意味では向いていたのかもしれません。
何が言いたいかというと、デザイン業務を未経験でこれから挑戦したい!と思う方がいらっしゃったら、それなりの努力が必要だとお伝えしておきます。
後述しますが、この後私は努力が足りないと罵られます。実際、デザイン業界で就職を目指すことになりますが、かなり険しい道でした。
つまり、これだけ持て囃された私でも、努力が足りないと言われてしまう世界なのです。
こんな感じで、デザインの勉強自体は楽しいし、事業所の人間関係も円満でそれなりに楽しい日々を送っていました。
ですが、デザイン業務は就Bの作業の範囲を超えたものだと思うようになりました。
全国平均で見ると高い方だと思いますが、私の工賃は時給250円でした。
月にどれだけ仕事をこなしても、言ってしまえばサボっていても時給250円です。
私はフルタイム働いていたので、10時〜17時まで平日は事業所にいました。(月に一度、土曜日通所もありました)
なので、ざっくり計算してもらえたら私の月の工賃額がわかると思います。
また、作業に関する指導員がほぼいなかったので、入所して一年満たない私が指導員の仕事をしたりもしていました。(書面上は指導員補助という名目ですが、ほぼ指導員の仕事でした)
この指導員の仕事ですが、通常のデザイン業務に加えてだったので、結構大変でした。私の作業効率が悪いのもありますが、納品が間に合わなさそうな時は家で残業(?)していました。(当たり前ですが、家での作業は工賃が発生しないので、無賃です。)
私は、これらの要素から「利用者の範疇を超えているのでは?」と感じるようになりました。
私が通っていた事業所では、仕事を任せられる利用者に関して時給制度をとっていましたが、これはランクごとに時給が変わります。(仕事をするに満たない利用者は日給制でした)
私はずっと一番下のランクでした。他の利用者は途中で時給が上がったりしていましたが、それが何故なのか、どういう仕組みなのかは分かりませんでした。
私の経験値が低くて、まだまだな赤ちゃんなことはわかるけど……一体いつになったら私はランクが上がるのだろうか。そう疑問に思っていました。
また、私が作ったチラシに関して「本当はこのクオリティのチラシなら30万取れるけど、あなたは障害者だから3万で引き受けた」などと言われ、非常に憤りを覚えました。業界におけるチラシの相場などは私には分かりませんが、流石に障害者をバカにしすぎだろうと……。(ましてや福祉に携わってる人に言われる地獄……。)
事業所内の作業や制度、業務に関して不審な気持ちが募るばかりでした。
ですが、この頃には人とも卒なく話せるし、週5回通所のために外出できていたし、友人ともよく遊ぶようになっていました。
ここまで回復できたのは少なくとも、事業所のお陰だと思っています。
⑧事業所との決裂
入所して一年半が経過した頃、私は事業所を辞めました。
理由は上述した事業所への不満感が爆発して、施設長をはじめとしたスタッフと揉めにもめてしまったからです。具体的にどういった感じで揉めたかと言うと、大体こんな感じでした。
まず、私が「仕事量の負担が利用者の範疇を超えている。せめて工賃を上げてほしい」と主張しました。すると、「工賃はみんなの税金から出ているから勘違いしないで」と言われました。まぁごもっともなんですが、私からすれば論点はそこじゃありません。
私は話の方向性を変えて「では、どうすれば時給ランクが上がるのですか?」と聞きました。すると「あなたには努力が足りない」と言われました。
そして今度は「何故お金が必要なのか?」「もう少し頑張れば、月10万渡す」などと言われました。
正直、意味がわかりません。「もう少し頑張れば」というのは具体的になんなのか教えてくれないし、「どっからその10万って数字は出てきたんだよ……」と呆れました。
そして、この話し合いの中で、私が一番覚えているセリフがあります。
それは「周りの人から何を吹き込まれたかは知らんけど」です。
つまり事業所側は、私がこういった話を持ち出したのは誰かの差金だと思っているわけです。
この言葉を聞いた時、私は物凄く腹が立ちました。
私のことをとやかく言うのは構いません。ですが、私の周りの人、家族や友人や私が大切にしている人のことをとやかく言われるのは意味が分かりませんでした。
