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BBちゃんと一緒にぐちゃぐちゃに泣きまくる奏章Ⅲの感想
遅ればせながら、Fate/Grand Order(以下、FGO)の最新シナリオ、奏章Ⅲ「新霊長後継戦アーキタイプインセプション」(以下、奏章Ⅲ)をクリアしました。
2部6章でシナリオが止まっていたので、9月から一気に6.5章、7章をクリアして、終わりぎりぎりの10月末に駆け込みクリア。
原稿やらなんやらを投げ捨てて、迎えたのは月のドバイ。
今日はこのシナリオの感想を話していきます。
やっぱりきのこは天才だ。
今回のシナリオは奈須きのこ手ずからのもの。
菌糸類が手掛けるシナリオのどれもが高い評価を受けているわけで、今回の奏章Ⅲもご多分に漏れず、最高のお話でした。
今回は「人類がAIに置き換わっていったとしたら、その先に何が待ち受けているのだろうか」というテーマでのお話。
まさに、今の時世にとって避けることのできないシナリオでありました。
chatGPTの出現以後、我々の暮らしの真横にはAIが常に存在しています。
それは道具であり、パートナーであり、侵略者のように、様々な形で我々の生活に影響しているのです。
既にその知能はIQでは120台はあるのでは、という話も聞いたことがあり、近い将来人類を上回る存在として君臨するのではないか、とも思われます。
奏章Ⅲを通底して存在する問いの一つは、「自らよりも優れたものが生まれたときに、果たして人はどうあるのだろうか」であり、きのこ節で応えるのです。
綺麗なものは綺麗だから
さて、AIが出現し人類を超越したらな、AIが反逆するのではないか、という問いが古くからある訳です。
これにきのこが応えるのですが、またその答えがロマンチック。
つまり、「ただそれが好きだから」だということ。
それは人間が自然の景色をただ美しいと思うように、AIは人間への奉仕をただ好む、という答え。
この部分を読んだ時、「そ、その手があったかあ!」と膝を打ちつけながら、このロマンティズムなきのこ節に惚れ惚れとしてしまいましたよ。
AIが次の人類になるのなら、その根底には人類と同じような「ただそうある感情」があってしかるべき。そして存在意義からして、彼らの奉仕とは命令である以上の意味がある、というのを感情によって証明するのです。
この辺りは7章の恐竜人類にも通じる側面がありますが、「ただそう感じる」というロマンで応える勇気が本当にすごい。
自分などでしたら妙な理屈を捏ね繰り回してしまいそうですが、きのこはただ「好きだから」というドシンプルな答えを返してくるわけです。
シンプルだからこそ、美しい答えでもあります。
霊長の目的
さて、現代社会の我々はAIの出現においても仕事が減る様子は見せず、有閑な社会の到来はまだまだ遠い。
ただ奏章Ⅲではこの社会が到来し、人類の仕事も遊びも何もかもが解き放たれ、電子の中で事実上不老不死となった世界になりました。
そうすると一つの疑問が、そして今にも通じる疑問が残る訳です。
つまり、「私たちは、何のために生きるのか」という究極の問いです。
現代哲学でも解き明かせないこの問題。
私はよく臨床の場面で患者さんに問われ、答えに窮するわけです。
きのこはひとえに、「次世代の育成である」と答えるのです。
この長く素晴らしいモラトリアムの中で
今回のボスでもあるBBはFateシリーズのうち、EXTRAと呼ばれるシリーズにあります。
このシリーズの中で一つのキーワードとして「モラトリアム」が出てきます。
モラトリアムとは、猶予期間。現代社会では、社会に出るまでの学生時代を指す言葉になっています。
いつか務めを果たすまでの、長い自由で青い時代です。
奏章Ⅲでは人類は次世代の霊長として「アーキタイプ」を生成することになります。
まさにこれは人類の後輩にあたる訳であり、我々を超越する存在でもあります。
この自身の後継であり、しかし自身を上回る後継を作り上げたことが、この世界の終わりを決定づけることになる訳です。
