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“障害者はズルい”。

「「障害者を売り物にするのか」――。これまで活動してきた中で一度だけ、直接そういうメッセージをもらったことがある。(中略)また、「障害者のアートを特別扱いするなんてズルい」といった趣旨のメッセージが、アーティストとして活動する方から届いたことがある。(中略) でも、「障害者はかわいそう」と思われてきたこの世の中で、「障害者はズルい」という感情が生まれてきていることそのものが、変化の兆しだと思うのだ。」

(『異彩を、放て。――「ヘラルボニー」が福祉×アートで世界を変える』松田文登・松田崇弥著、新潮社、2022、pp.178-179)

もし、上記の引用にある「障害者はズルい」という発言を正確にモジるなら、「健常者はズルい」です。
例えば、こんな風に↓。(過去記事)

 このように、障害者にとってできることがあるからといって、それが本人の利益になるとは限らず、むしろ罠に嵌(は)められる切っ掛けになる場合もある。
 こんな風に障害者はなまじできることや得意なことがあるために、むしろ不利益を被る場合もある。

 そうでなくとも、今まで障害者(や、健常者でもない人)は、アートの世界でも除け者にされてきた。
 例えば、あるデザイン専門学校では「持病のある人の入学は禁止」だったし。(今はどうか知らない。)

 そんななか、今から40年前の1983年、私は嘘を吐いてその専門学校に入学した。
 病気(障害)を隠して入学したのだった。

 今の時代だったら、障害者差別禁止法があるから、もしそのような学則が今もあるなら、おそらく学校側が糾弾されると思われるが、まあ、嘘を吐いて入学しても、良いことはないですよ。
 神さまはそんな私を、劣悪な人間関係に落とし込んで、思い切り、懲らしめました。
(そこら辺については、2冊目の手記(拙著『平行線 ある自閉症者の青年期の回想』遠見版pp.185-253)に詳しく書いた。)

 そんな私の夢は、私みたいな障害を持った人が、嘘を吐かなくても、自由に学校に入学できること。
 差別やヘイトや嫌がらせに遭うことなく、学園生活を送り、学ぶことができること。
 今、その学校は人が集まらなくて困っているみたいだが、何も大人に入学を媚びなくても、障害者を受け入れればいいと思います。

まあ、増築に増築を重ねた校舎ではバリアフリーは無理か……でもその辺はデザインで何とかなるでしょ、デザイン学校なんだから。
 というか、「障害者、学ぶ、デザイン。」というキャッチコピーがどこかの学校にあってもいいと思う。
 というか、障害者がアートやデザインについて学べる機会についても、この法律(障害者による文化芸術活動の推進に関する法律)で明記して欲しかった。。。

 というわけで、今までは健常者ファーストで世の中の仕組みやら制度やらがデザインされてきた。
 そんな中で、自分のようなものは、ずっと不利益を被っていた。
 つまり、これまでずっと長らく「健常者はズルかった」んです。

 で、障害者のアート活動についてだが、例えば障害がある人がギャラリーと交渉してスペースを借りて個展するだけでも大変だと思うし、
 あるいは、クライアントとのやり取りのなかで、突然、予期しない事態の変更について言われてパニックになったり。。。

 実際、3冊目の手記(↓こちらに転載)では省いているが、

 謎クライアントからのそうした電話の後で、
「わからない。わからない。わからない。わからないわからないわからないわからない、わかわかわかわかわか、わわわわわわあわわわあわわああああああぁぁぁあぁあああああああ」
となったりで、もしそうしたプチパニックが電話中に生じていたなら、恐らくクライアントは当惑したか、あるいは激おこになっていたかもしれない。

 このように障害者は、作品作りはできても、(周囲がお膳立てでもしてくれない限り)売り込みと交渉で不利になる。
 したがって、障害ある人の表現活動に、障害のことを解ってくれるエージェントさんなり業者さんなりが介在・介入することは、あってもいいと思うし、また必要なことだと思う。

 何よりも、独自のこだわりがある障害者にとって、クライアントからの、
「大至急、すぐ送れ」
 という突然の急な連絡は、障害のために対処・即応が困難などという以前に、恐怖ですらある。
 だから、そこら辺を代わりに受けてくれる何等かの組織やシステムは必要だと思う。

 もし、あらかじめ納期や締め切りが事前に判っていれば、それに合わせて生活や予定を組み立てることもできる。
 だが、何の予告もなく突然、「大至急すぐ送れ」と電話がかかってくると、自分の生活やそうした予定が木っ端みじんになってしまう。
 そして自分は、頻繁かつ不規則にやってくる、そんな破壊力に耐えられなかった。
 つまり、創作活動そのものはできても、それを仕事に繋げることは、当時にあって不可能と結論した。

 アートの世界(音楽も)は、健常者でも認められるのは大変だが、このように、障害者の場合は、認められるようなことがあっても、このように、その先がうまく行かないのである。

(手記(拙著『平行線』Ⅳ章【音楽活動】の項)では書きそびれたが、とあるイベントでの自作曲の録音のとき、私のコミュニケーション能力のダメダメさのために、スタジオのエンジニアさんと齟齬を来したり。。。)

 冒頭の引用元の書籍の著者らの起業した会社は、障害者の作品だから問答無用に受け入れているというのではなく、障害者の作品のうち、スゴいもの、ハイグレードなものを採用している。
 彼らのやっていることは、それまで障害のために上手くいかなかったこと、不可能なことを補完しているといえよう。
(ただ、その本をお読みになれば解るように、その会社の事業は、実際にはそれ以上のことなのだが。)

 そういう訳で、障害者だからといって、べつにズルくない。
 ある意味、これで健常者と同じ土俵に立てたといえる。
 だから、勝負は、これからだ。

 恐らく、この「障害者はズルい」という発言の主は、常人の感性を凌駕した障害者によるド迫力の作品を観たことがないのだと思う。
 今まで埋もれていたそういう作品が世に出ることは、少なくとも悪いことでは決してないと思う。

 もし、私の若い時にこういう会社があったなら、私はデザインの道を放棄することはなかったのではないかと思う。
(まあ、コミュ力がアレだから、どのみち仕事にはならなかったとは思うが。)

 なお、この本『異彩を、放て。――「ヘラルボニー」が福祉×アートで世界を変える』は、
 福祉の本としても、アート関係の本としても、起業の本としても凄いというか、目を見張るようなお話や考えさせられるお話でいっぱいで、1冊で3度おいしい、とても元気の出る本です。◆
(2023.9.24)

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