実際、今回私が直談判したのは、誰かに促されたのではなく私の意思です。周りの人は何も関係がありません。
他にも私の人格否定するような言葉を色々と投げられました。思い出すだけでも吐き気がするので具体的な事はここでは伏せますが、流石にメンタルにきて、数日寝込みました。
寝ながら私は「こんな思想を持っている人の下にはいられない」と強く思い、泣きました。
そんな中、先輩利用者であるAさんが個人的に連絡をくれました。
この時点でAさんは一般就労が決まっていたのですが、なぜ彼女が一般就労に踏み切ったかを私に説明し始めました。
なんと、それは私と全く同じ状況になったからでした。
Aさんも現状に不満を持って直談判したところ、私と全く同じことを言われたそうです。
月10万渡す話も同じくされたそうで、その話を信じてAさんはしばらく頑張っていたらしいのですが、最後まで実現されることはありませんでした。
だから自分は事業所を出て一般就労するのだと、Aさんは私に教えてくれたのでした。
⑨就職活動と退所
1回目の就職活動と退所
施設長との直談判とAさんの話を受けて、私は事業所を出て一般就労するために就職活動を始めました。
ですが、なんと1回目の会社で、面接一回、その場で内定が決まってしまいました。
今思えば、この時点で激ヤバ臭なのですが、どうしても早く事業所から抜け出したかった私はこの会社に勤めることにします。
そして、まず事業所には言わず、計画相談の方に連絡して事業所を辞める手続きをしてもらいました。
何故、事業所ではなく計画相談に先に言ったのかというと、事業所に先に言うと絶対に揉めて辞めさせてもらえないと思ったからです。
それから、当時、事業所側が就職するAさんに対しての当たりが強く、かなり可哀想でした。その状況を知っているからこそ、絶対に自分が就職することを知られたくなかった私は「事業所には就職で辞めることは黙っていてほしい」旨を担当の相談支援員に伝えました。
相談支援員の方は少し渋っておられましたが、以前から私が不満を漏らしていたことも知っていたので、最終的には引き受けてくださり、円満に事が進みました。
ちなみに、施設長や他の利用者には私が体調不良で辞めるということになっています。本当の理由を知っているのは、Aさんと一部のスタッフ(信頼できる方にだけお話ししました)くらいです。
そして事業所を辞めてから、1ヶ月くらいで内定をいただけた会社に入社したのですが、仕事内容が全然違うし、悪口ばかりで人と合わないし、重労働すぎて倒れそうになるし、雇用契約を結んでもらえないどころか、謎の怪文書を渡され(人とはこうあるべき的な文書)、体調を崩し、三日で辞めました。()
雇用契約を結んでいないので三日で辞めれました。こんな会社もあるんだなぁ、事業所では人間に恵まれていたなぁ、と辞めたことを少し後悔します。
2回目の就職活動
体調が少し落ち着いた後に、もっと真面目に就職活動をしようと決意します。
まず、私が行ったことは
・どんな仕事がしたいか言語化する
・今の自分の市場価値を見るために求人に応募する
です。
デザイン業界への就職を促された頃は、デザインは趣味としてしか見ていませんでしたが、約一年半勉強してみて、自分はデザインが好きだということがわかりました。
なので、デザイン業界への求人に挑戦してみたいと改めて思い、いくつか応募してみることにしました。
ですが、応募前に壁が立ちはだかります。
実務経験2年以上の壁と4年の空白期間
デザイン系の求人の必須事項が実務経験2年以上でした。
未経験ありで雇ってくれそうな求人は殆どありません。また、元来デザイン業界はやりがい搾取的な風土が多く(未経験OK現場は特にそう)私のような体弱弱人間とは相性があまりよくありません。
デザインの道へ行きたいのなら、アルバイトで経験積んで正社員を目指すしかないと思い、片っ端からアルバイト求人に応募してポートフォリオを見てもらい、自分の市場価値を知ることから始めました。
あわよくば上手く事が進んだらいいな〜と思っていたのですが、結果は振るわなかったです。直接、面接で経験不足だと言われたこともありました。事業所在籍中に感じていた「デザイン向いていないな」「もっと勉強しなきゃ」という思いはある意味的中していました。