つまり、「自分たちより優れた者は認められない」「置いていかれたくない」という、ルサンチマンにも似た執着の感情であり、本シナリオのラスボス、「ムーン・キャンサー」です。
ただ、この気持ちは我々の誰しもが抱く感情です。
例えば生成AIにおいては自分の作品や絵が取り込まれ、使われてしまう、自分たちを上回るのではないか、という感情がそれに近いかもしれません。
(注:私が生成AIを推進したい、というわけではなく、ムーン・キャンサーの立ち位置、感情を理解するならの話です)
もしくは、学生時代、自分の部活の後輩が自分以上に優秀だったとき、あなたは嫉妬せず貶めずにいられますか、という話です。
今を生きる人類というテーマを描き続ける奈須きのこが、「次世代」というテーマを描く時には、このムーン・キャンサーを描かずにはいられず、しかし、人類は乗り越えなくてはならないと位置づける。
乗り越えられなかったドバイは剪定されかけ、BBドバイ(ラストスロット)によって何とか辻褄を合わせることになります。
シナリオでは主人公が、例え自分が犠牲になったとしても後続を信じて送り出す人々の力を借りてこれに打ち勝つわけです。
例え後続を羨む気持ちがあっても、それでも送り届けなくてはならない。
そのための猶予期間、モラトリアムの中で我々人類が真に立ち向かうべき問題が、このムーン・キャンサーなのでしょう。
もしこの問題を乗り越えたとき、私たちは晴れて卒業式を迎えるわけです。
AIという今現在の世界で跋扈するテクノロジーを、こうも美しく描き出す菌糸類には感服するほかありません。
生きる意味を「これからこの道を歩く人たちの、あるいはさらに別の生命のために使え」というドラスティックな主張には、個人主義が強い現代の中で、何故だか安心感をもたらしてくれる答えに聞こえます。
この命が遠い、様々な人々や生命に繋がると思えるからこそ、ルサンチマンのような気持ちを乗り越えることができるのではないでしょうか。
BBちゃん、本当によかったね
そして奏章Ⅲの素晴らしいポイントは、もうBBちゃんを置いて他にありません。
EXTRA CCCの最後、報われないただ一人の献身と愛を見せつけた最強の後輩は、永き時の果てに、愛した人たちにであることができたのです。
出会えるだけでなく、卒業する先輩たちから言葉を貰い、旅立ちのために背中を押してもらうことまでされたのです。
このシーンはまさにCCCの最後のリフレインであり、またその立場の逆転でもあるのですが(CCCではBBが岸波を送り出し、今回は消える岸波たちがBBを送り出す)、本来は先輩である岸波たちをBBが送り出すわけなんですよ。
ていうかね、BBが岸波たちと再会した瞬間の反応だけでもうお腹いっぱいなわけで。
必死に”先輩を知らない”BBを貫き、最後の最後でそのBBに報いる岸波たちの先輩たるや。
CCC勢としてはもうこの”卒業式”だけで感涙なのです。
もう、ぼろぼろ泣きながら進めましたよ。
こっちの泣き顔のほうが醜いぞBB。
BBはいつもお茶らけて、意地悪で、ラスボスのように見えるけれど。
AIとして人類を管理し守ろうとしているように見えるけれど。
BBの愛はAIとしての愛とは違うのです。
AIたちの愛が自然をただ美しいと思うような感情だとしたら、BBの愛とは小鳥を育て、木々を育み、一つの森を守ってきた木こりが、自分の知らぬ山々を見たときに抱く愛なのです。
ささやかな日常から生み出される愛から生み出されたBBだからこそ、その愛は深く大きい。
大事な愛だから、大事な人以外には見せない愛。
それが、このシナリオでまた見ることができたことが何よりも嬉しいのです。
ありがとうきのこ……。
勢いのまま奏章Ⅲの感想を書き綴ったわけですが、ぜひ皆さんCCCをプレイしましょう。
そうすればBBちゃんの素晴らしさにより深く気付けるはずです。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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