
ヒューマニズムの欠落した、《日本》という国。
「若年層、死因1位が「自殺」 先進国で日本のみ…深刻な事態」というタイトルの記事が2020年10月28日付の産経新聞に載った。
https://www.sankei.com/life/amp/201028/lif2010280004-a.html
その記事の中で、ある識者は「メンタルヘルスのリテラシーに関する教育が不十分で、日ごろの悩みをどう解消するかなど自殺予防のための知識が足りない」と語る。
だがそれ以前に、私が自分の体験から言わせてもらうなら、そもそも支援者や専門家たち自身のリテラシーが足らないのではないか?
私も若いときはいろいろな支援者や専門家のもとを頼ったものだった。そこら辺のことについては、既に手記やエッセイで詳しく書いていることなので端折るが、1960年代生まれの私が中学生のときから30歳になるまでの18年の間、いわゆる支援者と呼ばれる人たちと関わって得た体感で言うなら、まともな支援者は10人に1人いればいいほうで、そのうち《モンスター支援者》は10人のうちの半数ぐらいといったところである(※1)。
もちろん昨今は当時と違って、発達障害への理解と啓発がかなり進んでいるから、もしかしたらこの割合は変わってくるのかもしれないが、いずれにせよ、まともな支援者が10人に1人しかいない状況となると、前途はほぼ絶望しかないから、支援者を見限りましょうという話になる。
そういうこともあり、私は支援者に相談する代わりに、自分の体験を手記にした。
一連の拙著を通して私が指摘したいのは、教育関係者、メンタルヘルス業界、そして不登校業界に普通にみられる、関係者・支援者たちの人間性(ヒューマニティ)の欠如、対応の杜撰さ、そして感性の著しい貧しさである。
要するに、支援者といえども、少なくともその一部?に関して言えば、いじめ体質なのである。
たとえば、私個人を集団で吊し上げようとした某有名不登校支援団体(拙著『自閉女の冒険』pp.140-144, p.217)もさることながら、
相談者の親に向かって「本人は相談にかかる前から『死にたい』と思っていたのだから、相談にかかったあとで自殺しても、それは当センターの責任ではありません」と言ってのけてみたり(拙著『平行線』p.98※2)、
あるいはまた、せっぱ詰まった状態で電話を掛けてきた若い人に、「どうしてこんな時間に電話を掛けてきたんだ?」と「説教」して相談者を死なせてしまう支援者(『自閉女の冒険』p.59)の人間性(ヒューマニティ)を私は疑う。
そういう支援者は、人間性における何か本質的で重大な欠陥を有しているとしか思えない。
《ヒューマニズムがない》というのは、言葉は悪いが、そのまま字義通り“人でなし”と言い換えてもいいと思う。人としての自然な情愛がないので、支援者のもとに相談に来る人に対して、残酷で惨い対応をする。
私はそうした支援者たちを、《モンスター支援者》(※3)と名付けて、2020年2月に発刊の拙著の手記のタイトルに含めた。
なぜそうした《モンスター支援者》が世の中で跳梁跋扈するのかというと、一つには、そもそも日本の社会や文化そのものがヒューマニズムをないがしろにしているというのがあると思う。
というのも、日本の国の中心は《人》ではないし、《人》を幸せにする思想がないし、《人》を思い遣るわけでもない。
長らく昭和の時代からずっと、学校ではいじめを行う生徒が指導されることはなく、いや、それどころか、先生たちが率先していじめを常習し、生徒たちもそれに倣った。
そうした価値観と行動基準の中で飼い慣らされたかつての子どもたちが大人になり、社会に進出し、職場で経営者や上司や同僚として従業員に、家庭で親として自分の子どもに、学校で先生として生徒たちに、いじめを行うようになった。
そうした世代間伝達のために職場や家庭や学校はますます荒廃し、人々は過度のストレスを受け続けて活力を奪われ、心身を壊し、ひきこもりや障害者になっていく。
そのようにして年々増大する社会保障費は、この国の財政を圧迫していく。
ここのところの日本の国力の低下には、そうした日本国民・市民のモラルとメンタルヘルスの状態も少なからずあるのでは?と考えている。
まだ私が子ども・若者だった1970年代後半から80年代にかけて、私は、《このままこの国の市民がいじめをやり続けたら、いずれは国が滅ぶ》という、強烈な危機感に突き動かされて、自らの経験したいじめや教育問題について、各マスコミに投書し続けたのであるが、当時はどこも振り向いてはくれなかった。
それどころか当時のマスコミは、「いじめられる側にも問題がある」といった言説を振り撒き、いじめの正当化に加担した。
今まで三、四〇年間、いや、ここ半世紀近くの間、これだけいじめが社会問題化しながら、ずっと手をこまぬいてきた結果が、日本という国全体のブラック化である。
それは、この日本という国の存続の危機でもあるのだが、もしこのさき、この国が滅びるとしても、それはこの国とその市民たちが《人》を粗末にしてきたことへの、当然のツケであると思う。
冒頭の記事に戻るなら、若い人(に限らず)の自殺が多いのは、そのような訳で、日本人の民度の劣化と、相談相手や助けてくれる人として信頼に値する支援者や周りの人たちの不在が大きいと思う。
どのように支援者たちが酷いのかという事実また具体的なことについては、手前味噌で恐縮だが、『自閉女(ジヘジョ)の冒険』などの一連の拙著(※4)で詳細に書いたので、どうかご愛読いただけるなら幸いである。◆
https://www.amazon.co.jp/dp/4866161043
(※1:これは私のほうから支援者を探し求めて得た割合であり、現在私が交友している支援職の知人にはそういう酷い人は、おそらくいないと思う。)
(※2:遠見書房版。)
(※3:拙著『自閉女(ジヘジョ)の冒険』の最終稿を校了した2019年10月末の時点にて、「モンスター支援者」をネット検索したところ、検索結果は一つもなかった。)
(※4:一連の拙著の延長で、被支援者(とりわけ障害当事者)の立場から論じた《支援者研究》の必要性を感じるが、もしそうするなら、私は日本国内の支援者からの支援しか受けていないので、壮絶な日本文化批判・日本人への強烈なヘイトスピーチになりそうなため、止めておきたい(とりわけ比較文化論的な視点では)。既刊の拙著でも、じゅうぶんに日本disかと思われるが、そうならないために、拙著『変光星 ある自閉症者の少女期の回想』の「おわりに」で、こころもち日本ageをすることで、一応バランスは衡ったつもりではあるのだが。)