そして、私はクローズで就活をしていたのですが、絶対に聞かれることがありました。それは、
・何故、前職の営業をやめたのか
・4年空白期間があるのはどうしてか
でした。
※この「4年空白がある」というのは、就労移行や就Bに通っていたことは履歴書に書くことができません。よって私は、前職の営業から就Bを辞めるまで空白期間が生まれてしまいました。
この点についてどう説明するかが、就活では肝になってきます。クローズなら尚のこと、就Bの話は避けたかったというのが本音でした。
正直、めちゃくちゃ困りました。先方が4年の空白を不思議がるのは当たり前です。なるべく嘘をつかないような回答を心がけ、
「病気をしてしまって退職した」
「コロナ禍で思うように就職活動ができず在宅でデザインの仕事をしていた」
と答えていました。(これが良かったのか悪かったのかはいまだにわかりませんが……。)
デザイン会社以外も受けたりもしました。でも、やはり結果が振るわず。デザインも向いてないし、他の職種もダメで、一体どうすればいいんだよ!!!と途方に暮れました。
内定はもらったけど、面接時点でよくないと思って辞退した会社。普通に落ちた会社……。
すごく行きたかったのに落ちてしょんぼりしたり、書類で落とされて泣いたりもしました。
3ヶ月くらいみっちり就活をしていたので、毎日ボロボロでした。落ちるたび、自分に自信がなくなりました。
そして、4年も空白を作ってしまったことにも非常に後悔しました。
確かにこの4年で色んなことがあったけど、その”色んなこと”は会社の業務では役に立ちません。役に立てるとしたら、こうして経験談としてnote記事として残すくらいのことしかできません。
でも、どんなに嘆いたって失った4年は戻ってきません。
私はできる限り、前職での営業職での話や学生時代にしていたサークル活動など、今アピールできる全てで自分のできることをアピールする努力をしました。
それから、少し前にアンソロジーの主催をしたりしていました。
流石にこの話は面接では言えませんが、凹みそうになった時は「でも私アンソロジーの主催やったし……偉いよ」と自分に言い聞かせてたりしていました。
そうやって自信を取り戻して「私はなんでもできる!」という気持ちでいました。勿論、自信がない業務について触れられたときは素直に自信がないと伝えていましたが……。
何度も試行錯誤を繰り返し、ご縁あって、ついに自分の納得がいく形で内定をいただけることになりました。
どんな仕事か詳しいことは控えますが、ざっくり言うとクリエイティブ系です。
働き方についても問題がなさそうで、最終面接では持病があることを正直に伝えました。(病名までは伝えていません)
その上で内定をいただけたので、今のベストは尽くせたかなと思っています。
【補足と追記】
就活では、自分の力不足を何度も痛感しました。
実務経験もなければ社会経験もほぼない。当たり前ですがそんな人間に対しては門前払いが多く、内定をいただいても明らかにブラックな会社だったり……。(7月に働いた会社も雇用契約をしてもらえない滅茶苦茶な会社だったし…)
それでもこの度、自分の納得いく形で内定をいただいたのは、何かコツがあったわけではなく、ご縁と運だと思っています。
しいて言うなら、面接では誠実に答えるようにしました。できないことはできない。できることはできる旨を率直に伝えました。
空白期間については、クローズで就労したいという思いもあり、”病気療養で退職し、在宅で仕事をしていた”ことにしていましたし(あながち間違ってはいない)、ポートフォリオには就Bでデザインを学んだことを正直に記載しました。
これを、良いと思う会社も悪いと思う会社もありました。ですが、私は良いと思う会社に就職したかったので、このスタンスは曲げませんでした。
あと「フリーランスは考えなかったの?」とよく聞かれますが、一時期検討したことがあります。ですが、やはりフリーランスは横の繋がりが大事で、私が思っている以上にコミュニティの結束が強いと感じました。私はたった一度だけ、とあるデザイン系のコミュニティに参加したのですが、疲れ果ててしまいました。そんなこともあって、私は正社員に拘って就活していました。(あと、社保がどうしても欲しかった……!)
