私たちはまだ”信頼”を知らない ~伝えること伝わること~
私の妻はコンサル業をしている。
他業種と言うこともあり、よく違う見地からお互いの仕事の助言などを求めたりする。
自分はよく「医局はクソだわー!!」とか「医者ってこんな感じで働くけど辛いわー」と愚痴るのだが、その度にガチでドン引きされる。
医者、やっぱドブラックなのね……。
そんな感じで色々話すのだが、ある時
「精神科や心理学では”信頼”をどう考えているの」
と尋ねられたことがあった
「なんだね、そんな簡単なことか。我々は信頼されることが大事な仕事なのだ。バシッと答えてやろう」
そう思って回答を考えた。
だが、脳裏にはいっこうに何も浮かんでこなかったのだ。
浮かぶとしても、「誠実なこと」とか「相手に嘘を吐かないこと」と言った、誰でも言えそうなことしか出てこない。
そのときになって初めて気づいた。
「あ、自分、信頼について、ちゃんと考えたことなかったかも」
と。
外来で信頼はあまり考えてない
思ったより自分は信頼について知らなかったことは衝撃的だった。
もちろん、外来の中で信頼を失おうと考えたことはなかった。
けれど積極的に信頼されようと考えたこともなかった。
そこでふと、ある患者さんのことを思い出した。
それなりの期間を診ていてそれなりに話はする。が、治療はなかなかうまくいかず、お互いに悩んで経過していた外来だった。
少し素っ気ない人で、なんというか、どこかビジネスライクな感じのする人でもあった。
たまさか別の先生がその患者さんを診る機会があった。診察ののち、その先生が自分のところに来て、
「あの患者さんはもるげんのことを信頼しているね」
と言ったのだ。
その患者さんからはそういう素振りとかは全くなかったので、意外に思ったのを今でも覚えている。
つまるところ、無礼にならないよう、精神科あるいはカウンセリングとしての一般的な振る舞いには気をつけている。
が、信頼されているかどうかは自分はあまり重要視していなかったのだ。
精神科・心理学での信頼
当然のことであるが、信頼は精神科や心理学では重要な要素であることは想像に難くない。
なのに分からないままなのは嫌なので、ちゃんと調べてみようという気になったわけだ。
結論から言うと、自分のリサーチした範囲では精神科は「信頼」を定義することはできなかった。
精神科の教科書、精神療法の本を合計十冊以上は当たったけれど、「信頼」というもにドンピシャな定義は見当たらなかった。
自分は心理学の教科書を持っていないので、そちらの方はややリサーチ不足である。
公認心理師の知り合いに聞いたけれど
「授業や教科書で扱った記憶はないなあ」
ということであった。
ただ、まったくの手がかりがないわけではない。
精神科や心理学領域では「ラポール」というものがある。
これは患者あるいはクライアントの関係性を示す言葉である。
このラポールが「信頼関係」という言葉にほぼ近しいのである。
また、ビジネス的な心理学領域では心理的安全性という言葉があり、ここでも信頼は関係していそうではあった。
しかし、いわゆる信頼というものは教科書をひっくり返してみても、言葉こそ載っているが、じゃあ信頼とは何なのかということについては明記されていない。
「信頼関係を作ろう」と色んな教科書に明記はされているけれども、信頼関係とは、そもそも信頼とは何なのかということについては明確に教えられていないのが実情のようだ。
誤解なきように追記すると、決して信頼関係や信頼を軽んじているわけではない。
これは逆で、信頼という概念が当たり前すぎて、定義されなくても大多数の中では意味が通じるから、これで十分なのである。
それだけ浸透してしまっている概念ともいえる。
世界に蔓延る「信頼」
精神科や心理学ではある種の当然さで「信頼」はあるわけだれど、信頼の当然さはこの世界において様々な形で存在している。
例えば現在の貨幣経済などは信頼の上で成り立っているわけだし、政治や外交においても信頼というのは重要なファクターを演じる。金融でも「信用取引」という言葉があるくらいだ。
そうでなくても、普段の生活の中で我々は様々なことを「信頼」する。
例えば貨幣であったり、仕事の契約であったり、法律であったり、あるいは身近な家族との信頼である。
驚くほどにこの世界に信頼は溢れているのだが、誰もが信頼が当然にあるように「信頼」しているのだ。
では、その信頼とはなんなのか。
「信頼」って何なんだ
ここはちょっと初心に戻り、辞書を当たって考えを整理してみよう。
また、関連する「信じる」という言葉を引くと
この「信頼」「信じる」という言葉は基本的に、「何かを当然である、全く正しいと思考を確定させる」ことであり、信頼ではそこに「他者や思考へ依存する」という要素が加わるようだ。
ただ、これだけでここまで話してきた「信頼」について、十分に語られているとは思い難い。
何かを当然であると思うことは良いが、どのようなときに人は「信頼」し、どのようにして人は「信頼」するのか、このことについては依然として分からないのである。
我々は信頼の条件、過程をあまり分かっていないが、当然のように運用している。
あまりにも当然すぎるから、疑う余地がないくらいに「信頼」しているわけだ。
そういうわけで、今回から数シリーズの「伝えること伝わること」は、信頼とは何なんだろうと自分なりに調べてみたので、これについて書いていこうと思います。
具体的には次回、精神科的・心理学的な信頼、主にラポールについて考えます。
次々回は、ある社会学者の研究から信頼という言葉の定義及び信頼そのものについて再考する。
最終回ではこの「信頼の再定義」からさらに考察を深めようと思います。
我々は絶対的な孤独な存在である。けれど、分かり合えると「信頼」している。
その信頼自体を考えることで、伝えたり伝わったりする力学をより深く、確かめることができるのではないだろうか。
それがこのシリーズ、「信頼編」の目的である。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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