ですが、デザインでもし就職するのなら、アルバイトで経験を積んでからじゃないと厳しいと感じ、例外的にアルバイトの面接も受けていました。(全て落ちてしまいましたが……)
ちなみに、障害者雇用は考えてなかったです。
前の事業所で障害者雇用をしていたことがある方と何人かお話ししたのですが、一般とそんなに変わらない仕事量で、障害に対する配慮もなく、お給料も低くて病んだ話を聞き、あまり良い印象がありませんでした。もしかしたら、良い障害者雇用もあるんでしょうけど、私は現状の症状だと必要ないかなと感じたので、障害者雇用は必要はないと判断しました。(あくまで私個人の判断です)
⑩現在の私
正直いまだに、あのタイミングで事業所を辞めてしまったことを後悔していますが、私が辞めた後に信頼していたスタッフたちが辞めたという話を耳にしたので、在籍してたところで私の居場所はなかったかもしれません。
環境は人を変えるということ
就活中は、何度も自分に自信をなくしてはアンソロ主催功績?を思い出して奮い立たせていましたが、この4年トータルで考えて、周りの人の支えは大きかったです。
私は、今までの人生で肯定されることが少なく、それが自信のなさに繋がっていたと思っています。
ですが、丁度ファイアーエムブレム無双風花雪月が発売された頃に、後に恋人になる人物と出会いました。この人がまぁすごく私を肯定してくれまして。恋人関係になってからも私は感情の波で「私なんていなくなっちゃえばいいんだ〜〜!!!」と暴れたりしたのですが(メンヘラやんけ……)、それでも根気強く肯定的な言葉をかけてくれていたのです。
あまりにも私を肯定してくれるので、私もだんだん脳が麻痺してきて「私ってすごいのでは!?」と自分に自信がついてきました。
そうなると、家族や友人の言葉も自分の耳に届くようになってきました。
そこで気づいたのは、みんなずっと私に肯定的な言葉をかけてくれていたのでした。私はますます脳が麻痺して自信がついてきました。
そして、事業所でも多くの人が私を受け入れてくれました。
「私ってこの世に居ていいんだ」と、どんどん自分に自信が持てるようになりました。
実は私は、過去に実の祖母から「あなたは生まれてきたのが間違い」だと何度も言われた経験があります。それが知らぬうちに心の傷になっていて、自分の存在価値に疑問を持っていました。
しかし、脳が麻痺してしまった今は思えます。
私はここにいていいのだと。
そう思えるようになってからは、自分を大事にできるようになった気がします。症状が酷かった大学時代の私は、あまり自分を大事にできていなかったし、自己肯定感も低かったです。
今も、根っこの部分の私は自己肯定感が低いと思います。
でも、周りの人たちが私のことをしっかりと見て、良いところを教えてくれます。
ありがたいことに、今の私の環境はそんな人たちに囲まれています。
何故、私がそんな環境に身を置けているのかは分かりません。
ですが、日々感謝することは忘れないようにしています。
就活中も、周りの声には何度も助けられました。
特に、高校や大学から関係が続いている友達たちには本当に感謝しています。症状が酷い頃から見離さず、ずっと仲良くしてくれてありがとう。
さらに、4年の中で同人活動もちまちましていたのですが、イベントに出た際にお手紙や直接応援のお言葉をもらえるのも嬉しかったです。
私が今まで書いてきたnote記事の数々も「面白い!」と言ってくださってありがとう。その言葉、一つ一つが私の生きる励みです。
このように、周りからの肯定的な言葉を受ける環境というのは自己肯定感の低い人間の認知バイアスを変えると私は思います。
脳ってかなり騙されやすいみたいで、人に「こうじゃない?」と言われるだけで「そうなのかも?」と思えてくるものです。
私はこれまで自信がなかったから、何かを望んではいけないと本気で思っていたし、2度目の一般就労までかなりの遠回りをしてしまいました。
ですが、FE無双風花雪月で勇気をもらって就Bに行く決意をできたのも、就Bを辞めて一般就労に踏み切ったのも、就活をやり切ったのも、全て、自信がついたお陰です。
私は、周りの人たちのお陰で、生きる自信がつきました。
環境が、私を変えたと思っています。
そして今ーー。
実は1月から入社なので、まだ働いてません。
三日で辞めた職場とは違って、きちんと書類や報連相がしっかりされているので、変な会社ではないと思います。ですが、まだ働いていないのでなんとも言えないですね。正直怖いです。
でも、これが私の第一歩になるかもしれないと思うとワクワクする気持ちもあります。とりあえず今は、積みゲーを消化しつつ、勉強不足なところもあるので入社までにスキルを磨いていきます。あと、ちゃんと起きる練習しないと。これが最後の人生の夏休みになるようにしたいです。
また働き始めてしばらくしたら経過記録の記事を書けたらいいなと思っています。
【最後に】
書いてるうちにしっちゃかめっちゃかになってしまったのですが、いかがでしたか?
正直私は単に運が良かっただけで、障害者の全員が全員、4年間空白があっても就職できる!とは言いません。
そして、自分が障害者だと認定されて安心した部分もありましたが、正直大変なことの方が多かったですし、絶対こんなルート辿らない方がいいです。ストレートに就職した方が絶対いい。
ただ、私と似た境遇の方もいると思います。先述した通り、障害者の就労に関してや、福祉サービスについての情報は少ないと思っています。そういった情報を欲している方々に、当記事が少しでも参考になればと思います。
とはいえ、ここまで立て直すのに4年もかかってしまいました。最初はすごく落ち込んでいたのですが、4年で済んで良かったのかな?と最近は前向きに考えるようにしています。
ですが、双極症に関していうと完治したわけではなく、現状ただ落ち着いているだけにすぎません。今後も主治医と相談しつつ、しっかりこの病気と向き合っていきたいです。
これを読んでる方がどんな方かは分かりませんが、同じような双極症当事者でしたら、一緒に頑張っていきましょうね!
勿論、そうでない方も一緒に世知辛い社会を生きようぜ!!!
※注意※
ここで書かれた症状・福祉サービスなどについて、現在と違っている可能性が御座います。当記事ではあくまで参考程度で留め、今一度ご自身で調べ直してください。当方は一切責任を負いません。
最後に、4年の中で非常ためになった?ことを皆さんにご紹介します。良かったら参考にしてみてください。
①ファイアーエムブレム無双風花雪月
私の人生に勇気と彩りをくれました。このゲームに出会ってなければ今頃どうなっていたことか……。何事もきっかけって大事です。
②ジャーナリング
書く瞑想と言われているジャーナリング。自身の思考や感情をノートや手帳に書き出すマインドフルネスです。
私は書くことが大好きなので、よくノートにぶちまけていました。おすすめは真っ白のノートに自由に書いてみること。
頭の中がスッキリするし、これで私は事業所を辞める決意をした()
ジャーナリングの詳しいやり方についてはYouTubeで「ジャーナリング 書き方」などで検索してみるとたくさん出てきます!
③弱みが強みに変わる! 3秒ポジティブ変換ブック
こういう自己啓発系って苦手なのですが、就B在籍時代に信頼していたスタッフがおすすめしていたので騙されたと思って読んだら良かった。
最近の自分の考え方がこんな感じなので、「合ってたんだ!」という安心感と「そういう考えもあるのか」という目から鱗感。
そして著者は若い方なのにかなり苦労されていて、みんなそれぞれ色々あるのだなぁ〜と改めて思うようなそんな一冊でした。
自己肯定感低めの方には非常に共感できると思うので(私は「自分の写し鏡か?」と何度も思いました)、是非おすすめしたいのですし、一つの読み物(エッセイ)としても面白いです。
④YouTube
双極症の情報を集めるのにYouTubeをよくみていました。鬱状態が酷い場合、本だと頭に入ってこなくって……。
おすすめのYouTubeチャンネルをご紹介します。
・双極はたらくラボ
当事者である松浦さんが色んな観点で動画発信されています。
また、「双極はたらくトーク」という当事者のオンラインイベントもされています。こちらには私も参加したことがあり、参加者の皆様もお優しく、非常にためになりました。
・加登伶 さん
以前は双極症の動画発信をしていた加登さん。現在は双極症の診断が外れたそうですが、そうでなくても彼女は非常に聡明で尊敬しています。視聴者のお悩み相談が特に秀逸です。
諸事情で動画を全削除されていましたが、現在再投稿されておられる最中です。非常にわかりやすくスッと入ってくる動画なので是非。
↑個人的にすごく腑に落ちた動画
・ぴょん さん
現在は動画投稿をされていらっしゃらないですが、当事者の方です。日常をメインに動画を作られていますが、共感できる部分がかなりあり、非常に救われました。
⑤みんなの双極症
医師でありながら当事者である南中先生の著書です。双極症の本は色々ありますが、個人的にはこれが1番分かりやすかった。おすすめです。
他にも色々あると思うので、思いついたら順次追加していこうと思います!ここまで読んでくださりありがとうございました!